第13話 動き出した過去の時間
13.動き出した過去の時間
『ナベ達と同じ様に、俺とも付き合える?』
賢治が先日残した問いだ。百合はそれを思い出す度、無理でしょと答えを胸の中で叫ぶ。
『堀の気持ち、整理ついたら聞かせてよ』
それは一体いつなんだろう。そんな事を自問自答する百合だ。
賢治からの歩道橋の上でのキスの釈明を聞いた方が良かったのだろうか。モヤモヤさせたままにせず、きちんと事の成り行きを聞いて、自分の中に白黒はっきりつけた方が良かったのだろうか。未だにそんな後悔の念も湧いて出る。しかし、どんな言い訳しようと した事に変わりはないのだから、その事実を受け止められない限り、一緒の様にも思う。まぁ簡単に言ってしまうなら、あの時受けた衝撃の大きさと、事実他の人とキスした賢治を許せていないからなのだろう。
それまで手を繋いでドキドキした気持ちや、一緒に出掛けてときめいたキラキラした気持ち 全てに、突然泥を塗りつけられた様な感じだ。一瞬にして世界が暗く灰色のもやが掛かり、例えるなら火山灰が降り注いで町中から色を奪った様なものだ。
しかし、そんな事を賢治には言えない。自分の器がもっと大きければ、こんな些細な事、時間が経てば薄れていって気にならなくなるんだろう。もっと大人になって、色んな事を経験して、酸いも甘いも味わった後なら、きっと賢治の事も受け入れられる気がする。しかし多分その頃には、賢治はもうきっと遠い存在の人になってしまっているのだろう。
百合はそんな事を考える。そして今日も、会社と家の往復を繰り返す。
休みの日、お爺ちゃんとお婆ちゃんが百合のアパートを訪ねて来る。お爺ちゃんが来るのは初めてだ。前回と同じ様に 二人が座ったところにお茶を出す。それまでにこにこしていたお婆ちゃんの顔から笑顔が消えて、お爺ちゃんと顔を見合わせる。その途端、その場に少しの緊張感が走る。そしてお爺ちゃんが心を決めた様に話し始めた。
「この間、岳雄達が家に来た」
岳雄とは百合の父親だ。そこに『達』と付けた事で、百合は先日の庭先で聞こえたやり取りを思い出す。
「・・・そうなんだ。良かったね」
百合は必死に笑顔を絞り出した。するとお婆ちゃんが言葉を足す。
「百合のお陰でね。ありがとね」
百合は笑顔を保つのに必死だ。やはり自然と笑顔になるには無理がある。お爺ちゃんが言った。
「百合は・・・お父さんに会いたいか?」
いきなりの予期せぬ質問に、面食らう百合。
「私は・・・いいや。お父さんが今幸せなら、それでいいから」
「遠慮してそう言ってんのかい?」
お婆ちゃんが心配そうな顔で百合をじっと見る。
「お父さんは・・・百合には合わせる顔が無いって言ってんだけど、だけど、もし百合が会ってくれるなら、きちんと今までの事も謝りたいって。謝って、今後の事を話し合いたいって」
「今後の・・・事?」
お父さんが会いたいと言っているというだけでも仰天なのに、今後の事を話したいだなんて、百合は 急に異次元に迷い込んだ様な気持ちで、事態を把握できない。
「戸籍上の事もそうだけど、もし家族として付き合っていくなら、ゆくゆくは新しい家族にも会っておいた方がいいって事にもなるしね」
正直、もう百合はめまいを起こしそうだ。
お父さんに会うなんて、5歳の時以来になる。顔だって性格だってあまり良くは覚えていない。きっと街のどこかですれ違ったって分からないだろう。その人と会って何を話せというのだ。もし謝られたって、何て返事をしていいかだって分からない。『気にしないで下さい』もおかしい。だからといって『もう昔の事ですから』と言ったら、まるで怒っているみたいだ。その上、彼の奥さんや子供達に会うのに、何て自分は紹介されるのだろう?そんな事を考えただけで、きっとその日一日生きた心地がしないだろうと察しがつく。百合は、お爺ちゃんもお婆ちゃんもお父さんも傷付けない断り文句を探す。しかし、そんな ていの良い言葉なんか見つかる筈がないのだ。すると、長い沈黙を気にして、お婆ちゃんが口を開く。
「私達ももう70だしね・・・」
どういう意味だ?百合の頭が立ち止まって考える。きっともうそろそろ、お父さんに責任をバトンタッチしたいとでも言いたいのだろう。そう思うと、自分がお荷物になっているのが浮き彫りにされた様だ。
しかも15年間止まっていた過去が、急に駆け足で追いかけてきた気分で、百合はすっかり戸惑っていた。
「まずは、岳雄と会ってやってくれないかなぁ」
お爺ちゃんがそう言う。当然百合が返事など出来ずにいると、もう一言付け足した。
「あいつが大人として責任ある生き方をし直す為にも・・・」
そうお爺ちゃんに頼まれてしまうと弱い。断れない。しかし同時に百合は思う。何年音信不通になろうが、無責任な事をしでかそうが、やはり我が子の一番の幸せを親はどんな時も考えるものなんだなぁと。幾つになっても我が子の為なら 応援する気になるのが、きっと親っていう生き物なのだ。そんな親がもう自分にはこの世に一人もいないと思うと、百合はボーっと植木鉢の花を見つめる。拾ってきた時はしおれてしまっていたけれど、あれから元気に生き返って、今では更に栄えようとしている。そして百合は顔を二人に向けた。
「お爺ちゃんにもお婆ちゃんにもお世話になったし、その二人の頼みだもん。・・・分かった。お父さんに会ってみる」
やはり二人とも一気に安心した顔になる。そんなに気を使わせてしまってごめんなさいと心の中で思う百合。緊張からようやく解放された二人は、もう冷めてしまったお茶に初めて口をつけた。
帰り際、玄関で見送る時、百合がお婆ちゃんに声を掛けた。
「あ、そうだ。伊佐山さんのおばさんに、このタッパー返しといてくれない?」
「タッパー?」
「あ、この間ね、中学の友達が皆で家来てくれて・・・その時に・・・賢ちゃんがおばさんからって言っておかず持って来てくれたの。でも・・・帰りに返し忘れちゃって・・・」
手を出し掛けていたお婆ちゃんが、それを聞いて手を引っ込めた。
「それなら自分で返しに行きなさい。自分が頂いたんだから」
もっともだ。賢治に会うのを避ける為に お婆ちゃんにタッパーを返してもらおうなんて虫が良すぎたのだ。身を縮めて百合が笑ってごまかした。
「やっぱ、そうだよね~」
次の土曜日、早速百合と父親が15年ぶりに堀家で再会する日がやって来る。その前に、百合はバスで降りると伊佐山家の呼び鈴を鳴らす。
「こんにちは」
玄関先に出てきた母親にいつもの笑顔で挨拶をする百合。土日仕事の賢治が居ない時間帯と分かっているから訪ねやすい。
「この前、おかず色々ご馳走様でした。皆で美味しく頂きました」
「あら~、タッパーなんか良かったのにぃ。わざわざ来てくれたの?」
「実家にこれから行くところだったんで」
「あら、そう。きっとお爺ちゃんもお婆ちゃんもお喜びになるわね」
一瞬、ほんの一瞬見せた百合の強張った表情を、母は見逃さなかった。
「なんか・・・あったの?」
「いえ・・・」
そう言いながら、心が少し緩む自分がいる。じっと百合の様子を見ている母に、やはりつい口が勝手に動き出した。
「今日これから・・・お父さんに会うんです」
「・・・お父さんと?!」
「はい。・・・15年振りなんですけど」
「・・・大丈夫?」
賢治の母がどこまで事情を知っているかは分からない。しかし、母親が百合の気持ちを心配する顔をしている。返事が出来ない代わりに、百合は笑ってごまかした。すると、母が聞いた。
「百合ちゃんは・・・嬉しい?会えるの」
正直微妙な顔になっているのが分かる。
「わかりません・・・」
それを聞いて益々心配な顔になる母。そして思いついた様に手を叩いた。
「あっ!ちょっと待ってて」
一旦奥に引っ込んでから再び出てきた母は、手に数枚の写真を持っていた。
「これ、中学の卒業式の写真」
そこには校門の前で百合達四人が一緒に並んで笑顔で映っている写真があった。その他にも数枚の謝恩会での写真がある。
「おばさん、この時PTAの役員やってたから、謝恩会出てたのよ。百合ちゃん家のお婆ちゃんはいらしてないから、こういう写真は無いでしょ?持って行って見せてあげて」
謝恩会で生徒も先生も笑顔が弾けている。百合も同じくだ。
「こんな様子見たら、お父さん安心して下さると思うよ。お爺ちゃんお婆ちゃんに立派に育てて頂けたんだって」
思わず百合の目に熱いものが込み上げてくる。しかし何故かは百合自身分からない。お父さんに会いたい訳でもないのに、お父さんと血が繋がってる訳でもないのに、お父さんに見せたい物なんかない筈と自分に問う。しかし、ここまで何不自由なくお爺ちゃんとお婆ちゃんに育ててもらった感謝は伝えたい。その涙なのか、百合は必死で自分を保つと、写真を受け取った。
「じゃ、お借りしていきます」
「返すのなんて、いつだっていいからね。ついでの時で」
玄関を出ようとした矢先、母が百合の肩に手を乗せた。
「気持ちがいっぱいになっちゃったら、帰り 寄っていいからね」
百合は黙ってにっこりすると、頭を下げて家に向かった。
百合が堀家のチャイムを鳴らす。今日ばかりは、勝手に玄関を開けるのは気が引ける。いつもの様にお婆ちゃんが玄関の戸を開けた。
「なんだ、百合。自分家なんだから入ってくればいいのに」
玄関に入ると、男物の靴が揃えて脱いである。確実にお爺ちゃんのではない。線香の香りを鼻に感じながら恐る恐る居間に入ると、お爺ちゃんだけが座っている。
「おぉ、おかえり」
「ただいま・・・」
「今お茶入れるからね・・・」
お婆ちゃんが台所へ行った後、落ち着かない様子で百合が立ったままでいると、仏壇のある客間の方からミシッと床がきしむ音がする。警戒気味に振り返ると、そこには40を少し超えた中肉中背の男が立ってこちらを見ていた。
「百合、まぁこっち座って」
お婆ちゃんが凄く気を使っているのが分かる。お茶を運びながら、百合を居間のテーブルへ誘導した。百合がお爺ちゃんの隣に座ると、入り口で立っていた男は、その場に正座した。
「百合は顔なんか覚えてないだろうが・・・」
お爺ちゃんが改めて紹介しようとすると、その男は頭を床につけた。誰も何も言わない空間を破ったのは、百合だった。
「・・・おかえりなさい」
その言葉を聞いて一番驚いているのは、お爺ちゃんとお婆ちゃんだった。百合の顔に釘付けだ。
「今日・・・ありがとうございます」
百合がそう言葉を足すと、父は額を床につけたまま言った。
「申し訳ない・・・」
お爺ちゃん達二人は事の成り行きを見守っている。
「そんな・・・謝らないで下さい」
しかし父は顔を上げない。仕方なく、百合は話を続けた。
「母にお線香上げて下さったんですね。ありがとうございます」
すると、少しだけ頭を浮かして父が答えた。
「手なんか合わせられた義理じゃないんだけど・・・」
「いえ。母も喜んでると思います」
意外と冷静な百合に、お爺ちゃんもお婆ちゃんも驚いていた。
父が顔を上げると、お婆ちゃんが百合に言った。
「顔・・・覚えてるかい?」
百合は小さく頷いた。
「時々お母さんの写真見るから。・・・あんまり変わってないですね」
百合が父に言う。すると父がボソッと言った。
「君こそ、すっかり立派になって・・・」
百合の心に切ない風が吹く。
「お爺ちゃんとお婆ちゃんにお世話になって、本当に感謝してます」
父はもう一度頭を床に付ける様にお辞儀をする。年齢よりも若く見える父親だ。写真から今の姿を勝手に想像していたのとは少し違う。
段々に昔話等をして、15年のブランクを埋める作業をする。お婆ちゃんは子供の頃の写真なんかを出してきて、その時のエピソードを添えたりする。百合もさっき賢治の母が持たせてくれた写真を出してみたりする。到底家族とは思えない雰囲気だが、一人一人が必死にその時間を乗り越えようとしている様に思える。
お婆ちゃん手作りの昼食で一緒に食卓を囲む。やはり変な感じだ。後片付けを百合とお婆ちゃんが終えた頃、再び居間に戻ると、父がまた正座に座り直した。
「実は今はもう再婚して、東京に住んでます」
百合は頷いた。
「知ってます」
その返事に少し驚いた顔の父。
「じゃ・・・子供達が居る事も?」
「・・・はい」
百合は少しの笑顔を乗せた。
「嫁さんにもこの事は話してあって・・・今、外で待ってるから、挨拶だけでもさせてもらっていいですか?」
急に予期しないシナリオに、百合の心臓がまたどきんと大きく緊張する。
一旦玄関を出て、再び戻って来ると、足音が増えている。その緊張に、百合は押し潰されそうになる。でも気持ちだけは保てるようにと、必死で背筋を伸ばした。
父の後に続いて居間に入ってきた女性は、30前後の若い綺麗な人だった。父の半歩後ろに遠慮がちに座る。
「嫁の美咲です」
そう紹介され、三つ指ついて頭を下げる美咲。百合も頭を深く下げた。
「はじめまして。百合といいます」
百合が頭を上げたタイミングと美咲が上げたタイミングが合って 目が合うと、美咲がにっこりと微笑んだ。百合の胸がザワザワする。予期せぬ感情だ。血も繋がっていないし、15年も会っていなかった義理の父の再婚相手だ。何を胸をざわつかせる必要があるんだと、百合は自分を戒める。
もう一杯ずつお茶を頂いたところで、百合が鞄を手に取った。
「私、そろそろ・・・」
両隣のお爺ちゃんとお婆ちゃんに言ったつもりが、向かいに座る父と美咲が急に不安げな顔になる。それを察して百合はその後の言葉を足した。
「この後用事があるので・・・。ごめんなさい」
玄関で4人に見送られるのも変な気分だ。しかし百合は最後の笑顔を振り絞った。
「お幸せそうで、本当に安心しました。実はずっと、お爺ちゃんとお婆ちゃんに育ててもらって、私ばっかり幸せだったらって引け目を感じてたんです。一人で寂しく暮らしてたらどうしようって。・・・本当に良かったです」
「百合は本当に優しい子だからねぇ・・・」
お婆ちゃんが目頭を押さえている。
「今日はありがとうございました」
百合はもう一度深く頭を下げると、笑顔を残して玄関を去った。
帰りのバス停に足早に向かう。予定では帰りに写真を返しに伊佐山家に寄る予定にしていたが、急遽予定変更だ。これ以上気丈に笑顔を振り撒く余裕がない。充電切れも近い。
一目散に部屋に入ると、百合は押入れから引っ張り出した毛布に包まった。




