十一話
「先生も結婚式に呼びたかったよね」
夕食を食べながら爽花が言った。はっと目を丸くし聞いた。
「先生?」
「瑠の油絵の先生。きっと喜んで祝福してくれたよ」
残念そうな爽花に、首を横に振った。
「呼ばなくても、天国で俺たちのこと見てるって。先生の奥さんもな」
「……あたしもそう信じてるけど」
結婚式が無事終わり二カ月が経っていた。アリアの提案で水無瀬家と新井家が協力し、二人暮らしをするための一軒家をプレゼントしてくれた。瑠が絵を描くアトリエが必要なので、二人で住むにはもったいないくらいの大きな家だ。部屋は広々としていて開放感がある。現在はダンボールにまとめた荷物を片付けている途中だ。
爽花の願いでベッドはダブルにした。瑠は少し恥ずかしかったが誰にも見られないならと考え、素直に頷いた。大人っぽくなったと感じたが二人暮らしが始まると、爽花はかなりの甘えん坊になった。アトリエで絵を描いている時以外は必ず手を繋いだり、体のどこかが触れ合っていないと不安そうな表情になる。ソファーでテレビを観る時も瑠のとなりで寄りかかるように座る。絵画で疲れた手や肩を揉んだり、とにかくそばにいようとするのだ。離れ離れだった時間が永いため、無意識に瑠の近くにいようと考えている。もちろん瑠も嫌がったり、あっちへ行けと突き放したりせず、柔らかく抱き締めてあげる。爽花と同じく瑠も触れ合っていたいのだ。寝る時は、爽花が眠りに入るまでずっと起きていた。たまに仕事が休みで遊びに来た慧に「あつあつだねえ」とからかわれるが、全く嫌な気はしなかった。爽花が愛おしく、命よりも大事な存在で、他人から馬鹿にされようと呆れられようと構わなかった。近所では「イケメンで愛妻家で理想の夫」と有名になり、若い女の子はメロメロになった。
「今日も羨ましがられちゃった。あんなにかっこいい男性と結ばれたなんてって……」
うふふ……と頬を赤くしている爽花を見て、そういえば昔は友だちでもなかったのだと蘇ってきた。喧嘩や言い争いが多く相性が悪かった。けれど今はかけがえのない生きがいとなり、心の底から爽花を愛している。人生とは本当に不思議で、偶然出会った爽花と結ばれるなどあの頃の自分は夢にも思っていなかった。ずっと独りで絵を描くだけの空しい人生にならずに済んだのは爽花がいたからだ。爽花には数え切れないほど感謝している。
「ところで、ウェディングドレスの絵、進んでるの?」
「あともうちょっとだ。楽しみにしてろよ」
「うん。額も買ってあるの。早く飾りたい」
やはりフランスで人物画の練習をしておいてよかった。爽花に会いたいと諦めず、七年もかかってしまったが身に付けておいて正解だった。花と風景しか描けなかったら爽花もがっかりだろう。努力すれば、しただけご褒美がもらえる。爽花も諦めず瑠を追いかけたから、こうして羨ましがられる日々を送れるのだ。
「……あのね、瑠に相談したいことがあるの」
爽花の表情が急に緊張したように固くなった。口調も抑揚がない。
「相談? なんだよ」
「今日、あんなに素敵だから、男の子が産まれたらイケメンになるわねって言われたの。せっかくだから子供産みなさいよって」
「子供?」
驚いて持っていた箸を落としそうになった。出産を完全に忘れていた。
「瑠は子供ほしい? あたしはほしいよ。痛くても、それに代えられないくらいの幸せが手に入るんだもん」
「……子供……か……」
ほしくないと言えば嘘になるが、あまりにも突然で答えられずにいた。
「……子供が産まれたら、俺たち親になるんだよな」
「そうだよ。あたしはお母さん、瑠はお父さん。そうやって呼ばれるの嫌だ?」
「いや……」
そこで口を閉じた。続く言葉がなかった。
「出産は大変だって、お母さんからもアリアさんからも聞いたよ。けど、自分のお腹の中で新しい命を産み出すのって、奇跡みたいじゃない。可愛い赤ちゃん、抱っこしてみたいよ」
本気で出産をしたいと伝わった。だが瑠は俯いて黙った。子供を産むためには、まず二人でしなくてはいけないことがあるのだ。
「瑠……。だめ……?」
呟いて爽花も俯いた。ショックを受けているらしく、慌てて答えた。
「そうだな。結婚したんだから子供もほしいよな。ずっと二人きりじゃ寂しいよな」
穏やかな口調で言うと、爽花は顔を上げてにっこりと笑った。
それぞれ順番に風呂を済ませると、真っ暗な寝室に入った。先に爽花が寝て、あとで瑠がとなりに寝るというやり方だ。すでに爽花は一糸まとわぬ姿となっていたが、瑠は服が脱げなかった。裸になるのが恥ずかしいのではなく、身も心も爽花に見せるのが怖かった。いつも自分の言葉は話さず我慢してきた。家族にも本音を聞かせた経験がなかったのに、爽花に全て伝えるのだ。がくがくと震え、爽花に背を向けてベッドの端に座っていた。寒くないのに足から凍り付いていく。
「どうしたの?」
起き上がって爽花がそばに移動してきた。緊張で冷や汗が流れる。そっと手が伸びてきて後ろから抱きしめられた。
「恥ずかしがらなくても大丈夫だよ。あたしも初めてだから、どうすればいいのかわからないし」
「恥ずかしいんじゃない……」
掠れた声で呟くと、驚いたのか爽花の手が放れた。
「じゃあどうして……」
聞かれても答えられず俯いて黙った。しばらくお互いに固まっていたが、爽花が脱いだパジャマを拾い身に付け始めた。
「えっ……?」
「まだ抱き合う時じゃないんだね。焦る必要もないし。瑠がその気になってからにしよう。子供を育てる親になるには時間がかかるんだよ。もうちょっと二人きりの生活を送っていよう。あたしもわがまま言ってごめんね。いつまでも待ってるから」
どうやら諦めたらしい。爽花の優しさと愛情がしっかりと届いた。
その瞬間、自分があまりにも弱くて爽花を護るどころか護られてばかりだという強い炎が胸に広がった。爽花は瑠のために、たくさん努力して頑張っていた。それなのに瑠は爽花に何もしていない。感謝しているなら願いを叶えてあげるべきではないか。愛しい爽花を失望させているなんて、自分はどうしようもない人間だと自己嫌悪に陥った。電気を点けようと立ち上がる爽花の手を掴み首を横に振った。
「いや、今やろう。逃げてたらいつまで経ってもそのままだ」
暗かったが、僅かに爽花が笑ったのに気が付いた。服を脱ぎ、爽花のパジャマも脱がせて暖かな胸を抱き締めた。心地よいすべすべの肌に包まれ、天国に昇った想いになった。
はっと目を開けると、まだ水色の空が視界に入った。時計の針は五時半を指している。いつの間にか熟睡をしていたようだ。瑠の腕の中には爽花がすっぽりと収まり、すやすやと寝息を立てている。起こすのは可哀想なので、ゆっくりと体を動かしベッドから這い出た。脱ぎ捨てた服を着て、キッチンで冷たい水を一気飲みした。ふう、と長い息を吐き倒れるように椅子に座る。つい数時間前の出来事なのに、ずっと昔のような、夢を見ていたような不思議な気持ちだった。普通はみんなこうなのだろうか。ふわふわと宙に浮かんでいるみたいで軽く頬を叩いて眠気を覚ました。その音が大きすぎたのか、爽花も寝室から出てきた。
「起きたなら、あたしも起こしてよ……」
「気持ちよさそうに寝てたから起こせなかったんだよ。イビキもかいてたし」
「イ……イビキ? やだあ。やめてよ」
相変わらずからかうのが面白い。がしがしと乱暴に髪を撫でて「嘘だよ」と言うと、じろりと目を向けてきた。
「ねえ、一回で妊娠ってするのかな?」
男の瑠が知るわけがない。首を傾げて即答した。
「俺じゃなくて母親に聞けよ」
「まあ……それもそうだね。もし赤ちゃんができたら名前はどうする?」
「まだ名前は早いだろ。まずは妊娠だろ」
少ししゅんとして爽花は俯いたが、すぐに顔を上げた。
「よし! 頑張って、可愛い赤ちゃん産むぞ!」
期待と興奮で胸がいっぱいなのだと、ふっと瑠も笑っていた。家族が増えるのは、瑠にも爽花にも素晴らしい幸せだ。




