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十話

 モチーフを探して、瑠は先生にさまざまなところに連れて行ってもらった。近場をぐるぐると散歩するだけだった瑠にとって冒険のようで、いつもどきどきと胸が高鳴った。ある日、先生が空を眺め呟いた。

「今日はセルリアンブルーの空だね」

「セルリアンブルー?」

 初めて聞いた言葉だった。先生は微笑んで詳しく説明してくれた。

「セルリアンブルーは、こういう雲一つない青空の色だよ。油彩絵具には数え切れないほどの色があって、それぞれにきちんと名前が付けられてるんだ。その中で私が一番好きなのがセルリアンブルーなんだよ」

「ふうん……。いっぱい色があるから、綺麗な絵が描けるんだな」

「そうだね。ただし立派に絵を描くためには勉強も練習も大変で難しいよ。私もどれくらい描いてきたか……」

 過去を思い出しているのか、先生はあてもない宙をじっと見つめた。勢いよく瑠は先生の手を握り締めた。

「大丈夫だよ。先生に教えてもらえば、どんなものも描けるよ。俺、先生の画力に憧れてるんだ。もし俺が上手くなって絵を描いたら見てくれる?」

 ぽんぽんと瑠の頭を軽く叩き、先生はにっこりと笑った。

「もちろん。作品だけじゃなくて、成長した瑠の姿も見てみたいな」

 初めて会った時はガイコツだったのに、現在は普通の人間になっている先生に気が付いた。そして固く無表情だった瑠も柔らかく微笑み、普通の小学生になっていることに驚いた。

「難しくても、先生がそばにいてくれたら乗り越えられるよ。俺、頑張る」

「努力すれば、いつか夢が叶うね。先生が弱気になっていたらいけないね」

「そうだよ。どんなに無理で奇跡でも起きない限りありえないと思うことも諦めてはいけないって教えてくれたのは先生だろ」

 お互いにしっかり頷き、先生もぎゅっと瑠の手を握り締めた。

 しばらく経って、ようやく瑠も筆を使う日がやって来た。水彩よりも油彩はとてつもなくレベルが高く、覚えることもたくさんあって緊張でいっぱいだ。慣れていないせいで服にも体にも絵具を付けて、先生に気を付けるよう注意されてしまった。油彩絵具は布に付くと洗濯しても落ちないという厄介な絵の具で、何着も服をだめにした。ただ瑠は慧の古着で、汚しても家族には怒られなかった。

 目指すのは薔薇で、ほぼ毎日先生の屋敷にいて油彩の勉強を続けた。朝から晩まで屋敷の中に引きこもり、外に出かけない日も多かった。もちろんすぐに慧から不機嫌な言葉がかけられた。

「学校休んでどこに行ってるんだよ」

 ふん、と横を向き、ぶっきらぼうに答えた。

「慧には関係のない場所だ」

「油絵の先生のところだろ。ちゃんと学校通わないと俺が責められるんだよ。病気なのかとか、いつ登校するのかとか、みんなに聞かれて困ってるんだよ。あと、そのにおいどうにかしろよ。気持ち悪くなる」

「気持ち悪くなるなら俺の近くに寄らなきゃいいだろ」

 冷たく言い切り、さっさと部屋に逃げ込んだ。こんな奴とおしゃべりなどしたくない。余計な時間は作りたくなかった。

 さすがに学校は通わないと疑われてしまうと、嫌々ながらも通った。つまらなく、教師の声など耳に入らない。常に頭の中に浮かぶのは油彩と先生の穏やかな笑顔だけだ。信じられるのはあの人だけ。俺の親は、血の繋がらない先生だけ……。

 学校生活が終わると走って屋敷に向かった。寂しかったのか先生は項垂れていた。瑠の姿を見ると、ぱっと明るい表情になり勉強が始まる。

「ごめん、先生。慧に言われて学校に通わなくちゃいけなくて……」

「瑠は何も悪いことをしているんじゃないんだから謝らなくていいんだよ。瑠がやって来るまで、ずっと待っているから」

「うん。ありがとう」

 申し訳ない口調で頭を下げると、先生は優しく抱き締めてくれた。

 そんな日々を繰り返し、瑠の画力は徐々に上がっていった。もともと才能があったのか、先生は衝撃を受けていた。

「ここまで描けるのに私は何年もかかったのに……。瑠はすごい子だね」

 褒められて照れてしまう。先生の期待に応えるべく、部屋でもスケッチブックでデッサンをしていたのだ。努力すれば夢は叶う。努力すればするほど夢が叶う日は早く訪れる。

「薔薇も、もうすぐ描けるかな?」

「薔薇は複雑な形をしているから難しいよ。まあ瑠には簡単なモチーフかもしれないね」

 やった、と興奮し、ぐっと拳を固めた。このままこうして二人きりで過ごせると信じていた。



 家に帰ると、部屋の前に慧が腕を組んで立っていた。

「においが気持ち悪いなら近寄るなって……」

「話がある。大事な話だ」

「話?」

 固い口調の慧を見返し、首を傾げた。

「俺たち、引っ越すらしいぞ」

「えっ?」

 目を丸くすると、さらに慧は続けた。

「アメリカに引っ越すんだって。おじいちゃんとおばあちゃんと暮らしてきたけど、急に母さんと一緒に暮らすことに決まったらしいんだって。ずっとフランスにいたかったけど仕方ないよな」

 がくがくと全身が震えた。雷が落ちてきたようだ。

「ア……アメリカ……?」

「俺もびっくりしたよ。フランス語しか話せないから不安だよな」

 慧には特に名残惜しいものはないようだが、瑠にはかけがえのない先生と離れ離れになる恐怖がある。また孤独になりたくない。先生とも油絵とも別れるのは辛い。

「いつ引っ越すんだよ」

「あと一カ月だって」

「一カ月? そんなに早く?」

「荷物まとめておけよ。ま、お前が持っていくのは服くらいだから、すぐ終わるな。羨ましいよ、用意が楽で。俺はいっぱい持ってくものがあるから」

 馬鹿にする顔だったが怒りではなく焦りが生まれた。

「お……俺だけ、ここにいるってできないのか?」

「えっ?」

「俺だけフランスで暮らすって。できないのかよ?」

 声が掠れて弱々しくなっていく。慧は首を傾げて返した。

「それほどフランス大好きだったのか。俺もできれば引っ越したくないけど。きっと瑠もアメリカに連れて行かれると思うよ」

 愕然として震えが激しくなった。まさか突然アメリカに引っ越すことになるとは夢にも思っていなかった。

「じゃ、そういうことだから」

 あっさりと言い切って、慧はすたすたと歩いていった。あまりにもショックが大きすぎて、その夜は眠れなかった。

 翌日、足を引きずるように屋敷に向かうと、「待ってたよ」と先生は喜んだ。しかし黙って落ち込んでいる瑠に、不安そうな表情に変わった。

「どうしたんだい? 嫌なことでもあったのか?」

「……俺、引っ越すことになった……」

「引っ越す?」

「うん。アメリカに」

 消えそうな呟きに、先生はみるみる顔色を青くした。

「アメリカか……。ずいぶんと遠い国だね……」

「俺だけフランスに残るっていうのも無理みたいで。どうしたらいいんだ……。俺、先生と離れたくないのに……」

 先生も同じ思いらしく、目を閉じて腕を組んだ。かなり間が空いて、そっと聞いてきた。

「いつ行くのかな?」

「一カ月後。あと一カ月しかそばにいられない……」

 厳しすぎる現実に目の前が真っ暗になっていく。苦し気に先生は言った。

「仕方ない。引っ越すしかないね。だけど、まだあと一カ月ある。……よし」

「よし?」

「今日から勉強は終わりだ。この屋敷にも来たらいけないよ。やりたいことができたから」

「やりたいことって?」

 もう一度聞いたが先生は答えなかった。玄関に移動しドアの取っ手を掴むと、先生は固い口調で言い切った。

「引っ越す前日に屋敷に来てくれ。瑠に渡したいものがあるから」

 さらに意味がわからず戸惑った。とりあえず「わかった」とだけ呟き、真っ直ぐ家に帰った。


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