りんね
理不尽な鉄の雨が、町に降り注いでいる。
空から降り注いできた鉄の塊は、空中で炎に包まれながら、地上に落下してきた。多くの建物が木造であったため、すぐに炎は町全体に広がっていった。
赤い炎の雨の正体は、木造の建物を焼き払うためにという名目で用いられる焼夷弾だろう。だが、実際は人々が逃げ惑う大通りの上に、落とされる。
上空から垂直に落ちてくる焼夷弾は、逃げる人々の頭や背中などに突き刺さり、そのまま燃え上がる。
男は、町が灰になっていく光景を、町外れの竹林から見ていた。夕方だというのに、町の方は赤々と光り輝いていた。町を包み込んだ炎は、ほぼ丸一日中燃え続け、空を血のように赤く染めていた。
天に舞い上がる火の粉は、焼け死んだ誰かの魂かもしれない。男はそう思いながらうっとりと町の様子を眺めた。
次の日、町の様子が落ち着いた頃を見計らって、男は寝床にしていた洞窟を出た。
洞窟は、暗くジメジメとしているが、夜も昼もあまり気温が変わらず快適だった。それに、町で盗んだランプがあるため、夜も快適に過ごすことができた。
洞窟の一番奥には、男の身長と変わらない程の大きさの祠があった。祠は、ほとんどが木でできているが、観音開きの扉の部分には鉄が使われている。
戦争が始まって以来、鉄はほとんど国に没収された。男が以前住んでいた村にあった、寺の大きな鐘も、国から派遣された者たちによって持っていかれた。毎年、大晦日にはその寺の鐘を家族で叩きに行っていた。あの鐘が持ち出されたときには、悲しい気持ちになったことを男は思い出す。その頃は、男にもそういった悲しみの感情を抱ける心は残っていた。
鉄の需要は、戦争になれば当然高まる。銃などの武器、戦闘機や戦艦を造るにも鉄が必要なのだ。国の人間は、鉄を確保するために仏像などの神仏にも手を出していた。戦争になれば、神の力など当てにならないことくらい国の人間は分かっているのだ。
神というのはあくまでも、人々に方向を示し、団結させる為に用いられる道具にすぎない。国の上に立つ者は、神風などというものをこれっぽっちも信じていないだろう。
この祠に使われている鉄は、国の者に見つからなかったから、そのままにしてあるのだろうか。それとも、誰かが祠を隠すためにここへ運び込んだのかもしれない。
洞窟の目の前には、小さな沼がある。
水深は浅いものの、濁っているために水中の様子は見えない。手を入れて沼の底を探ると、ヌルヌルとした泥が蓄積していた。葉が沼に落ちて、腐葉土のようになっているのだろう。
沼は、川などとは繋がっていないために、魚などはいなかったが爬虫類や虫の住処となっていた。
男はその沼で、カエルやミミズを捕まえては生で食べていたが、あまり腹は満たされない。
水草も口に入れてはみたものの、生臭く苦いために、食べられたものではなかった。
数週間前に、ここから十キロほど離れた場所にある村を追い出されて以来、男はずっとこのような生活を送っていた。
横腹の傷はすでに化膿し始めている。男はその傷をしきりに気にしていたが、薬もなければ治療するすべもない。傷口から菌が入ってしまったら致命的である。
応急処置として、布を傷口に当てておくしかなかった。
男は、昨日の空爆によって焼け野原と化した町へ向かった。燃え跡の中から、役に立つものが手に入るかもしれない。
薬はないかもしれないが、空腹を満たすことはできるかもしれない。
ほとんどの家庭が、空爆で家を焼かれてしまうことを想定して、床下に穴を掘り、食料を隠している。
梅干しやぬか漬けなどの保存食を、その穴に入れていることを男は知っていた。
町中はどこも焦げた臭いがした。家が燃えたことによる臭いだけでは無い。肉が焦げたような匂いだった。吐き気を催すような臭いが辺りに漂っている。
男は、丸焦げになった人間の遺体をいくつも見つけたが、全く気にしてはいなかった。それどころか、道端に転がった焼死体の頭を、毬を弄ぶように蹴飛ばした。その時に、遺体の溶けた皮膚が、男の裸足の足に付着した。
埋められている食べ物や衣服や履物などを探そうと、男は全焼して黒焦げになった家の前に立った。家が建っていたはずのその場所には、炭と化した三本の柱が建っているだけだった。
男は、さっそく瓦礫の山に手をつけた。だが、炭になっているとはいえ、折り重なるように倒れている木材を一人の力でどかすことは困難だった。
一部だけが燃えており、家としての形を残している建物もいくつか見うけられた。そのような家は、すでにそこの住民が戻ってきて、床下に埋めた食料や衣類を持ち去ってしまっていた。だから、男は燃えて倒壊した家の跡をハイエナのように嗅ぎまわった。
だが、結局のところ収穫はほとんどなく、手に入れることができたのは、男性用の着物と草履だけだった。
男は、村を出て以来ずっと着ているボロボロになった着物を脱ぎ捨てた。
男は、燃え残った箪笥の中にしまわれていた真新しい着物を着て、道端に落ちていた草履を履いた。藍染の着物は、高貴な印象を受ける。
その着物を着ると、村で何不自由なく暮らしていた頃に、戻ったような気がした。
男は、腹をすかせたまま町を後にする。道端に、手と足を直角に曲げた丸焦げの死体が転がっている。大人ということ以外は、男か女かもわからない。
常に空腹に襲われていたため、この際人間の肉を食ってもいいのではないかと男は思った。
村に居た頃は、猟師が狩った猪の肉や、漁夫が釣りあげた川魚を食べることができた。その味が恋しくなる。
村が恋しかったが、戻ることはできない。村の女を三人も殺してしまったからだ。
だが、原因は女達にある。
男の家は、村では強い権力を持つ地主だった。そういった家柄の男が、女の家に日替わりで夜這いに行くのが村の慣わしで、今まで当たり前のように行っていたのに。国から男の元に赤札が届き、身体検査を受けた結果、結核であると分かると女たちは男の相手をしてくれなくなった。
男は、女たちの身勝手さに憤慨した。
それだけではない、村の者たちは男が家の外に出ることも許さなかった。男は、結核であることを理由に、隔離された状態に置かれた。男はどこに行っても嫌な顔をされた。今まで裕福な名家の跡取りとして、もてはやされてきただけにその落差は激しく、男は怒りを募らせていった。
自分に対する村の者たちの扱いに、膨れ上がった怒りはついに、風船が割れるように破裂した。
ある時、夜這いを拒否し続けていた三人の女と、その親を殺して村を出た。
男は家に飾り物として置いてあった日本刀を持ち出して、丑三つ時に女達の各家を襲った。
殺した女たちの各家には『必ず、また戻ってきて、村の者を皆殺しにする』と書いた紙を置いて来た。男は、初めから村に戻るつもりなどなかったが、村人たちに恐怖を味あわせるために、このような再来を予感させる置手紙を残した。
村の者たち全員を恐怖のどん底に陥れることが、男の復讐方法だった。
残忍ではあったが、自分をのけものにし、邪魔者扱いした村人たちへの当然の報いだったと男は思っている。
横腹の傷は、女を襲っている時に、その親に反撃をされてできたものだ。刃物のような物で、切りつけられていた。
もちろん、その女の親も、男は持っていた日本刀で首を切り取ってやった。
竹林の中にある、洞窟への帰り道。男は、あぜ道に座り込んでいる何者かを見つけた。
まだ若い男だった。軍服のようなものを着ている。
その若い男は、杉の木に背をもたれ掛かり、苦しそうに肩を揺らしている。
軍服の男は兵士だろうか。なぜこんなところで座りこんでいるのだろう。これから軍隊に召集されるところだったのかもしれない。
軍服の男は、白い布に巻かれた何かを、大切そうに抱きしめていた。
食べ物に違いない。男はすぐにそうだと気づいた。
軍服の男が武器のような物を持っていないかどうかを遠目から確認する。よくは見えないが、武器は持っていないようだ。それに、武器を持っていたところで、銃器のような物でない限り、弱っているこの軍服の男に負けるようなことはないだろう。
男は、道端に落ちていた、自身の拳よりも大きな石を拾う。
苦しそうに肩を揺らしながら呼吸していることから、軍服の男はどこかを怪我をしているのかもしれない。
男は、そろりそろりと、獲物との距離を詰めていく。
あぜ道の砂利で足音がたち、その軍服の男がこちらを振り向いた。今まで見えていなかった、向こう側の顔半分が目に入る。若い男の顔は、鉄が溶けたように歪み赤くただれていた。顔面に、酷い火傷を負っているようだ。昨晩の空襲で傷を負ったのだろう。
相手が抵抗するほどの力が残ってはいないと感じ、石を握りしめていた手を緩めた。だが、石を捨てはしなかった。
男が側までくると、軍服の男は「だ、だすけてくれ」と声をあげる。舌が上手く回らないのか、喉の奥で風が抜けるような無気力な声だった。
男は、哀れな若者の姿を見てニヤリと笑って見せた。「お前の持っているモノよこせ」と言って、白い布にくるまれたモノに手を伸ばし奪おうとする。
簡単に荷物を奪えるだろうと男はたかをくくっていた。だが、そうはいかなかった。軍服の男の蹴りが顔面を襲う。
不意を突かれたことで、男の体は簡単に転がった。
顔面を抑え、男は「痛てぇ」と叫ぶ。
軍服の男は、その隙に立ち上がり逃げようとしたが、上手く足が上がらないのか砂利道に足をとられ、酔っ払いのように千鳥足でフラフラと左右に揺れながら歩いた。
顔面を蹴られた男もすぐに立ち上がり、持っていた石を、軍服の男の後頭部めがけて思いっきり振り下ろした。
次の瞬間には、軍服の男は砂利の上に仰向けに倒れていた。倒れる瞬間、白い布に包まれた荷物をかばうように体を捻りながら倒れたために、火傷を負った顔面を地面に強く打ち付けた。
男は、白い布に包まれた荷物を強引に奪おうと手をかけた。軍服の男は必死に抵抗して見せたが、次に石が顔面を捕らえた時には、力なく手を離した。
男は肉片と血が付着した石を捨て、奪った白い布に包まれた物を持って洞窟のある竹林の方へ走った。後ろから、力無く嘆くような声が背に届いたが、男は振り返らなかった。
竹林の中を走り、一直線に洞窟を目指す。白い布の中にあるモノは、食べ物だと男は思った。
片手で抱えることはできるが、ずっしりと重いことから、何かの肉かもしれない。布の中にある食料を想像するだけで、唾液が口いっぱいになり、胃が活発に動き始めた。
男は竹林の中を走り、洞窟へ戻るとすぐに布の中を開けた。
「きゃぁぁぁぁ!」
紀子は叫びながら、掛け布団を右足で蹴飛ばした。上半身を起こし、薄暗い室内を見渡す。荒い息遣いだけが、聞こえる。それが自分のものだと気づくまで、少しだけ時間がかかった。
紀子は、座ったまま両手で顔を抑え、大きなため息をついた。もう何度も、この夢で目を覚ましている。
背中が汗で湿っていた。コップに入った水を、首筋から背中に流し込まれたのではないかと思えるほどびっしょりと濡れている。そのため、布団から出た瞬間に体が冷えた。
紀子は立ち上がり、箪笥から別の寝巻を取り出して、着替えた。
もう一度、布団へ戻り横になろうとした時、部屋の扉が音も無く開いた。
「母さん、大丈夫? またうなされていたの?」
扉から顔をのぞかせてそう言ったのは、息子の和人だった。
紀子が住むマンションの間取りは、リビングとそこを襖で区切ったお座敷、紀子の寝室と和人の部屋とトイレと風呂があるだけだ。二人だけで暮らすのには丁度いいほどの広さだった。
紀子の寝室は、和人の部屋の前にあったために、彼の部屋にまで叫ぶ声が聞こえたのだろう。
「そうなの。ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、まだ勉強していたから、起きていたよ」
「そう。でも、どちらにしろ、邪魔しちゃったね。もうすぐ受験なのに、ごめんねなさいね」
「それはいいんだけど、母さん本当に大丈夫? なんだか、父さんがあんなことになる前と似ているから心配だよ」
「大丈夫よ。平気だから心配せずに、受験勉強頑張りなさい」
紀子は和人が言おうとしたことを遮るように言った。和人は、小さく頷き、気遣うような目をこちらに向けながら扉を閉めた。
紀子はまた、ため息をつく。大丈夫なはずなど無いかった。だが、高校受験を控えている息子の和人を、心配させるわけにはいかないのだ。
時計を見ると、午前一時を過ぎたところだった。明日も、五時には起床して、和人の朝ご飯と弁当を作らなければならない。
紀子は、嫌な夢を見た後ではあったが、すぐに布団に戻り眠りについた。もう何度もあの夢を見てきて、一日に一度しか見ないことは分かっていた。あの夢を見てしまえば、後はぐっすりと眠れることができる。
夢を見始めた頃は、怖くて再度眠りにつくことはできなかった。だが、数週間もすればそれにも慣れた。いや、諦めたと言った方がいいかもしれない。
今も多くの不安を背負ったままだったが、日々は止まることを知らず、理不尽に過ぎ去って行ってしまう。和人のために、紀子は諦めに似た覚悟を決めていた。
紀子は、土曜と日曜以外は、毎日朝五時に起きて朝食と和人の弁当を作った。
育ち盛りの息子のために、紀子は栄養のバランスを考えて食事を出していた。もし、息子が居なければ、食事などどうでもいいと思うだろう。生きる意味だって失うかもしれない。
六時半には、和人は朝食を済ませ、弁当を持って学校へ行くために家を出る。
和人が玄関から出て行く時には、必ず紀子は行っていた家事を止めて、見送りをした。「別に、見送らなくてもいいよ」と毎回和人はどこか恥ずかしげに言うが、紀子は毎日それを続けた。
時々、自分が良き母を演じているだけなのかもしれないと、紀子は思うことがあった。だが、それならば、それでもよかった。良き母を演じているだけだとしても、満たされていた。
そうすることで、紀子は母親としてのモチベーションを保ち続けることができているような気もしていた。
洗濯と掃除と皿を洗い終えると、紀子も仕事へ行く身支度を整え始める。
出勤の十一時までは、まだ時間があるので、テレビのニュース番組を眺めながら化粧をした。
鏡の前に座り、最近皺の増えた顔にファンデーションを塗る。自然と、化粧も若い頃より濃くなった。
仕事場は、飲食店だ。チェーン店の定食屋で、それなりに繁盛している。
昼になると一気に客が流れ込んできて、厨房は戦場と化す。癇癪持ちの店長の怒涛が四方八方に唾と一緒に飛び散る。
幸い、紀子は注文を受けることや、料理を運ぶ配膳係であったため、店長の唾と怒りを浴びる確率は低かった。
紀子は、中学生がいる母親とは思えないほど若い容姿であったこともあり、接客を任された。時には、客の男性に冗談めかして言い寄られることもしばしばあった。もちろん悪い気はしない。ただし、厨房にいる女性たちからは嫉妬の眼差しを向けられることも少なくはなかった。
自意識過剰ではない、何度かあからさまに聞こえるように陰口を叩かれた。だから、紀子は従業員と関わるのを極力避けていた。厨房の女性たちだけではなく、店の従業員全員とである。仲間も敵も作りたくはなかった。
それに、バレていけないこともある。だから、できるかぎり波風を立てず、目立たずに過ごしたかった。
その日も相変わらず定食屋「銀平」は盛況だった。
近年の健康志向も手伝ってか、野菜定食や魚定食がよくでる。女性の社会進出がすすんでOLが増えたこともあるかもしれない。テレビで女性の就業率が男性を超えたという報道もあった。
紀子は、女性が社会で活躍しているのを見ると、どこか誇らしく感じた。
定食屋銀平は昼の二時過ぎまで客足は途絶えなかった。三時を過ぎた頃にやっと、店内に空席が目立つようになる。その頃に従業員は交代で休憩をもらう。
できる限り同僚のおばさん達とは関わりたくないので、休憩の一時間は近くの公園で過ごす。本当はカフェでのんびりしたいのだが、二百八十円のコーヒーは紀子にとっては高すぎる。和人のために、少しでも節約をしておきたかった。
紀子はコンビニで、菓子パンを二つ買って、噴水の前のベンチで食べた。
余った昼休みの時間は、小説を読むために使う。
今はSF小説を読んでいる。未来で起きる、科学戦争を描いた作品だった。このような非現実的な作品には今まで抵抗があったものの、読み始めるとその世界観にのめり込むことができた。
本を読んでいる時間は、その世界観に没頭することができる。意地の悪いおばさん達の顔や、忙しい日常を忘れることができる。
若い頃は恋愛小説ばかり読んでいたが、結婚してそれもなくなった。子供ができて、女から母親に心も体も変化した。そうなると、母親として妻として、恋愛に憧れること自体が悪であるような気がした。
紀子が小説から顔を上げて、腕時計に目をやると休憩時間が終わろうとしていた。
一気に現実に引き戻される。紀子は、マグカップに入ったコーヒーを胃に流し込み、席を立った。
六時を過ぎた頃に、学校帰りの和人が銀平に来店してきた。
和人は、券売機で食券を買うことなく席に座る。夕食を作る時間のない紀子は、いつも和人にあらかじめ食券を渡し、店で食べるようにと言っていた。
定食屋だけあって、栄養バランスは良い。紀子は、日替わりで肉や野菜や魚がメインである定食の食券を和人に渡した。できる限り魚や野菜定食の食券を渡す。和人は、肉定食がいいといつも愚痴るが、紀子は息子の栄養のことを考えてそうしていた。
紀子は、席に着いた和人から食券を受け取り、切り取り線に沿って半分を千切った。それを厨房へ持っていく。
「あら、息子さん、またいらしてるのね」
厨房の宮古が、怪訝そうな顔をしながらそう言った。宮古は、小太りの中年女性だ。吐き気を催すような、真っ赤な口紅がけばけばしく塗られている。深く顔に刻まれた目尻の皺をうねらせながら、宮古は紀子を射るような眼差しを向けた。紀子は、目をそらして「えぇ」と曖昧な返事をした。
「いつの間に、食券を買ったのかしらね」
宮古は厨房全体に聞こえるような大きな声で言った。その言葉に、紀子は背筋が凍る思いがする。もう、やめたほうがいいかもしれないと紀子は思った。
和人が食事を終えた頃を見計らって、紀子もタイムカードを押した。
割烹着のような制服を、ロッカーに戻して店を出た。
和人は店の前で、待っていてくれた。
思春期の中学生らしい親に対する反抗心を、和人はあまり見せなかった。帰り道にスーパーに寄り、買い物をした時も、すすんで買い物袋を持ってくれた。小学生の頃からしたら、親子の会話は減ったが、和人の思いやりは変わらなかった。
ありがたいと思う反面、父親が家庭に不在であることから、和人が自分の感情を抑え込んでいるのかもしれないと思うと、可哀想で仕方なかった。本来なら反抗期をむかえていてもおかしくない年頃である。それなのに、和人はわがままの一つも言わない。
「明日からは、毎日家で晩御飯を食べるようにしましょう。作り置きしておくから」
「えっ、どうしてだよ? それじゃあ、母さんの手間が増えるだろ? それにお金だって家で食べた方がかかるだろ」
「ちょっとね、明日からはお店はダメなの」
紀子はできるだけ笑顔を崩さなかった。和人の目に、自分の顔がどのように映っているのか、気が気ではない。上手く自然な笑顔を作れているのだろうか。和人の黒眼に映る自分の姿を、紀子は必死に探していた。
和人はすこし考えるように、暗くなった空を見上げた。
息子の頭上には、どんな思考が浮かび上がっているのだろうか。何か疑惑を持ったかもしれない。そう思いながら紀子は和人の横顔を時折盗み見るようにうかがっていた。
和人の眉間に集められた皺は、いったい何を意味しているのだろうか。
「クマバチはさぁ、本当は飛べないんだぜ。航空力学的には、あの大きな体と、小さな羽根では絶対に宙を飛ぶことはできない。なのに、飛んでいる。科学者達もクマバチが飛ぶことのできる理由はわかっていなくて、結局のところ結論はさ、『クマバチは自分が飛べると思い込んでいるから飛べるんだ』ってことらしいんだ。これって、ポジティブな思い込みによる成功なのだと俺は思うんだ」
友人の緑川慶介は、机に深く腰掛けて、胸を張り、腕を組んで、目を瞑りながらそう言った。どこかいつも自慢げに知識を披露するが、決して嫌みではない。和人は彼の口からどんな言葉が飛び出すのかをむしろ楽しみにしている。
クマバチというのは、体長が2cmを超える大きなハチである。ずんぐりした体形で、胸部には毛が多い。全身が黒く、翅も黒い中、胸部の毛は黄色いのでよく目立つ。そのいかにも危険そうな姿とは裏腹に、比較的穏和な性格のハチである。
「それで、和人の相談とクマバチとどんな関係があるんだよ」
横から矢野英二が口をはさむ。彼は机に肘をつき、手に顔を乗せて、慶介を疑わしいといった感じの目で見ていた。
慶介は「口を挟むな」と言わんばかりに、掌を広げて英二の前に突き出す。
一時間目が終わると、十分間の休み時間に入る。その間に、和人の机の周りには、慶介と英二が集まって来て、他愛無い話をする。誰が決めたわけでもなく、いつの間にかそうなっていた。
「人間と言うのは思い込む生き物なんだ。自分とはこういう人間だから、あれには向いていないとか、これに向いているとかね。では、サラリーマンを例に挙げて話そう。仕事ってさぁ、辛いことばかりで嫌になると思うんだ。でも、生活のために辞めるわけにはいかない。そんな状態の時、人間というものは、自分はこの仕事に向いている、この仕事は楽しいって思い込むんだ。そうすることで、辞めたいと思う悩みや、ストレスから自分を守ることができる。みんな思い込みながら生きているんだな。深く思い込める人間こそ成功すると言ってもいいかもしれない」
慶介は、頷くように何度も顎を引きながら行った。
英二は「それで、なんだよ」とまた口を挟む。
「だから、俺が言いたいのは人間という生き物は思い込みで幸せにもなるし、不幸にもなるということさ。朝起きて、ちょっと喉に違和感があって、体温計で熱を計ってみたとする。その時、微熱でもあると、急に具合が悪くなることってあるだろ? あれって、自分が病気にかかってしまったという思い込みなんだな。その他にも、女子が持っているブランドの小物。あんなの俺達からしたら可愛くもなんともない。むしろ下品にさえみえる。女子たちはファッション雑誌なんかで『これが可愛い』なんて書いてあると、それが可愛いと思い込むんだ。雑誌によって思い込まされているわけだな。いや、むしろ自分が所持している物が可愛いと思い込むために、雑誌を買って、満足したいのかもしれないな」
「つまり、俺も思い込みをしているということ? それも悪い思い込みをしている?」
和人が言った。慶介は放っておけば永遠と喋りつづける。彼に喋らせていると話は本題から徐々に逸れて行き、彼自身何を言いたかったのか分からなくなってしまうことが多々あった。今回も、そうだろう。
「そうだな。まぁ俺が言いたいのは、ネガティブな方向に思い込むなということだよ。マイナス思考を抱いていると、マイナスな結果しか生まない。つまり、クマバチのように、ポジティブな考えを常に持てと言っているんだ」
慶介は、そう言い終えて、満足したような顔をしていた。彼の話は蛇行運転を繰り返しながらも、何とか着地点を見出したようだ。
「ほらな、何の解決にもならなかっただろ?」
「いや、少し気持ちが軽くなったよ。もしかしたら俺も今なら飛べるかもしれないな。ありがとう慶介」
和人は二人に、母親のことや進路のことで相談をしていた。父親が倒れる前と同じように、母親が夜中にうなされており心配だという話や、倍率の高い公立の英明高校を受けても落ちるかもしれないので、別の公立高校を受けるべきか、などといったような話だ。
慶介はあれこれとアドバイスをした後に、『クマバチと思い込み』についての講義を始めたのだった。彼なりに、和人を励ましたかったのだろう。和人もそれをわかっていた。
授業中、和人はずっと母親のことを考えていた。
父親が病魔に倒れる前に毎晩うなされていたこと、そして母親が今同じように夜中にうなされていることが、関係しているというのは思い込みではない気がする。
寝室から聞こえてくるうわ言や、叫び声。それらの母親の行動は、父親が倒れる前の行動に類似しているのだ。
二人の行動が似ているということは、同じ過程をたどっているということではないだろうか。つまり、同じ結果を招くことになるかもしれないと和人は思った。
果たして、これは本当に思い込みだと言えるだろうか。ただの思い込みだと笑えるのなら、それほど楽なことはない。
紀子は夫の栄一郎が入院する病院へ来ていた。大きな総合病院で、外見はショッピングセンターのように華やかだった。院内には、チェーン展開している有名なカフェもある。
院内は賑やかで、元気そうなお年寄り達が椅子に座り井戸端会議をしていた。「そういえば野口さん最近見ませんね」「どうも、風邪をひいてしまったらしくて、辛くって病院には来ることができないみたいよ」などという会話が聞こえてきた。思わず紀子は噴き出しそうになる。どうやら、お年寄り達は病院へ通うという名目で集まっているようだ。元気の秘訣は何ですかと問えば、「それは、病院で集まってみんなでお喋りすることです」などという回答がお年寄り達から返ってきそうだ。
栄一郎が居るのは七階の病室だった。一時は集中治療室に入っていたが、今は一般の病室に移された。病状が良くなったからではない。ただ状態が安定しているというだけで、死は一刻と近づいている。
ベッドに横たわる栄一郎は、別人種のように肌が焦げ茶色になっている。目の周りは陥没し、眼球が押し出されるように浮き上がってきている。頬はこけ、重い影が刻み込まれていた。枝のように細い腕からは、いくつもの管が伸びている。管は、吊るされている液体の入った袋に繋がっていた。栄一郎は、もうほとんど食事を摂取できないために、点滴によって栄養を補給するしかなかった。だがその点滴も、命の時間を引き延ばすことしかできないのはわかっていた。だからこそよけい栄一郎の姿が痛々しく感じる。
原因不明。病名もわからない。医師達は口々にそう言った。だが、紀子には栄一郎に何が起きているのか分かっている。
栄一郎は、紀子が来たのが分かったのか、薄らと目を開けた。瞼が裂けるように開き、輝きの無い眼球がそこに覗いた。人工呼吸器がはめられた口が、パクパクと動くのが見える。
紀子は栄一郎の手を取り、「大丈夫よ」と彼の耳元で囁いた。その「大丈夫」は、栄一郎に言いながら、どこかで紀子は自分自身に向かって言い聞かせていた。
「ねぇ、あなた。和人がね、英明高校を受けるのよ。すごいでしょ? お金なら大丈夫、私がアルバイトしているし、節約だってうまくやっている。確かに今の生活はとても苦しいけど、もう少ししたら……」
紀子は言い淀む。
「あなたが残してくれる保険金だって入るわ。私達、何も心配しなくても大丈夫よ。あの子賢いから、一人でもまっすぐ歩んで行ってくれるはず」
紀子の言葉に、栄一郎は小さく頷いたように見えた。
右手で、栄一郎の額に触れる。油のないカサカサとした不健康な肌をしていた。だが、そこには確かに生の温かみがあった。紀子は、薄らと開いた彼の目に微笑みかけた。
「そういえばさ、この前の検査どうだったの?」
朝食を食べ終わると和人がそう言った。一瞬何のことを言っているのか分かなかった。
紀子が、困惑したような表情をしていると、「ほら、このまえ健康診断みたいなの受けたんだろ? 食卓台の上に健診結果って書いてある用紙が置いてあったのを見たんだ。何のことが書いてあるのかはわからなかったけど」
「あぁ、あれね。ただの定期健康診断よ。店長が受けろと言うから、受けなきゃいけなかったの。もちろんなんともなかったわ」
嘘だった。
和人に向かって、わざとらしくガッツポーズして見せる。なんともない、健康体だということを表したかった。
「ふーん、そっか。でも、さぁどこか体の具合が悪いんじゃないの? この前、病院に行ったんだろ」
「あら、どうしてそれを知っているの?」
「だって、冷蔵庫の横の棚に薬が入った袋があったからさ。どこかが悪いのかなって思って」
和人はテレビを見ながらそっけない感じで言ったが、彼なりに心配してくれているようで、心が温かくなる。
「お母さんも歳とっちゃってね。腰が痛くって。心配掛けたくなかったから言わなかったけど、知っていたんだね。今日も病院に行って帰るから、晩御飯は冷蔵庫に入れて行くからね。チンして食べて」
「うん、わかった」
「お前のかぁちゃんが作る弁当はうまい! 特に、このカリカリと食感の良いベーコン」
「どれどれ、俺にも食わせて見ろよ」
「お前ら自分の弁当食えよな」
学校の昼休み。和人は慶介と英二から、紀子が作ってくれた弁当を箸で突かれていた。落ちたパンのカスに群がる鳩のように、次から次へと和人の弁当に箸が伸ばされる。
「お前の弁当うまいんだもんなぁ。また、ベーコンを弁当に入れてくれるように頼んでくれよ」
「これは俺の弁当であって、お前の要望が反映されることはない。それにベーコンなんてさ、スーパーで買ってきたやつを、ただ焼いてあるだけだから」
「いや違うな。それだけではこんなにカリカリにならない」
慶介は、和人の方に箸の先端を向けて、犯人のトリックを暴くドラマの探偵のように言った。慶介の表情は、どこか得意気だった。
和人はため息をついて、不満げな表情を作って見せた。だが、実際のところそう悪い気を起こしているようでも無い。紀子の作った弁当をほめられることを、どこか誇らしげに思っているようでもあった。
「お前、樹里とはどうなっているんだよ」
英二が口元にいやらしい笑みを浮かべながらそう言った。
「どうって、なにが?」
「もうヤッたのか?」
英二と慶介は、茶化すように和人の方を見ている。
「そんなこと、してないよ。別にそういうことには興味ないし」
「嘘を言うんじゃねーよ」
和人は、二人の好奇の目から、顔をそらした。性に興味が無いということは嘘であったが、あまりそのような話をしたくなかった。樹里のことと性の話を、友人達に結び付けられて、想像されるのが嫌だった。
和人は、二人を適当にあしらって、卵焼きを口に入れた。ほのかに甘みを帯びたた卵焼きが口の中でバラバラになり、余韻を残したまま胃へと落ちていった。
昼食を終えると、教室から出て校庭へ向かった。誰が言い出したでも無く、昼休みになると和人のクラスとその隣のクラスとでサッカーの試合をする。
和人はサッカーが得意な方ではなかったが、クラスの男子の間に参加しなければならない雰囲気が漂っていた。
隣のクラスの方が勝率は良く、和人のクラスは負け越している。
勝ちたいという思いが、和人のクラスの団結力をさらに強固なものにした。そのため、休み時間には、義務であるかのようにほとんどのクラスの男子が校庭に集まる。
和人のポジションはゴールキーパーだ。ボールをドリブルするのに自信が無いため、自ら進んでそのポジションを選んだ。
「おーい、和人。お前何やっているんだ」
空中で回転しながら飛んできたボールが、ゴールネットを揺らした後、和人は我に帰った。
「すまん、ちょっとぼーっとしていた」
和人は、足元に転がっている泥遊びをしたパンダのような色のボールを、コートの中央に蹴り戻しながらそう言った。
「どうした和人? いつもならあれぐらい守れていただろ?」
英二が、和人に駆け寄ってきてそう言った。
確かに、止めるのが難しいシュートではなかった。止めようと思えば、簡単に止めることができたはずだ。だが、和人はボールが目の前に来るまで、反応することができなかった。違うことを考えていたために、一瞬思考が別世界をただよっていたのだ。
「ごめんな、ちょっと寝てなくてさ」
「頼むぞ」
英二はそう言って、和人の肩を叩き、励ますように笑顔を向けてコートの中央の方へと駆けて行った。
和人は最近、うまく眠ることができていない。受験勉強のせいでも、母親がうなされている声が聞こえるせいでもなかった。
あの夢を見るのだ。
そのせいで目が覚めてしまう。それがどんな夢なのか目を覚ました時には曖昧にしか覚えていなかったが、嫌なものであることだけは確かだ。
結局、その日の試合結果は二対五で完敗してしまった。あきらかに、和人がゴールを簡単に許してしまったことが原因だった。
校庭から校内に戻る途中で、クラスメイト一人一人に話しかけ、今日のふがいない結果を詫びた。誰もが負けたことを悔しがっているようだったが、和人を責める者はいなかった。それどころか「気にするな」「今日は少し調子が悪かっただけさ」と慰めてくれた。
その慰めが和人の心の中に、惨めな気分を増殖させる。遊びとはいえ、皆が真剣にサッカーに取り組んでいるのだ。皆、勝ちたいと思っているのだ。「ちゃんとやれよ」などと叱責された方がまだよかった。
ただし慶介と英二だけは違った。教室の前で、後ろから慶介にケツを蹴り飛ばされた。
二人はニヤニヤしながら「五点も取られやがって、どうせ彼女のことばっかり考えていたんだろ」などといって冗談交じりに和人を茶化した。
「うるせぇなぁ。見ていろよ、明日は無失点に抑えてやるから」
そう言って和人は笑った。優しい慰めの言葉よりも、励まされるのは彼らのような存在だった。
午後の授業が始まると、和人はすぐに睡魔の波にのまれた。
頭が重くなり、全身に張り巡らされた神経が、脳に引き上げていくような妙な感覚を覚えた。神経を失った全身は、だらりと垂れ下がり、重くなった頭を机の上に突っ伏した。
頭が柔らかくなった木製の机の中に埋まっていく。座っている椅子の脚がぐにゃりと柔軟に折れ曲がり、ユラユラと不安定に揺れた。その心地よい揺れは、小さい頃に父親が運転する車の助手席に乗っていた時のことを思い出させた。緩やかなカーブを、蛇行している時に感じる遠心力が、和人は好きだった。
和人は夢を見た。不思議と夢の中では、自分が眠っているという自覚があった。
夢の中で、和人は水中に居るような感覚だった。地面に足がついているのに、浮かんでいるような、紐で体を吊りあげられているような妙な感じだった。
和人は真っ黒な階段を一歩一歩下りていく。早く駆け下りたいと思っても、水の抵抗を受けて体が思うように動かない。それがもどかしい。
階段を一番下まで下りると、そこはなにもない広い場所だった。実際には真っ暗闇であるため、どれほど広い場所なのかは分からない。ただ、その空間に区切りや行き止まりが無いのはなんとなくわかった。この広大な空間には、方向も無く、終わりも、目的地もない。限りなく絶望に近い場所だった。
闇の空間に、和人の姿が浮かび上がっている。
和人は辺りを見渡したが、景色は黒い絵具で塗りつぶされているようだった。背後にはうっすらとではあるが、暗闇よりも漆黒の階段が、上の方へ向かって伸びているのが見えた。だが、それもやがて、暗闇に溶けだすように消えていった。
和人は上を見上げる。真っ暗な空から何かがゆっくりと和人の元へ下りてきた。薄い桃色のヒモに吊るされているそれは、和人のちょうど頭の上の位置にあった。
近づいてくるにつれて、それが人間の赤子の形をしていることがわかる。大きな頭と、胴体。短くて丸みを帯びた手足が、電池が切れる寸前のおもちゃのように力なく動いている。
赤子は、和人の目線の高さまで下りてきて止まった。赤子の丸く膨れたお腹は縦にパックリと開いており、ピンクの細長い何かがそこから天井に向かって伸びている。それは、赤子の臓器であった。赤子はお腹から飛び出た臓器によって体を吊るされていた。
眠っている赤子がカッと目を見開いた。その瞬間、和人と赤子の目があった。そうかと思うと、赤子の顔全体の筋肉が波打ち、やがて大人の女性の顔へと変化していった。
「和人」
赤子は低い声で、そう言った。
「おい、和人」
次にそう聞こえた時、同時に頭に軽い痛みが走る。さらに、目をまばゆい光が襲った。
ぼやけた光の中に、人の姿が見える。大人の男性のようだ。
「受験生が居眠りか」
そこに居たのは、怪訝そうなに顔をしかめながら和人を見下ろす数学の教師だった。和人は、そのときにやっと自分が夢から目を覚ましたのだと気づいた。
数学の教師は、持っている教科書の角で、コツコツと和人の頭を叩いた。怒っている様子はなく、呆れたように微笑みかけている。
「せんせー。和人は、あんまり寝てなくて体調が悪いんだって」
英二が、和人をフォローするためにそう言ってくれた。
「なんだ、お前体調悪いのか。ちょっと、保健室で寝て来い」
数学の教師は、口調を柔らかくしてそう言った。受験シーズンに入ると、教師たちは生徒に対して融通を効かせてくれる。いつもなら、厳しく叱責する居眠りも、ある程度は見逃してくれた。
教室を出ようとする和人に向かって、教師は「勉強は夜遅くまでするより、朝早く起きてした方がいいぞ」とクラス全体に聞こえる大きな声で言った。和人に言いながらも、クラスの全員に伝えようとしたのだろう。
和人は保健室のベッドに学ランを脱いで寝転び、先程の夢の内容を思い出していた。
真っ暗な空間であったが、よくよく思い出すとうっすらと漆黒の向こう側に風景が見えていたような気がする。それは確か、青々とした竹林だった。
それにしても、あの赤子はなんだったのだろうか。赤子の顔が変化したあとの女性の顔は知っているものだった。どうして赤子は、その女性の顔に変化したのだろうか。
和人は、ベッドに横になったものの、眠ることができずに、天井を眺めていた。
父親は、倒れる前に妙な夢に悩まされていた。さらに、母親も同じように深夜にうなされている。もしかしたら、自分も両親と同じ夢を見ているのかもしれないと、和人は思った。だがもしもそうだとして、この夢にいったい何の意味があるのだろうか。なぜ、家族三人が同じ夢を見ているのだろうか。
和人は妙な胸騒ぎを覚えた。
銀平に出勤すると、いつもと雰囲気が違うのを感じた。冷たい目線が、刺さって来るのが分かる。明らかに悪意に満ちた、これから人を陥れようとする冷たい目線だ。
紀子は、草原に投げ出された草食動物のような気分だった。いつ、肉を切り裂く言葉が飛びかかって来てもおかしくはない。
心拍数が上がり、息苦しくなる。
「ちょっと、峰さん。こっちへ来ていただけますか?」
店長が睨みつけるように、厨房の奥の方から手招きしている。
紀子は「はい」と消え入りそうな声を出し、控室へ入って行く店長の後を追った。その間も、周りからは冷たい視線が紀子に向けられる。
控室には、折りたたみ式の長方形の机と椅子とロッカーがあるだけだった。机の上には灰皿が乗せられており、吸殻が溢れんばかりに盛られている。その横に、制服の割烹着が無造作に置かれていた。
胸の辺りに白い名札が付けられており「峰 紀子」と書かれていた。
店長は椅子に座り、わざとらしく大きなため息をついた。紀子も、机を挟んで店長の反対側に座る。
「あのね、紀子さん。これは犯罪だよ」
店長が、そう言って鋭い視線を向けてくる。
「なんのことでしょうか?」
何のことかは分かっていた。割烹着のポケットの中にある、食券が見つかったのだ。だが、そんなことよりも、勝手に人のロッカーを開ける無神経さに紀子は苛立ちを覚えた。
「峰さんが、お客さんから受け取った食券を切らずに、ポケットに入れているのを見たって言う人がいてね。ちょっと調べさせてもらったんだけど。まさかこんなに出てくるとはね」
そう言って、店長は机の上の割烹着のポケットからいくつかの食券を取り出した。紀子は何も言わず、ただ下を俯いていた。きっと、告げ口をしたのは宮古だろうと思った。
「半券もいくつか、ポケットの中から見つかった。これは、お客さんの券を切らずに盗むために持っていたんだよな」
店長のけだるそうな声が鬱陶しい。
紀子は、自分のシャツの裾をぎゅっと握った。正義を盾に、責められているのが悔しかった。
この店のシステムは、客に券売機で食券を買ってもらい、店員が半券を受け取って厨房へ持っていく。厨房では、注文の順番に半券を並べて、その通りに料理を作って行く。だから半券がなければ注文は受けられない。紀子は、ゴミ箱に捨てられた半券を漁り、ポケットに忍ばせておいた。客の食券を切らずに、そのままポケットに入れて、捨ててあった半券を厨房に出す。そうすれば、切り取られていない食券を手に入れることができた。
紀子が配膳係であったからこそできる行為であった。
食券には、小さく日付も印字してあったが、忙しい時には誰もそれを確認することはない。
こうやって食券を手に入れ、後日和人に渡していた。できるだけ、食費を浮かしたいと思っていたし、栄養のある食事を食べさせたかった。
「今日で、辞めます」
紀子は消え入りそうな声でそう言った。
「あたりめぇーだ! それにまずは謝罪だろ謝罪! 謝ることもできないのかよ」
店長は、唾が顔に飛んでくるほど激しく喚き散らし、机を叩いた。
紀子は立ち上がり、控室を出た。
涙をこらえながら厨房を横切る。厨房の従業員達からは相変わらずの冷たい視線を感じる。犯罪者を見るような冷たい視線だ。
店を出ると涙が溢れてきた。手で目を押さえながら、歩いた。悔しくて、もどかしくて仕方が無かった。どうして、自分ばかりがこんな目に遭わなければならないのかと紀子は思った。
和人の顔が浮かんだ。時々、あの子さえ居なければと思うことがあった。紀子はその度に、頭を振り、その考えを追い出した。
繁華街を抜ける途中で、流れる涙を手で拭きながら歩いていたために、前が見えずに何人かの人にぶつかった。そのたびに怪訝そうな顔を向けられた。
大通りの横断歩道でいろんな人と紀子はすれ違った。手をつないで歩くカップル、駄々をこねる子供とそれを大声で叱る母親、足取りの遅い老夫婦、疲れた顔をしたサラリーマン。その誰もが、どこかに幸せを抱きながら生きている。なによりも、その人たちには未来がある。それだけで幸せではないか。自分はこの世で、最も不幸の淵に立っている。紀子は、そう思うと怨みにも似た感情が胸の奥からじわじわと沸き上がる。この理不尽な世界が憎かった。
紀子の足は、澄子のマンションへと向かっていた。澄子に、話を聞いて欲しかった。
「あら、今日はずいぶん早いですね。予約は六時過ぎでしたよね?」
壇澄子は、インターフォン越しに、明るい声で言った。時刻はまだ午後一時を過ぎた頃だった。
「ごめんなさい、ちょっと落ち着かなくって、早く来てしまいました」
「いま、ちょっと相談者の方が来ていらっしゃるから、えっーと……多分鍵は空いていると思いますので、待合室の方でお待ちになってくださる」
澄子にそう言われ、扉を開ける。マンションの一室とは思えないほど、広い玄関が現れる。お金持ちであることはすぐにわかる。
靴の仕舞われている棚の上には、枝に止まった鳥をモチーフにしたクリスタルの置物があった。置物は見る方向で、光の当たり方が変化し鮮やかな色を放つ。
紀子は、玄関で靴を脱ぎ、廊下を少し歩いて、待合室と書かれたボードの下がる部屋の扉を開いた。
部屋の中には黒いソファーと、腕をいっぱいに広げて、やっと両端に手が届くような大きなテレビがある。
ここは、角部屋であり、十四階に位置しているため、窓からの眺めも良かったし日当たりも良好だ。まだ、昼を過ぎたころということもあり、温かな日差しが部屋を満たしている。
紀子はテレビをつけて、ソファーに深く腰掛ける。目を瞑ると、銀平の店長の怒った顔が浮かび上がる。厨房の冷たい視線を感じる。
自分が悪いことをしたことくらい分かっている。だが、店の人間の態度が理不尽に思えて仕方なかった。自分は他の人とは違う辛い運命を背負っているのに、どうしてこんなにも責められなければならないのかと思うと、怒りすら込み上げてくる。
「紀子さん」
澄子の声に、紀子は目を覚まして、体を起こした。どうやら、ソファーで寝てしまっていたようだ。澄子が、扉の所から顔だけを出し、こちらを覗き見ている。五十代に差し掛かろうとしている女性にしては、肌に艶があり、スタイルもいい。着ている洋服も、嫌みでは無いほどの若々しさがあった。
壁に掛けてある時計は、午後二時半を回ろうとするところだった。
「ごめんなさい」
紀子は眠ってしまっていたことと、予定より早く訪れてしまったことの両方の意味を含めてそう言った。
「大変お待たせして申し訳ありません。先ほど、相談者の方が帰られました」
「そうですか、すみませんお忙しい時に」
「いいのですよ。さっきの相談者の方は、幽霊に毎晩悩まされているっておっしゃっていたんですがねぇ、ただの思い込みだったみたいなんです。霊現象のほとんどは思い込みからくる勘違いなんですよ。本当に困ったものです。さぁ、ではこちらでお話を聞かせてください」
紀子は澄子の後を追って、待合室の斜め前の一室に入った。その部屋は薄暗く、ぼんやりとした明かりを放つ室内灯が、部屋の四隅の床に置かれているだけだった。室内灯は水晶のような天然石の中に、電球を埋め込んだ物だ。
窓はすべて黒いカーテンで閉め切られている。外からの光は少しも漏れていない。
室内は広い割に家具は少ない。白い丸テーブルと二つの椅子とベッドが置かれているだけだ。
「紀子さん、精密検査の結果はどうでしたか?」
椅子に腰かけるとすぐに澄子がそう言った。その問いに、紀子は下を俯いて何も答えなかった。澄子はその表情から何かを読みとったのか「そうですか」と低い声で言った。
「旦那さんの状態はどうですか?」
「どんどん悪くなっています」
「そうですか、もうだめかもしれませんね」
澄子はあっさりとそう言った。弱った熱帯魚を見て言うような、言い方だった。
「覚悟はしています。でもよかった、澄子さんが言ったとおりに生命保険に加入しておいて。夫が死んでも、お金が入ります」
「えぇ、本当によかったわ。それにしても、今日はどうしたの? いつもは時間通りにいらっしゃるのに。それに目が腫れているみたい」
紀子は、今日の出来事を、澄子に話した。彼女は熱心にその話を聞き、深く何度も頷いた。すべてを知っていてくれ、理解してくれる人間がいることが救いだった。
話をしていると、沸々と腹立たしさが込み上げてくる。理不尽に作り上げられた社会への怒りを、澄子に吐き出していた。
熱くなって喋りつづけていた自分に気づき、紀子は「ごめんなさい」と頭をかかえるようにテーブルの上にうなだれた。
澄子は「いいのよ、あなたには他の人が背負えないほどの大きな運命が、のしかかっているのですもの。仕方がないわ」と言いながら、紀子の肩にそっと触れた。
紀子が澄子に出会ったのは、夫と結婚する前のことだった。
澄子はテレビにも何度か出演したことのある霊能力者であり、栄一郎の母親であるミズエの知り合いだった。
ミズエは、昔から澄子に霊視を依頼して、息子である栄一郎の進学などだけではなく、就職後の住む場所や、時には付き合うべき友人までも導き出してもらっていた。
紀子は栄一郎の家に婚約の許しを受けに出向いた後に、ミズエに呼び出されて、澄子の霊視を受けに行った。
ミズエは「あなたが、これから起きる悪いことを避けられるように、偉い霊能力者さんに霊視をしてもらいましょう」と言っていたが、あれは栄一郎の嫁にふさわしいかどうかを澄子に霊視してもらおうとしたのだろう。
紀子自身もスピリチュアルな世界に興味があったこともあり、ミズエからのその誘いには快く承諾した。
澄子は霊視を始めるなり、「栄一郎さんと、紀子さんが結婚すれば必ず不幸になります」と断言した。「絶対に結婚してはいけませんし、いまお腹の中にいる子供も生むべきではありません」とまで言った。
紀子は、妊娠していることを澄子には言っていなかったし、まだ妊娠がわかって二カ月もたっていなかったためにお腹もそこまで目立ってはいなかった。妊娠を言い当てられたことと、子供を産んではいけないと言われたことにひどく動揺した。それはミズエも同じだった。
さらに、澄子は次々と紀子の性格や今までどのような人生を送って来たかを言い当ててみせた。
だが、その時は澄子の能力を目の当たりにしても、信じることなどできなかった。これから訪れる幸せをすべて否定され、愛する人との間にできた命を殺せと言われたのだ。誰がそんな話を受け入れられるというのだろうか。
澄子の霊視を受けて以来、ミズエは手の平を返したように、栄一郎との結婚に反対し始めた。
紀子と栄一郎は、その反対を押し切って駆落ち同然で結婚した。
紀子と栄一郎は強く愛し合っていた。どんな困難も二人なら切り抜けることができるだろうと信じていた。それに、紀子のお腹に子供もいる。子供ができたと分かった時には、二人とも泣いて喜んだ。嬉しくて、幸せな気持ちで満たされた。この子を絶対に幸せにするのだと、二人は心に決めていた。
澄子の占いを受けた後も、さらに子供への愛情と責任感は強くなっていったし、紀子と栄一郎の絆も深くなった。否定されれば否定されるほど、愛というものは深まるのかもしれない。
それに栄一郎は、澄子の言うことばかり聞く母親にはうんざりしていたようだった。だが栄一郎は、澄子の霊視のすべてを否定しているというわけでもなく、彼女に言われたことをずっと気にしているようだった。澄子の能力を実感しているからこそ、栄一郎は彼女が言ったことをすべて否定できなかったのだ。
息子の和人が生まれてからも幸せな日々は続いた。だが、不幸は徐々に家族に忍び寄りつつあった。
和人が中学校に入学する頃だった、栄一郎が会社を辞めてしまったのだ。
職場で、いじめを受けて、耐えられずに辞めたのだ。
これは一度目ではなく、三度目の辞職だった。以前勤めていた職場を辞めた理由は、体調不良や仕事の内容が合わないなどであった。
一回目と二回目に仕事を辞めた時はすぐに、次の仕事を見つけることができた。だが、三度目となるとなかなか雇ってもらえる職場はなかった。
紀子は栄一郎が仕事を辞める度に、自分も働きに出ようかと提案したが、栄一郎はそれを許さなかった。女は家庭を守るものだという、昔ながらの考えを捨て切れていないようだ。それもこれも、ミズエの影響だったのだろう。
不幸はそれだけではなく、就職のために面接へ行く途中で交通事故に遭い、栄一郎は大怪我を負ってしまう。幸いにも、怪我は命には別状はなく、順調に回復し、二ヶ月後には退院することができた。だが、入院費や生活費で、貯金はほとんどなくなった。不運はドミノ倒しのように、家族に襲いかかって来た。
その頃に、紀子と栄一郎は、澄子のことを思い出し、すがるように彼女の元を訪れた。
この不幸を切り抜ける方法を、澄子なら教えてくれるかもしれないと思った。
澄子が、言ったことは、ほとんど現実になった。もう、彼女の予言を否定することはで
きない。澄子の言葉を信じ、彼女に頼る以外に、不幸から家族が抜け出す方法はないと思った。
澄子は、自宅マンションで相変わらず霊視鑑定を行っていた。澄子は、二人が訪れると難しい顔をしたまま「あなた方は、結婚してはならなかった。子供も生んではならなかった。もうどうしようもありません」と言い放った。
それから、澄子は、紀子と栄一郎に霊視結果を語った。「家族が不幸に襲われた原因」それは衝撃的な内容で、非現実的にも感じ、すぐには信じることができなかったが、決して否定することもできなかった。
その半信半疑の心も、数ヵ月後に栄一郎が原因不明の病魔に倒れて以来、確信に変わることになった。
栄一郎が病魔に倒れる前に、澄子が多くの保険に入ることを勧めてくれたお陰で、お金に困ることはなかった。
紀子は、それ以来、澄子の言っていることをすべて信じ、電車で一時間を掛けて澄子の所に通うようになった。
澄子のところに通うことは、ミズエには内緒にしてもらっている。
「紀子さん、あの夢に変化はありましたか?」
「徐々に夢の映像がはっきりとしてきました。あの夢と前世の記憶に繋がりがあることは澄子さんに言われて分かったのですが、途中で目覚めてしまうために、夢の内容はまだ曖昧にしか分からないのです」
「そうですか。では、旦那さんに行ったように、あなたも私の力で前世の記憶を見てみますか? 私の力を使えば、意識がある状態で前世の映像を見ることができるので、気持ちさえあれば前世の夢を最後まで見ることができるでしょう。ただし、覚悟は必要ですよ」
「夫に夢の内容を聞いて、とてもショックでした。でも、自分の目ではっきりと見てみたいと言う気持ちもあります。ただ、とても怖いんです」
「わかります。でも、今日はそのためにいらしたんじゃないですか? 心はもう決めていらっしゃるのでしょう? やはり、あなたが背負っている呪いの正体を、自分の目で見ておいた方がいいのではないでしょうか」
澄子がそういうと、紀子は深く頷いた。それを見た澄子は、紀子をベッドに誘導する。
紀子は、言われるがまま部屋の端にあるベッドに横たわり、目を閉じる。
澄子は、黒い布を紀子の目の辺りに被せた。
「私に合わせて深呼吸してください」と言う澄子の呼吸に合わせて、大きく息を吸って吐く。薄暗い室内で二人の呼吸がシンクロしていく。
紀子の意識は、暗闇にゆっくりと落ちていく。「リラックスしてください」と言う澄子の声が、反響するように室内に響き、鼓膜を震わせる。それが心地よかった。彼女の声には、何か魔力のようなものがあるのだろう。
「紀子さん、あなたは今海の中に居るのよ。息はできる。苦しくなんてないわ。体が流れに合わせて揺れているの。海の中には、太陽の光が差し込み、いくつも屈折して輝いている。とても綺麗な海よ」
澄子がそう言うと、紀子は実際に海の中を浮遊しているような錯覚を受けた。全身の体の力が抜ける。海の中は、太陽の光が差し込み、キラキラと輝いていた。魚などの姿はない。紀子は、広い海の中に一人で投げ出されていた。だが、怖くはない。澄子の声が聞こえてくるからだ。
「あなたは海の中にゆっくりと落ちていく。海の底は真っ暗だけど怖くはない。いいかしら? 十まで数えたら、あなたは完全に海の底へ落ちて行くのよ」
澄子はそう言って、十、九、八、七、六……とゆっくり数え始める。
その声に合わせて、紀子の体は海の底へ落ちていく。光の届かない漆黒の闇に体が包まれていく。
澄子が数を数え終わると、体は完全に海の底へ落ちた。
「私が手を叩いたら、あなたを取り巻く闇は完全に開け、まばゆい光に体が包まれます。その瞬間に、魂の記憶が覚醒します」
澄子はそう言って、手を叩いた。パンッという音がすると、遠くの方から光が迫ってきて、全身が包まれた。
洞窟の中だった。ランプが地面に置かれており、ガラスの中に揺れる炎が薄っすらと辺りを明らめている。
炎の明かりは、洞窟の一番奥にある祠を闇に映し出している。紀子はその祠の前に立っていた。
目の前に、着物を着た背の高い男が、白い布にくるまれた何かを持って立っている。先日見た夢の続きだとすぐにわかった。断片的だった夢の記憶も、ジグソーパズルが組み立てられていくように形になって行く。
男は、布の中身を見て驚いた顔をしていた。それが、赤子だったからだろう。
男は困惑した表情を見せながら、その布に包まれた赤子を地面に置き、少し考えるように額を掻いた。
次の瞬間、男は足をあげて、赤子に向かって踵から振り下ろした。
「やめて! そんなことしないで!」
紀子は目の前で行われている惨劇を止めたくて叫んだ。
「紀子さん、落ち着いて。それは前世の記憶よ。混乱してはいけないわ」
澄子の声が紀子の頭の中で響く。辺りを見回したが彼女の姿はない。
その声で、紀子は我に帰り、そうだこれは前世の記憶なのだと自分に言い聞かせる。
男が足を上げて、また赤子の上に踵を振り下ろそうとした時、洞窟の中に誰かが入って来た。軍服のような物を着た若い男だ。この赤子を抱いていたことから、父親だろうか。
顔の半分が火傷でただれ、血や傷口から出た体液で軍服にシミが着いていた。
若い男は肩で息をしており、とても苦しそうに見える。だが、地面に転がる赤子の姿を見た瞬間に、軍服の男は口を大きく開けて叫び、男に飛びかかった。
軍服の男の動きは鈍かったが、力はあるようで、着物を着ている方の男の肩を掴み、投げ飛ばそうと押したり引いたりしている。
着物の男も負けておらず、軍服の男のただれた顔面を殴りつけた。
二人は揉み合いながら、祠にぶつかる。着物を着た男が、軍服の男の頭を掴み、顔面を何度も祠の鉄の扉にぶつけた。その度に、鉄の扉に火傷している部分の肉片が剥がれて飛び散った。
鉄の扉の蝶番が錆びていたのか、何度目かに軍服の男の顔がぶつけられた時に、扉は外れてしまった。そのまま、軍服の男は祠の中に頭を押し込まれた。
祠の中にあった仏像や仏具が、その拍子に祠から洞窟の湿った地面に転げ落ちた。
それでも、着物の男は容赦なく軍服の男の頭を掴んで祠の中に押し込んだ。
軍服の男は、息絶えたのかそれとも気絶してしまったのか、抵抗することが無くなり、崩れるように地面に転がった。それを見て着物の男は満足そうに笑う。
地面に倒れた軍服の男の脇に、仏像が転がっていた。祠の中にあったものだ。
それから着物の男は、白い布に包まれた赤子を拾い上げた。まだ息はあるのか、手足が微かに動いている。
「やめて、やめて。澄子さん、助けて!」
紀子は叫んだ。次に行われる惨事を、紀子は栄一郎に聞かされて知っていたのだ。
「私が、三つ数えて、手を叩いたら、あなたの意識は現世へ戻って来るわ」
どこからか澄子の声が聞こえる。
着物を着た男が、赤子の腹に噛みついた。血が噴き出し、一瞬で男の口は真っ赤に染まる。食べているのだ。男は赤子を食べているのだ。まるで、リンゴに噛り付くように、赤子の丸く膨れたお腹に噛みついた。
噛み切られた赤子のお腹からは、内臓がドロリとこぼれおちたのが見えた。
「いやぁぁぁぁぁー」
そう叫んだ瞬間に、「パンッ」という手を叩く音が聞こえ、紀子は目を覚ました。
目の辺りに被せられていた布が濡れていた。その時に、自分が泣いているのだと紀子は気付いた。
「紀子さん、それがあなたの前世の記憶よ。そして、そこで見た祠に祭られている祟り神にあなた方は呪われたの」
「どうして私達がこんなことに」
「以前、栄一郎さんと一緒に来たときにお話しした通りよ。理不尽で残酷だと思うかもしれないけど、そんなことは祟り神には関係ないし、それが呪いというものよ」
紀子は、お金を包んで、お布施として澄子に渡した。それからすぐに、マンションを後にした。
前世を見たことで、酷く気分が悪かった。継続的な吐き気に襲われる。
着物を着た男が赤子に噛みつく映像が、頭の中で何度も繰り返し再生されていた。
澄子は、紀子が帰ると、すぐに封筒に入れられたお布施の額を確認する。額が少ないと思い、舌打ちをする。アルバイトで生活費などを稼いでいる紀子にとっては、これが限界なのだろう。ただ、夫の保険金が入れば、彼女からのお布施ももう少し増えるだろうと澄子は思った。
紀子の前に来た相談者から受け取ったお布施は、紀子の三倍の額が収められていた。澄子はそれを見て満足そうな顔をする。霊能力を持ち、人々を救う能力のある自分が受ける額としては妥当だろうと感じていた。
ただ、お金のためだけに霊能力を使っているわけではない。相談者達は澄子のことを信じ切っており、騙そうと思えば簡単にだませるだろう。だが、澄子はそのようなことをしなかった。
紀子の前に来た相談者は、家族に起きる数々の不幸や、誰も居ない家の中を走り回る足音に悩まされていた。話を聞けば、誰もが呪いや悪霊と言った言葉を思い浮かべるかもしれない。だが、霊視の結果、それらはただの相談者の思い込みだった。よくあることだ。そのようなときは、ハッキリと相談者に、それは勘違いであると告げる。たとえ、多くのお布施を包んでくれる相談者であったとしても、霊が憑いていなければ、澄子は本当のことを言う。
人間と言うのは実に自分に都合のいい生き物だ。悪いことがあればすぐに霊や呪いなどの見えない力のせいにする。そうすることで、自分は悪くないと言い聞かせ、納得するのだ。
結果には、必ず過程と原因がある。悪いことが続くと言うような場合、大抵はその人間に問題があるものだ。
太古の時代から人は、天災や不可思議なことが起きると、すぐに悪霊や呪いや神様のせいにしてきた。澄子はその安易で自分勝手な人間の考え方が嫌いだった。
紀子が帰って数分後に、チャイムの音が鳴る。その日の、霊視鑑定の予約はもう入っていなかったはずだ。
あぁ、そうか、保険の外交員が来たのだなと澄子は思った。
人の人生に関わる仕事をしていると、相談者に保険を進めたくなることも少なくない。そこで、知り合いの外交員達を通して、相談者に保険を紹介しているのだ。
保険を紹介すると、何も要求してもいないのに外交員達は決まって澄子に謝礼を渡してきた。額はさほど多くはなかったが、少ないとも言えない。
ただ、保険を紹介するだけで、澄子にはなんの手間もない。
相談者が良い保険に入れて、自分にもお金が入って来るのであれば、これ以上にうれしいことはなかった。
玄関まで行き、扉を開けると、鬼のような形相のミズエが外に立っていた。少し開いた扉の隙間にミズエは、波打っているような皺だらけの手を差し込んできて、無理やり開こうとした。この日は、もう相談者の予約は入っておらず、チェーンロックをはめていたため、ガシャンという音が響く。
「ちょっと、ここを開けておくれ! 話があるんだよ」
「どうなされたんですか? いつもは水曜日にいらっしゃるのに」
「いいから、ここを開けるんだよ!」
ミズエの迫力に押されて、澄子は一度扉を閉めチェーンロックを外した。
「紀子がここに来てなかったかい? 今さっき、マンションを出てきたところを見たんだよ」
ミズエはそう言いながら、勝手に中に入って来た。
澄子の親も霊能力者で、親子代々ミズエから相談を受けている。もうミズエとは、長い付き合いになる。ミズエの曲がった背中がまだまっすぐで、肌に皺も無く、綺麗な貴婦人だった頃から知っている。
だが、親しき仲にも礼儀は必要ではないかと、澄子は思う。
澄子は、ミズエの問いに何も答えなかった。相談者のことは、たとえ親族でも話すべきではないと思っているからだ。
「澄子さん、あんたあの女から相談を受けていて、私に黙っていたんだね」
「おっしゃる通り、紀子さんから相談をお受けしておりました。ですが、お話しすることはできません」
「あの女のことなんて、どうでもいいわ! それよりも栄一郎はどうなんだ、ちゃんと生きとるのか?」
ミズエの険しい剣幕に、澄子は二三歩退く。それに合わせてミズエは、室内にずかずかと入り込んできた。
「えぇ生きていらっしゃいます」
澄子がそう言うと、ミズエは強張らせていた顔を一瞬だけ緩め母親の顔に変わる。
「ただ……非常に危険な状態です」
「なんだって! 栄一郎はどこにおるんだ? すぐに会わせておくれ」
ミズエは澄子に掴みかかるようにして言った。皺で隠れてしまった目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「それは、できません。親族とはいえ、相談者のことをお話しすることはできません」
「バカモノ!」
ミズエが叫ぶ。
「あんたが、成功したのは誰のお陰だ! 私があんたの親に世話になったからというよしみで、金の面倒や、テレビ局との話をつけてやったのに、恩をあだで返すのかい? あんたは栄一郎のことや、あの女のことを全部知っていて私に黙っていたんか? あんた、そりゃあ裏切りだよ」
ミズエは癇癪を起して、叫び散らした。元々は穏やかな人ではあったが、栄一郎と紀子が駆落ちして以来、人が変わってしまった。特に、栄一郎の話になると、彼女は自分が何者なのかを忘れてしまうようだった。
ミズエの夫は有名な企業の会長であったし、親族も企業の社長や、国会議員がいる。格式の高い一族である。そのために、いろいろな業界に顔が利く。
澄子が、テレビに出演し有名になれたのもミズエのお陰だった。
霊能力者であった母親が死に、後を継ぐように澄子は霊視鑑定を自宅マンションで開業した。
霊視鑑定も人気が必要な商売であったため、澄子も開業当時は酷く苦労した。夜遅くまで、スナックで働いていた時期もあった。そんなときに、ミズエがテレビ局の人間に話をつけ、当時流行っていたオカルト番組に出演させてくれた。
澄子の人気は、まさにうなぎのぼりだった。テレビに出る前と、テレビに出た後では生活には天と地の差があった。テレビに出ている人間を、視聴者は無意識のうちに憧れて尊敬し、正しいと思い込む。
それからは夜の仕事を停めることができた。スナックで、酔っ払ったオヤジに胸を触られることも、怒鳴られることも無くなった。醜いアヒルが、白鳥に成長した瞬間だった。
「金が欲しければいくらでも払ってやる。また、テレビに出たければ話をつけてやる」
ミズエは泣きながらそう訴えかけた。
最近、相談者が減ってきている。流行が過ぎ、人々に忘れ去られてしまえば、人気商売である霊視鑑定で生活するのは難しくなる。もう一度、一花咲かせたい。澄子はそう思っていた。
「ミズエさんは、昔から私を助けてくれました。今の私があるのは、ミズエさんのお陰です。ですが……」
「そうだろう。今は私が困っているんだよ、助けてくれ。お願いやから助けてくれ。あんた、私を見捨ててもいいのかい? ほんとうに私を裏切っていいのかい?」
ミズエは玄関で泣き崩れ、蹲った。
もし、ミズエをこのまま突き放し、後ろ盾を失ってしまったら自分はどうなるのだろうか。そう考えると澄子は恐ろしくなった。
澄子の自宅で前世の記憶を見てから四日後のこと。紀子は、コンビニのアルバイトの面接を受けて、自宅へ戻った。だから、銀平で働いて帰る時間よりも早くに帰宅することになった。
自宅の玄関には、和人の靴が転がっている。「また、脱ぎっぱなしにして」と口の中で、紀子は愚痴るように言って、靴を揃えておいた。
リビングに和人の姿はなかった。靴があることから帰ってきているはずなのだが、と思いながら和人の部屋の扉を開ける。電気がついておらず、誰もいない。
トイレにもいなかった。
「和人、帰っているの?」
部屋に響く声で、そう言うと、紀子の寝室の扉が開いた。紀子の寝室は、和人の部屋の前にある。
「なにしていたの?」
「いや、別に。ちょっと探し物。それよりも今日は早かったね」
和人は目を合わせないままそう言い、リビングの方へ歩いて行った。
「仕事がちょっと早く終わってね」
銀平を辞めたことを、和人には言っていない。
和人は、リビングからベランダに出て、干してあった洋服を取り込み始めた。和人は何も言わなくても積極的に家事を手伝ってくれていた。申し訳ないと思いながらも、本当にありがたかった。この子なら、一人になってもうまくやっていけるだろうと思ったし、そう思わなければやっていけない。
和人は、取り込んだ洗濯物を床に座ってたたみ始める。栄一郎に似て、何事にも丁寧だった。Tシャツはまるで店に売りモノとして並べてあるような、綺麗なたたみ方だった。紀子が教えたわけではない。彼が勝手に学んだのだ。
紀子も、和人の横に座り、タオルをたたみ始めた。何気ないが、親子で同じことをしているこの時間が愛おしく感じた。
「ねぇ、母さん」
和人はシャツをたたみながら、下を向いて力の無い声でそう言った。
何か悩みを抱えているように感じ、紀子は不安になる。
「どうしたの、和人」
「いや、やっぱりなんでもないや。ごめんね」
「なにか、話があるなら遠慮せずに言いなさいね。欲しいものでもあるの? それとも学校で何かあった?」
「いや、欲しい物もないし、学校でも上手くやれている。この前の、模試だって塾に行っている奴らよりもいい点取ったんだ。だから心配しないで」
和人は、俯きながらも笑顔を見せた。その笑顔が余計に、紀子の不安を煽る。
無理しているのだろう。父親が居ないことや、お金が無いことから不満や不安が和人の中に膨らんでいるのは、紀子にも分かっている。
まだ彼は、心が形成されていない不安定な十五歳の男の子なのだ。甘えたいだろうし、思いっきり好きなことに熱中したいはずなのに、それをさせてあげることもできない。
無理に笑顔を作る和人が痛々しく感じた。紀子は、胸が締め付けられる思いだった。
食事を終えた後、和人は友達と遊びに行くと言って家を出た。別に、珍しいことでは無かったが、先ほど洗濯物をたたんでいた時の様子が変だったことから気になっていた。
それに、最近では受験勉強のためにあまり遊びにも行かなくなっていた。それを思うとやはり不自然にも感じる。
紀子は、寝室へ入った。
もしかしたら、和人は寝室で何かを見たのかもしれない。よくよく考えれば、和人が探し物をするために寝室に入って来るというのもおかしな話だ。
紀子の胸を不安がよぎる。
寝室で一番初めに目に入ったのは、ベッドの横にある棚だった。その棚はベッドの付属品であるため、ベッドと高さが同じで、引き出しは四つある。
上から三番目の引き出しが、微かに開いていた。和人が開けたのだとすぐに分かった。
慌てて、その引き出しを開ける。
中には、生命保険の契約書などが何枚も入っている。栄一郎に掛けた三種類の生命保険の契約書と、紀子が自分自身に掛けた五種類の生命保険契約書だ。どれも、澄子に勧められて契約した生命保険ばかりだ。
一社だけに加入するよりも、多くの会社の生命保険に入った方がいいと澄子に言われたからこんなにも多くなってしまった。
澄子が言った通りに栄一郎が病魔に倒れたことで、紀子は栄一郎に掛けていたよりも多くの保険を自分に掛けている。
アルバイトで稼いだお金は、ほぼすべて保険の掛け金に消える。生活費は、栄一郎が病魔に倒れるまで貯金しておいたお金を切り崩しながら捻出していた。
和人はなぜこれを見たのかという疑問よりも、これを見て何を思ったのかということが気になった。
和人は、なんらかの疑惑を抱いただろうか。そう考えながら、和人の先ほどの様子を思い返していた。和人は明らかに、何かを言おうとしていた。
いくら十五歳の子供でも、これほど多くの生命保険の契約書を見たら、不審に思うだろう。
滑り台と砂場とブランコがあるだけの小さな公園。街灯の下には、古い木製のベンチが一つ。そこに和人は座っていた。
時折冷たい風が、頬と手をかすめていき、体温を奪っていく。
どうしても母親と二人で、家の中に居ることが和人にはできなかった。逃げるように和人はこの公園へ来ていた。
生命保険の契約書を見た時、和人は愕然とした。すべてあの老婆と、小奇麗な中年の女性が言っていたことと同じだったからだ。結局、精密検査の診断書のようなものは見つけることは出来なかったが、以前に健康診断の結果が印刷された紙を見たことがあった。可能性としては、二人が言っていたことはあり得る。
二人と会ったのは、その日学校から帰宅している時だった。自宅マンションの前で、呼びとめられた。
「峰和人さんですか?」
中年女性がそう言いながら、顔を覗き込んできた。和人が小さく頷くと、その女は「峰栄一郎さんと、峰紀子さんの件でお話がございます」と神妙な顔で言った。それから「命にかかわるような重要な話なのです」とつけ加えた。
女は壇澄子と名乗った。どこかで見たことのある顔だと思ったが思い出せない。
澄子は、目上の者に頼みごとをするように低姿勢だった。和人も悪い気はしなかった。
澄子の固い表情から、良い話ではないことはなんとなくわかった。まさかこの女性から父と母が借金でもしているのではないかと考えてもみた。家にお金が無いことは知っている。それも、あながちあり得ない話でもないだろう。
和人が、迷うような表情を見せると、澄子は何度も頭を下げて「一緒に来て欲しい」と頼みこんできた。
和人は、澄子が両親のことについて重要な話があると言うので、彼女の後ろからついて歩いた。もしかしたら、スーツにサングラスをはめた男達が現れて、車に連れ込まれるのではないかと不安にもなった。
だが、和人が連れて行かれたのは近所の小さな喫茶店だった。老夫婦がひっそりと営むお店で、繁盛こそしていないものの、地元の人たちの憩いの場となっているようだった。
店内は、長方形の形をしており、カウンター席に椅子が六脚と、テーブルが四脚あるだけだ。
カウンターにコーヒーを淹れるためのサイフォンが二つ置いてある。奥の棚には、大きな透明の瓶に入れられたコーヒー豆が見えた。
コーヒーのスモーキーな香りが鼻を撫でる。和人はコーヒーを飲むことは好きではなかったが、香りを嗅ぐと心が落ち着く。
客は、カウンター席の真ん中に高齢の男性が一人、奥のテーブル席に熟年の女性達が四人、そして高齢の女性が入口のすぐそばの、窓際の席に一人いるだけだった。
窓際のテーブル席に座っている高齢の女性は、壁際に設置されたソファーに座り、和人を睨むように凝視している。重力に従って伸びた瞼の皮に、瞳が埋もれているせいで、睨まれているように感じる。
顔中には、彫刻刀で削りだされたような深い皺があり、人生の苦労の跡を浮彫にしているようだった。
和人は澄子に促されるまま、席に座った。どうやらスーツの男達が現れて、脅されるようなことはないようだった。
席に着くなり老婆は「和人さんかい?」と尋ねてきた。和人は不審に思いながらも、そうだと答えた。
老婆は自分が「峰ミズエ」であるという前置きをして、栄一郎の母親であり、お前の祖母だと和人に言った。
そんなはずはなかった。両親からは、父方の祖母はすでに死んでいると聞かされていたからだ。では、目の前にいるのは幽霊か、それとも大嘘つきの老人か。和人はそう考えながら酷く混乱していた。会ったことも無い、死んだはずの人間が目の前にいるのだ。
両親が嘘をついているなどということは、和人の頭にはこれっぽっちも浮かんでは来なかった。
そう言えば、祖母の写真はおろか、墓参りにすら行ったこともないと和人は思った。
ミズエは、ごそごそと巾着袋から、何かを取り出してテーブルの上に置いた。
まずテーブルの上に置かれたのは、目の前に居るミズエと見知らぬ老人と栄一郎が映る写真だった。写真の中の栄一郎はまだ若かった。
正装の栄一郎は、洋風の椅子の後ろに立ち、背もたれに右手を乗せている。その横には見知らぬ白髪の男性が映っている。椅子には和服を着たミズエが座っていた。この写真が栄一郎の二十歳の誕生日に写真屋で撮影したものだと、ミズエは説明した。
白髪の男性は、栄一郎の父親だとミズエは言った。つまりミズエが言っていることが本当であれば、そこに映っているのは和人の祖父であることになる。
ミズエは、巾着袋から別の何かを取り出した。そこに置かれたのは、赤ちゃんを抱いた女性の絵が描かれた手帳のようなものだった。
表紙には手書きで、峰栄一郎の名前が書かれている。和人はその手帳を手に取ると、母子手帳であることが分かった。目の前にいる老婆が、自分の祖母であると否定する方が難しいように和人は思えた。
和人は、横に座っている澄子に目をやった。「お前は誰だ?」という意味をこめた視線だった。父親の姉かもしれないと和人は思った。だが、その予想は大胆に裏切られる。
「あらためまして、私は霊能力者の壇澄子です」
澄子はそう言いながら下品なロゴの入った高級バッグから、シルバーのカードケースに入った名刺を渡してきた。
名刺には、壇澄子という名前以外に、霊視鑑定、守護霊鑑定、前世治療などという胡散臭い文字が並べられていた。
だが、その名前には聞きおぼえがあった。和人は、口の中で彼女の名前を声に出してみる。
そこでようやく、記憶の隅にあった何かに、その名前が引っ掛かった。何年か前にテレビ番組で彼女の姿を見たような気がする。母親が、熱心にその番組を見ながら、この人は自分の知り合いであると誇らしげに話していたことを和人は思い出していた。
「和人さんとご両親に関して、重要なお話があります。これは、あなたの両親の命にかかわるお話です」
澄子がそう言った。和人は、澄子とミズエの顔を交互に見比べて、その話の重さを計っていた。澄子と目が合うと、彼女は眉間にしわを浮かべながら目をそらした。ミズエは、睨みつけるように和人を見ていた。
彼女達から語られた話は、到底信じることのできないようなものだった。だが、すべてを否定することもできない。彼女達が言ったことは、すべて正しかった。家族に起きた不幸をすべて言い当てて見せた。そして、父親と母親に掛けられている保険金についても言及した。和人はそれを知らなかった。
だが、もう一つ知らないことがあった。母親の病気である。
和人は、家に帰り、二人が言ったことの裏付けをするために、母親の部屋を探った。彼女達が言っていた書類を見つけ、和人は全身に蛇が這いあがって来るような悪寒が走るのを感じた。
知らない星の上に一人取り残されたような深い孤独が、和人を襲った。
公園は、緑色のフェンスに囲まれている。出入り口は、公園の右側と左側に対角線上にある。左側の出入り口の近くには滑り台がある。その向こう側に、人影が見えた。
樹里だということはすぐにわかった。
樹里は公園内に入って来ると、右手を頭の上で左右に振ってみせた。桃色の頬をあげて、樹里は優しく微笑む。
和人の後ろにある街灯が、樹里の長い髪を照らした。胸の辺りまである長い髪は、痛んでいる様子はなく、いつも水で濡れたように艶やかだ。
樹里の顔は十五歳にしては大人っぽく見える。百六十八センチと背も高い。和人の方が上背はあるものの、樹里がヒールを履けば完全に身長を抜かれてしまう。
「どうした?」
樹里は、おっとりとした声でそう言った。唇をあまり動かさないで喋る低い声が、和人は好きだった。
樹里は、和人の左側に座った。
「ただ、会いたくて」
「めずらしいね。和くんがそんなこと言うなんて。最近は、受験勉強が忙しいって言って会ってくれないのに」
「ちょっとさ、いろいろあってね」
「いろいろって、なにがあったの?」
樹里の問いに、和人は何も答えなかった。
聞いて欲しいことは山ほどあった。だが、どれも樹里にできるような話ではない。
澄子の話しを聞いてから、和人は母親とどう接すればいいか分からなくなっていた。なんとか、平静を装ってはみたものの、家にいるのが耐えられずに飛び出してきたのだ。
和人の胸の奥の方で、母親に対する怒りや憎しみに似た感情が込み上げて来ていた。どうして、こんなことになるまで、母親が何も行動を起こさなかったのかがもどかしい。相談をしてくれれば、何とでもなったかもしれないのに。和人はそう思い、唇を噛んだ。
樹里を呼び出したのは、その話を聞いてもらいたいわけではなく、ただ、無条件に側にいてくれる誰かと一緒に居たかったからだ。
「和くん、大丈夫?」
樹里は右手で、和人の左手の甲に優しく触れた。
その時、自分が拳を強く握っていることに、和人は気付いた。
心配そうに顔を覗き込んでくる樹里に、頬笑みを返す。樹里は不安そうではあったが、柔らかな頬を上げて笑顔を作った。
それから樹里は、雰囲気を和ませるためなのか、受験のことや、学校のことや、もうすぐ付き合って四カ月記念だという話をしてきた。
「そういえば、もうすぐ四カ月になるんだね」
和人が樹里の方に目を向けると、彼女は恥ずかしそうにハニカミながら頷いた。
恋の始まりは、樹里が和人に告白してきたことだった。初めは、樹里に自分がからかわれているのではないかと和人は思ったが、彼女は真剣だった。どうしていいのか分からなかったが、周りの友人達の手伝いもあって、交際はスタートした。
樹里は、華やかな外見とは違って、純粋に物事を捕らえる目を持っていることは、付き合いだして数週間後にはわかった。
人の悪口を言わないし、人が人の悪口を言うことも許さなかった。物事をはっきりと言う半面、言葉には常に気遣いが見え隠れしている。
それに、分け隔てなく誰とでも話す。意識してそうしているのか、無意識にできているのかは分からないが、彼女の前では国境ですら意味を無くすのではないかとさえ思えた。
物事を皮肉に捕らえてしまう、和人にとっては、彼女はある意味衝撃的であり、尊敬できる数少ない存在だった。
樹里に、あの話をすれば、もしかしたら信じてくれるかもしれない。
だが、話してしまえば、樹里も失うかもしれない。そう思うと怖くてできなかった。
和人は、拳に触れている樹里の手を握り返した。掌に包まれた樹里の手は、とても冷たく感じ、自分の手が温かいということを改めて和人は知った。
手を通して熱を樹里に供給しているような気がして、和人は嬉しくなる。彼女の手は、和人の掌の中でゆっくりと熱を帯びて、心地よく湿っていった。
本当は、この手を離したくはなかった。
「なぁ、樹里。俺さぁ、この町を離れようと思う」
手ごたえはあった。チェーン展開している古本屋の面接で、いつからシフトに入れるかと聞かれた。「すぐにでも」紀子はそう答えた。店長は、採用の方向で話を進めると言ってくれた。銀平の時の店長とは違い、柔らかな口調の優しそうな人だった。ぽっこりと出たお腹が、その印象をさらに強くしていたのかもしれない。
生命保険の支払いもあるため、できる限り早くお金が欲しい。後日結果を連絡すると言われて、紀子は何か欲しかった物がもうすぐ手に入るような落ち着かない感情を抱いていた。
紀子は自分へのささやかなお祝いとして回転寿司屋で昼食をとった。だが結局、百円の皿を五枚積み上げたところで手を止めた。
家の扉を開けると、和人の靴が玄関先に転がっていた。一足は丁寧に並べられたようにまっすぐ、紀子の方につま先を向けている。もう片方は、じゃれていた犬が腹を見せるように、裏返っている。
紀子は何かあったのかと思い、和人の部屋に駆けて行った。まだ、時刻は一時だった。
和人は学校へ行っているはずで、普通なら家に居ない。
今朝、玄関で見送った時、和人の顔色が優れなかったのを思い出す。学校で体調でも崩し、早退して家に帰って来たのかもしれない。
和人の部屋の前に来ると、ノックもせずに扉を開ける。
ベッドの上に胡坐をかいていた和人は、紀子の姿を見て、驚いた顔をした。まさか、紀子がこんな時間に帰ってくるとは思わなかったのだろう。
「どうしたんだよ、お店に行っている時間でしょ?」
和人は目を丸く見開いてそう言った。
「それはこっちのセリフよ、まだ学校の時間じゃない?」
和人が元気そうで、紀子はホッとした半面、彼がこの時間帯に家にいる理由が分からない。
「今日は、早く終わったんだよ」
和人は、目を泳がせながらそう言った。嘘が下手な子だなと紀子は思い、なぜか安心した。この子は、嘘をつけない人間だ。
紀子が、不審に思ったのは和人がこんな時間に家にいることだけではない。部屋が、荒れているのだ。洋服が箪笥から引っ張り出され散乱している。この部屋にだけ竜巻が発生したのではないかと思えるほどだった。
さらに和人の横には、修学旅行で使ったバッグが横たわっている。そのファスナーは開いており、中に洋服が詰め込まれているのが見えた。
「どこかへ行くの?」
「旅行」
ぶっきらぼうに、和人がそう言った。怒りに似たなにかがその言葉に込められている。
「旅行って、あなたもうすぐ受験じゃない。いったい何考えているの? 誰と行こうっていうの?」
「友達」
「こんな時期に行かなくたって。それに、お金だって持っていないでしょ?」
紀子が言葉を発する度に、バッグに服を詰める和人の動作が乱暴になっていく。
「もう、放っておいてくれないかな」
そう言って和人はベッドから立ち上がり、紀子を部屋から押し出した。
和人は、引き攣ったように顔の中心に皺を作っていた。怒りともとれたし、悲しみともとれる表情だった。
和人が、反抗的な態度をとることは初めてではなかったが、こんなにも激しくハッキリとした親への反発はいままでになかった。
紀子は、和人の部屋の扉を叩いて訴えかけようとも思ったが、すぐに思いとどまった。
和人も、普通の十五歳なのだ。父親が病気になり、母親と二人での生活。不安もあるだろうし、不満もある。ずっと甘えられずにいたのだ。そう思うと、これ以上、和人の突然の行動の理由を探る気にはなれなかった。
少しの間、放っておいた方がいいかもしれない。それが、今母親としてできる唯一のことかもしれない。
学校から電話があったのは、そのすぐに後だった。欠席の連絡を親がせずに、無断欠席してしまうとこうして担任の先生から連絡が来るのだ。
和人が学校を休むための適当な理由を作り、連絡が遅れてしまって申し訳ないと謝った。担任の先生は、さほど興味もなさそうに、そうですかと答えて電話を切る。
紀子は、食卓台の椅子に座り、頭を抱えた。放っておこうと決めたものの、やはり和人のことが気になる。こんな時、父親である栄一郎が居たらどんなに頼りになるだろうか。考えてみたが、悲しくなるばかりだった。
いったい、和人は何を考えているのだろうか。そもそも、こんな時期に旅行に行く友達などいるのだろうか。推薦入試で進学先を決めた子たちだろうか。だが、そういった子たちもさほど多くはないだろう。普通なら、一般入試が終わった後に、みんな揃って旅行に行こうと考えるのが普通ではないだろうか。
和人の部屋からは物音はほとんどしなかったが、部屋に籠ってから二時間後に、話声が部屋から洩れてきた。
紀子は足音を立てずに、和人部屋の前まで行き、聞き耳を立てる。どうやら携帯電話で誰かと話しているようだ。旅行に行くと言っていた友達だろうか。
「今日は……無理です。行けません。はい、はい……母が突然帰ってきて。はい、平日のこの時間は仕事に行っているはずなんですが……」
微かに和人の声が扉越しに聞こえる。この時ばかりは、マンションの壁の薄さに感謝した。
和人の電話の相手は誰なのだろうか。もし友人なら、敬語など使わないだろう。先輩だとしてもどこかよそよそしい。
「えっ? ……ん平を? どうして……嘘でしょ? そんなことって……」
扉越しであったために、和人の声は聞きづらかったが、その声に驚愕と落胆が入り混じっているのだけはわかった。
紀子は、和人の部屋の前から足音を殺して離れた。
和人の電話の会話を聞くことに、罪悪感を覚えたわけではない。会話の中に「銀平」という単語が出てきたような気がしたからだ。いや、そんなはずはない。きっと気のせいだろう。そう紀子は思った。だが、銀平の人間から噂が流れて、波のように波紋をたてて広がり、和人が電話している相手の所に流れ着いたという可能性はないだろうか。
急に体温が五度ほど下がったような気がした。
紀子は自らの犯した罪を思い出し、胸が締め付けられているような息苦しさを覚えた。
夕食ができたので、ノックして呼んでみたが和人の部屋からは返事はなかった。まさか部屋の中にいないのかもしれないと不安になったが、扉を開ける勇気はない。
何度かドアノブに手をかけたが、和人の怒ったような悲しそうな顔を想像すると、ドアノブを回すことはできなかった。
仕方なくトレーに乗せた煮魚と、サラダと、お吸い物と、米を和人の部屋の前にそっと置いて、声を掛けた。数分後、部屋の前からトレーは消えており、部屋の中で食事をとったようだった。
和人が部屋の中にいるということがわかっただけでも、紀子はホッとした。
結局、その日和人は自分の部屋から出てくることはなかった。
紀子は、夜中眠れないでいた。和人のことが気になって仕方がない。
深夜に、紀子の寝室の前にある、和人の部屋の前に立ってみた。中からすすり泣く声が聞こえる。
和人と自分を遮る一枚の扉を開けて、すぐにでもその涙の理由を聞きたかった。「なにがあったの、話してごらん」と母親らしいことを言ってあげたいと紀子は思った。幼子をあやすように和人の頭を撫でてあげたかった。
母親の紀子にとって、和人はいつまでも子供のままだ。いくら和人が成長し、紀子が老いていっても、永遠に母と子の関係は変わらない。
紀子は長い間和人の部屋の前に立っていたが、やがて扉に背を向けて寝室へと戻った。
以前は夫と二人で使っていたダブルベッドの上は、ひどく寂しい。
紀子は、子供のように布団にもぐりこむ。
和人のすすり泣く声を聞きたくはなかった。
目を閉じても、意識は暗闇に溶けていくどころか、トンネルの出口の方へ向かうように鮮明になっていく。静かな部屋の中で、感覚はさらに研ぎ澄まされるばかりだった。
聞こえているかどうかもわからない和人の泣き声が、その夜は耳から離れなかった。
久々に花束を買った。一本の茎から波打つような花弁が四枚生えている。それが全部で八本ある。
どれも鮮やかなピンク色をしていた。花弁の先端はより鮮やかで、茎の方に向かって薄くなっていく。そのグラデーションが美しかった。
紀子は、そのスイートピーに時折鼻を近づけては香りを楽しんだ。無理に色をつけた香りではなく、自然で控えめな香りだ。
昨日、和人の様子がおかしかった。それを、栄一郎に相談したい。上手く会話ができなくても、家族として栄一郎と問題を共有しておきたかった。
病院の長い廊下で、栄一郎の担当をしている看護師の女性に会った。笑顔を作るのが上手な中年の女性だ。
看護師の女性は、紀子の持つスイートピーに目をやると、いつものように真っ赤な口紅が塗られた唇を緩めてにっこりと笑顔を救った。
「こんにちは」
紀子も、看護師の女性もほぼ同時に挨拶をした。
「綺麗なお花ですね」
「花瓶があるのに、花が無いと、病室が寂しく感じると思って」
「あらっ?」
看護師は不思議そうな顔をして首をかしげた。紀子も、つられるように首をかしげる。
「さきほど、峰さんの病室に行ったら、花が飾ってありましたよ」
「そんなはずはないと思うのですが」
紀子はそう言いながら難しい顔をして見せた。
看護師の女性に会釈をし、栄一郎の病室へと急いだ。誰か、栄一郎の見舞いに来たのだろうか。だが、和人と紀子以外は誰も栄一郎が病気で入院しているなど知らないはずだった。
栄一郎の病室に入ると、微かに花の匂いがした。ベッドの脇のテレビなどが乗せられている台の上にある花瓶に、花が活けられている。いくつもの種類を合わせて作られた花束のようだった。
いったい誰が、置いて行ったのだろうか。
この花束が、好意的な意味合いで活けられたことはわかるが、どことなく不快だった。
夫婦の秘密を見られたような気がしたのだ。
栄一郎は、薄らと目を開けていた。
目脂が目頭についている。紀子はそれを手で払うようにして取ってあげた。
「栄ちゃん、誰かここに来たの?」
栄一郎は、口にはめられた呼吸器の中で、パクパクと口を動かしている。
紀子は、栄一郎の顔に耳を近づけて彼の声を聞いた。
「お……さぅおか」
喉に痰が詰まっているのと、呼吸器をつけていることで、声が籠って聞きづらい。栄一郎は喋る度に、苦しそうな顔をさらにしかめてみせた。
あまり喋らせても可哀想だと、紀子は栄一郎から顔を離した。
紀子は、スイートピーの花束を、花が活けられている花瓶の横に置いた。
栄一郎の方を見ると、まだ、口をパクパクと動かしている。首の真ん中に、虫がいるみたいに、喉仏が上下にもぞもぞと動いている。
「どうしたの、栄ちゃん?」
これ以上、栄一郎が少しでも動けば、蝋燭が溶けるように寿命が減っていく気がした。
紀子は、もう一度栄一郎の口元に顔を近づけた。今度は、口につけた人工呼吸器の隙間をすこし開けて、声を聞いた。
久しぶりに聞いた栄一郎の声は、蝿の羽音のように細かく震えていた。その声を聞く度に胸が締め付けられる。
「おが、さ……きだ」
「おかさ? 来た?」
紀子は何度か口の中で繰り返してみた。
紀子の頭の中に、ある人物の顔が浮かびハッとした。
「まさか、どうしてここに?」
花瓶に活けてある花束に目をやった。
紀子は、栄一郎の耳元に顔を近づけて、クイズの答えを耳打ちするように言った。すると、栄一郎は頷くように顎を引いて見せた。「おかあさんがきた」そう栄一郎は言おうとしていたのだ。
歩く度に怒りが足元から込み上がって来る。
栄一郎が、病気になって入院していることをばらしたのは、あの女に違いない。
紀子は、澄子の部屋の前に来ていた。あらかじめ澄子には連絡はしなかった。
オートロックの扉は、そのマンションの住民が帰宅した隙をみて通り抜けた。
澄子の部屋の前に立ち、チャイムを押すのではなく、何度も扉を強く拳でノックした。
打楽器を乱暴に叩いたかのように、大きな音が響く。
ミズエが澄子の所に通っているのは知っていた。リスクは承知の上だった。だが、生活費を削って、しっかりと口止め料を含めたお布施を澄子に払っていた。
それに今までは、ミズエが澄子の所を訪れる時には、必ずあらかじめ連絡をしてくれていた。
澄子のことは信用していた。
これはれっきとした裏切りだ。
「ここを開けて! 話があるの!」
半ばヒステリックを起こしながら、紀子は拳をつくり、扉を叩き続けた。
鍵とチェーンを外す音が、扉の向こう側から聞こえた。
その瞬間に、紀子はドアノブを回して、思いっきり引っ張った。
澄子が驚いて、一歩後退するのが見えた。澄子の怯えた表情に、紀子の怒気は油が注がれたように勢いを増した。
「澄子さん、あなた、旦那の母親に私がここへ来ていることをバラしたわね!」
紀子はそう言いながら、澄子の首根っこを掴んだ。澄子は「ヒィ」という、弱々しい声を出し、体勢を崩して尻もちをついた。
そこには自信に満ちた霊能力者壇澄子の姿はない。狩られることに怯える草食獣のように見える。
「ごめんなさい。あの人に脅されたの」
「しらないわ! これは裏切りよ」
紀子は、澄子に馬乗りになった。
紀子は、右手を振り上げて、澄子の頬を引っ叩く。「きゃっ」というカエルを踏みつぶしたような悲鳴が、澄子の口から漏れた。
紀子は完全に、自分を失ってしまっていた。
ミズエは危険なのだ。息子の栄一郎のためならなんだってする。
栄一郎が小学生の頃、彼を叱った担任の教師を、ミズエは辞めさせた。執拗に学校に電話して理不尽な言い掛かりをつけた。学校の先生達の間に、その担任教師の悪い噂を流して、学校に居られなくしたのだ。
高校生の時には、栄一郎はクラスメイトと喧嘩をした。
喧嘩相手を殴りつけ、怪我させてしまった。栄一郎は酷くそのことを後悔し、気にかけていたが、相手とはギクシャクしたままだった。
栄一郎はずっと相手に謝りたいと思っていた。だが、それは叶わなかった。
ある日突然、殴りつけた相手が栄一郎の家に来た。そして、家の前で、膝をつき深々と土下座をしたのだ。なぜ、そんなことをされたのか、栄一郎は分からなかった。
どうしてそんなことをするのかと聞いても、相手はただ頭を地面にこすりつけて謝るばかりだった。
数ヵ月後、栄一郎は母親のミズエに問い詰めた。
学校中で、ミズエが栄一郎の喧嘩相手である父親を脅したという噂がたったのだ。
どのような方法で、脅したのかは分からないが、仕事をできないようにしてやる、などとでも言ったのだろう。
多くの業界に顔が利くミズエなら、それも難しいことではなかった。
それだけではなく、栄一郎が知らないところでも、もっと多くの被害がでていたにちがいない。ミズエは自らの地位を振りかざせば、一人の人間を不幸にすることくらいは簡単なのだ。
地位を持ったクレーマーほど、恐ろしいモノはない。
栄一郎と紀子が駆落ちをしたのも、ミズエの存在があったことが大きかった。栄一郎はずっと、ミズエの監視から逃げ出したかったのだ。
「あの人は、何をしようとしているの? 私と旦那を引き離すつもり?」
「わかりません。でも、旦那さんが、動ける状況ではなく、死期も近いと伝えました。もう、紀子さん達のことはそっとしておいてあげてと言ったのですが……」
澄子の目は、何かを探すように泳いでいる。嘘を言っているにちがいない。
「そしたら義母は何と言ったの?」
「もう関わるのは止めると言っていました」
澄子がそう言ったところで、紀子はまた彼女の頬を引っ叩いた。
「痛い、痛い!」
「嘘よ! あの女がそう簡単に納得するはずがない」
紀子は、右手を振り上げて、もう一度澄子の頬を叩こうとする。
「ちょっと待って! ごめんなさい」
「話して、あの人は何をしようとしているの?」
「和人くんに……」
「和人!? 和人に何をしたの」
紀子は、澄子が言い終わる前に叫んだ。首根っこを掴み、床に打ち付けるようにして揺らす。耳の奥で、昨晩の和人がすすり泣く声が蘇る。まさか、ミズエと澄子が、和人になにかよからぬことを吹き込んだのではないだろうか。和人を苦しめている原因が、目の前の女なら、殺してもかまわないと思えた。
澄子は舌を出して嗚咽を漏らし、顔を真っ赤にしている。
ハッとして、紀子は澄子の首から手を離した。痰が絡んだように甲高い咳をして、澄子は背を向けて床を這いながら紀子から離れた。
「和人に何かしたの?」
紀子は、立ち上がり、芋虫のように這っている澄子を見下ろした。
澄子は怯えた表情で、振り向いた。彼女は罠にかかり、逃げられなくなった小動物のように見えた。
「ミズエさんに、脅されて。和人くんに、あの話をしろと言われたんです」
「あの話ってまさか?」
「なぜ、家族を不幸が襲い続けるのかという話です」
「どうしてそんなことをするの? その話をして、和人をどうしようっていうの?」
「引き離すつもりです。栄一郎さんを動かすことができないのなら、和人くんを栄一郎さんから引き離そうとしているんです」
和人が、部屋で洋服などをバッグに詰めているのを思い出していた。「友達と旅行に行くためだ」と、和人は説明していたが、あれは嘘だったのだ。
ミズエと澄子にそそのかされて、紀子と栄一郎から離れていこうとしているのだろう。
もしかしたら今にも、家を出ていこうとしているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
「車のカギを持ってきて」
「どうするんですか?」
「電車でここから自宅に戻るためには、一時間以上かかるの。車ならもう少し早く着けるはずよ」
澄子がBMWを所有していることは知っていた。澄子は慌てるようにリビングへと行き、エンブレムがついている鍵を持ってきた。
それを受け取り、扉から外に出ようとしたところで、紀子は澄子の方を振り向いた。ほっと胸をなでおろしている澄子に、「あなたも一緒に来るのよ!」と悪さをした子どもを叱るように紀子は言った。
もう目の前に、高貴な霊能力者の姿はなかった。
澄子は紀子の無理な命令にしぶりながらも、法定速度を大幅に越すスピードで車を走らせた。道は空いていたものの、距離があるために自宅マンションに戻るまで、結局のところ一時間弱かかった。
自宅の部屋の鍵穴に、鍵を差し込んでまわした。だが、鍵はすでに開けられている。
今朝も、いつものように和人を学校へ見送ってから、栄一郎の病院へと向かった。その時に鍵は間違えなく掛けたはずだ。
玄関の扉を開けると、目の前に和人の靴が転がっていた。
学校から帰るには、まだ早すぎる。初めから登校していないのかもしれない。
近所で時間を潰し、紀子がマンションを出た頃を見計らって、戻って来たのだろう。
紀子は、和人の部屋まで行き、おもむろに扉を開けた。ベッドの上に座り、大きなバッグの中を覗いている和人が、突然開いた扉の方を振り返った。
「和人、なにしているの?」
紀子は叫びながら、バッグに掴みかかった。
「なにするんだ!」
和人は、紀子が掴んだバッグを引っ張り返す。
「あの人たちの言うことを聞いてはいけない。あの人たちは大嘘つきよ」
「違う、俺は祖母と名乗る人に言われて、確信したんだ。俺が全部悪いんだって。俺も最近、夢を見るようになったんだ。継ぎ接ぎだらけの記憶だけど、とても怖い夢だ。父さんも母さんも同じ夢を見ているんだろ?」
「ただの夢よ」
「ちがう、あれが前世と深くかかわっているんだ。俺は夢で見たんだ、突然現れた赤ちゃんが、母さんの顔に変化していくのを。澄子さんやミズエ婆ちゃんが言ったように、俺が前世で酷いことをして、祟り神の怒りに触れてしまったから。だからこんなことに……」
和人は紀子の腹の辺りを足で押しのけた。紀子は体勢を崩し、床に尻もちをつく。
その隙に和人は、扉の方へ走った。和人の潤んだ瞳を、紀子は見逃さなかった。
紀子はすかさず立ち上がり、廊下に出た和人に後ろから掴みかかった。そのせいで、二人とも体制を崩し、床に倒れ込んだ。
和人は暴れながら「離せ」と叫んだが、紀子は和人の服をしっかりと掴み、離さない。
澄子は玄関に立ちすくみ、二人の様子を見ている。
「澄子さん、あなたも和人を説得して! お願いよ、全部嘘だと言ってあげて」
紀子の言葉に、顔をゆがめながらも、澄子は何も言わなかった。
和人は立ち上がり、しがみつく紀子を引きずりながら、靴も履かずに外へ出た。十五歳の子供とはいえ、もう紀子よりも十センチ以上も身長は高く、力もある。紀子を引きずるくらい、和人にとってはどうということはない。
澄子はその様子を怯えるように見ているだけだ。
「母さん、離してくれ。俺がいなくなれば、父さんも助かるかもしれない。母さんだってそうだ。今の病気が治るかもしれない。母さんも乳癌なんだろ?」
「どうしてそれを知っているの」
「健康診断で異常が見つかったんだろ? それで、精密検査を受けたことも知っていたんだ。その結果を、隠していることもね。澄子さんに全部教えてもらったんだよ」
和人の言葉に、澄子は苦い顔をして見せた。
「俺と一緒にいたらどうせ、死を回避することができないからといって、治療も拒否しているんだろ? まだ癌も手術すれば完治する可能性だってあるというのに、初めから諦めている。だったら、俺が離れればいいじゃないか。それで、母さんが助かるなら俺は喜んでここを出ていくよ」
玄関から見て左側の方向にエレベーターがある。その重々しい扉が開いたのが視界に入る。そこには一人の老婆が立っていた。
その老婆が、ミズエだと気づくのにさほど時間はかからなかったが、十五年前の姿からは想像もつかないほど老いていた。
以前は華やかな化粧と装飾品で全身を飾っていたが、今は外見になど気を使っていないようにも見えた。
ミズエは老いた外見とは裏腹に、しっかりとした足取りでこちらへ近づいてくる。
「澄子さん、連絡してくれて助かったよ」
ミズエは、ニヤニヤと勝ち誇ったような嫌な笑顔でそう言った。
澄子は、「えぇ」と言いながら、バツの悪そうな顔を紀子へ向ける。車の中で、澄子が信号で止まる度に携帯を操作していたことを思い出した。この女は、あの時にミズエに連絡をしていたのだろう。それに気づき、紀子は鋭く澄子を睨みつけた。
「さぁ、和人さん、一緒に行きましょうかね」
ミズエが和人に触れた瞬間、紀子の心の中で化学反応が起きた気がした。
ミズエに対する恐怖と和人への想いが結合し、今までにない怒りが竜巻のように発生した。
紀子は、「あぁぁぁぁ!」と言葉にならない怒りを吐きだしながらミズエに掴みかかった。ミズエは、目を見開き、化け物でも見るかのような恐ろしい形相となる。
だが、紀子は次の瞬間、後ろから両肩を掴まれて、押し倒された。紀子を押し倒したのは、冷たい顔をした和人だった。
「もういいんだよ、母さん。ミズエ婆ちゃんは、俺のために、家も用意してくれたし、毎月お金だってくれる。貧乏はもういやなんだ。それに、銀平のことだって聞いたよ。あんなことまでして欲しくなかった」
澄子は、紀子が銀平で不正をして和人に料理を提供したことを告げ口していたようだ。
「あなたのためなのよ。保険料を払わなきゃ、私達が死んだ後に、あなたが苦労するって思ったから……」
紀子は、和人に罪を犯したことを知られ、鋭い刃物で横腹をえぐられたような、痛みが走った。
紀子は、コンクリートの地面に膝と手をついて、涙を流した。遠ざかっていく澄子とミズエと和人の足が、視界の端の方で見えた。涙がこぼれ、コンクリートにシミができている。
紀子はその場で塞ぎ込むように頭を抱えた。このまま、和人を行かせるべきかもしれない。もしかしたらそれが、和人の幸せに繋がるかもしれないのだ。
栄一郎の病気も、自分の病気も治るかもしれない。もう不幸を背負って生きていかなくてすむかもしれない。そう思うと紀子は足が動かなかった。
和人が背負っている呪いは、周囲の大切な人を不幸にさせるという呪いだ。優しい心を持つ和人にとって、それは自分自身が不幸になるよりも辛いことだろう。
彼が愛する人間と、彼を愛する人間には必ず不幸が訪れる。なんて惨い呪いなのだろうか。
だからこそ、命ある限り息子と一緒に居なければならないと、紀子も栄一郎も心に決めていた。和人はこれから一生の孤独を背負っていかなければならない。和人は誰も愛せないし、誰からも愛してもらえない。愛こそが、呪いの発動条件と言ってもいいだろう。
自分達が生きている間だけは、まっすぐな愛で和人を包んであげたかった。
そうだ、あの子を守れるのは自分だけなのだ。
紀子は、栄一郎と話し合って決断した時のことを思い出していた。例え、二人が不幸のうちに死を迎えることになったとしても、それまでは和人に愛を与えることを絶やさないと。
紀子は、立ちあがったのと同時に走り出した。
すでに三人は、エレベーターに乗り込んでおり、扉が閉まろうとしていた。扉の向こうで不安そうな顔をしている和人が目に入る。
紀子がエレベーターにたどりついた時には、扉は完全に閉じてしまった。
紀子は、何度もボタンを押したが扉を開くことはなかった。
エレベーターがどんどんと下って行くのが、ボタンの上に表示されている階数で確認できた。ここは六階で、エレベーターはすでに五階を過ぎたところだ。
エレベーターの横にある階段に向かい、駆け下りる。その時初めて、自分がはだしだったことに紀子は気付いた。コンクリートは硬く冷たい。走る度に、痛みが踵から全身に電気のように流れてくるようだった。
途中踊り場で転び、肘を強打したが、すぐに起き上がり階段を下る。
足裏とコンクリートの階段が当たり、リズム的に軽快な音を立てる。
一階にたどりつく。階段の正面にエレベーターの扉が見えた。ちょうど和人達が、エレベーターから出てきたところだった。
古い型のエレベーターであったために、動きが遅いのだ。乗る側としては、苛立たしいものがあるが、今回ばかりは旧式のエレベーターであることがありがたかった。
マンションの出入り口は、裏の駐車場側へ出るものと、表通りへと通じるものの二つがある。階段から見て右手に駐車場側の出入り口、左手通りに出る出入り口。どちらの出入り口にも短い階段があるだけで、扉などは無く、誰でもマンション内に出入りできる。
「和人!」
紀子が叫ぶ。
和人は、一度紀子の方を見たが、すぐにそっぽを向いた。
ミズエは皺だらけの顔に、さらに皺を作り、野生動物が人間を威嚇するかのように紀子を睨んだ。
「しつこい女だね。あんたのせいでね、うちの息子も不幸になったんだよ。子供を産んではいけないし、結婚もするなと澄子さんに言われておきながら、あんたが勝手なことするからこんなことに……。栄一郎をあんたがそそのかして、子供なんて身籠ったりしなければ、こんなことにはならなかったんだ」
ミズエの言葉を、紀子は聞き流すことはできなかった。
和人を否定することだけは絶対に許せない。それは、生きてきた人生のすべてを否定されることと同じなのだ。
紀子は階段を駆け下りて、ミズエの白く薄い髪を掴み、怒りにまかせて叫んだ。
ミズエも怒号を飛ばし、紀子の顔を、手入れされていないその爪で引っ掻いた。
ミズエの薬指が左目を刺し、紀子は顔を手で押さえて二歩後退する。
紀子は、一瞬ひるんだ。すぐに体制を整え、顔を上げた。だが続けざまに、目の前に黒い何かが飛んできた。それは、ミズエが持っていたショルダーバッグだった。ミズエはバッグの肩ひもを持ち、遠心力に任せて紀子の顔をめがけて振りかざしていた。
硬い物が入っているのか、ショルダーバッグが紀子の顔面を捕らえると、ゴツンという鈍い音がした。紀子は、通り側の出入り口の方に仰向けに倒れて、頭を床のコンクリートに打ち付けた。
意識が一瞬宙に舞う。三半規管がおかしくなったのか、ぐるぐると世界が回っているような錯覚を受けた。
ショルダーバッグは、容赦なく何度も紀子の顔面を襲った。
紀子は、右目でミズエの脇に見える和人の表情を窺う。全身の血液を抜き取ったかのように、顔色が悪く、怯えたような表情だった。
その横に立っている澄子は、薄らと笑みを含んだ表情で、こちらを見下ろしている。
ミズエは、紀子の顔面を確実にとらえるためにバッグの肩ひもを短く持った。汚い言葉を吐き捨て、紀子の人生を否定する。
だが、そのショルダーバッグは振りかざされることはなかった。ミズエは体制を崩し、紀子の体に足を引っ掛けて、派手に体を回転させて転んだ。
ミズエは階段の方に、頭から突っ込むように転ぶ。
五段しかない階段ではあったが、ミズエは頭から地面に叩きつけられ、太く鈍い音が辺りに響いた。紀子はその時初めて、人の骨が折れるボンッという音を聞いた。
ミズエがいた場所には、和人が立っていた。両手を前に突き出し、まるで力士が相手を土俵際に押し出した時のような格好に見える。その後ろでは、澄子が、目を丸くして驚いていた。
和人がミズエを押したのだということはすぐにわかった。
紀子は、痛む腕をかばいながら体を起こした。短い階段の下に、ミズエの体が転がっている。足は階段に斜めに置かれ、頭はコンクリートの地面に打ち付けられていた。
赤い血が、じわじわと広がっていく。
それを見て、紀子は子供の頃に蜘蛛を叩きつぶしたことを思い出した。メスの蜘蛛だったため、潰した時に裂けた腹から大量の子蜘蛛が這いながら流れ出した。その時の嫌な記憶と、ミズエの頭から流れ出る血液の様子とが重なった。
ミズエは足を小刻みに動かしている。だが、それは生きているという証ではない。筋肉が痙攣しているのだ。
ミズエはすでに死んだか、死んでいなくてももうすぐ死ぬだろう。紀子は直感的にそう思った。
和人の後ろの方で澄子が叫んだ。紀子は素早く立ち上がり、和人の脇を抜けて、澄子の所まで行くと、落ち着かせる為に頬を引っ叩く。
澄子は叫ぶのをやめていたが、ぼろぼろと涙をこぼしながら嗚咽を漏らした。
「いい、私の言うことを聞いて」
紀子は、澄子の頬を両手で挟み、目と目を合わせて話した。
とにかく、和人をここからできるだけ離れた場所に連れて行って欲しいということを話した。
澄子を信じることはできないが、今はそうするしかなかった。
「和人、あなたも聞きなさい。あなたは何もしていない。何も見ていない。警察に何を聞かれても知らないと言うの。澄子さんと一緒にいたと言うのよ」
和人は放心状態であった。目には色はなく、瞬きもしなかった。目の前に居るのは和人の姿をした、ただの人形なのではないかとさえ思えた。
ショックで一時的に、和人はこのような状態になっているのだろう。
紀子は、澄子に和人を託した。澄子は和人の手を取り駐車場の方へと向かった。
澄子は、何度も紀子の方を振り返った。その度に、紀子は口だけを動かし「はやくいって」と伝えた。
駐車場から、澄子の車が出ていくのを見送ってから、ミズエの方へと戻る。そこには、さっきまでミズエだった肉体が転がっていた。もうすでに、肉の塊と化している。
「きゃー」
ニ階へと続く階段の上から声がして見上げると、マンションの住人である女性が立っていた。どうやら争う声を聞いておそるおそるニ階の自室から出てきたようだ。
「人殺し!」
そう叫びながら、その女性はまた階段を駆け上がっていく。紀子は、目の前に横たわる人間の形をした肉体を眺めていた。
遺体を見ていると、本当に魂というものがあるのだと再確認させられる。なにか見えないモノが、肉体から抜け出して行ったようにしか見えない。残された体は、電池の切れた人形のようだった。
紀子は壁に背をつけたまま、ゆっくりとコンクリートの地面に腰を下ろした。
周りに人が集まって来る。一階の住民も、扉を開けて、外の様子を窺うようにこちらに顔を向けている。
紀子はその視線を感じていながらも、振り向くことはなかった。目を閉じて、栄一郎と和人のことを考えていた。
小さなマンションの一室。柔らかな風に押し上げられたカーテンが揺れている。
使い古したテーブルの上に、控えめな料理が並ぶ。日差しがカーテン越しに流れ込んできて、テーブルを照らした。
二時過ぎの遅い昼食を、紀子と栄一郎と和人がもくもくと口に運んでいる。そんな映像が頭に浮かぶ。これといって喜びもないが、悲しみもない。そんな生活を紀子は夢見ていた。時々栄一郎と喧嘩をして、和人のわがままに頭を悩ませる、そんな普通の母親になりたかった。
現実は、栄一郎は病魔に倒れて喋ることも困難となった。
和人は、物分かりがいい、母親を支える良い息子となった。
栄一郎とはもっと苦しみを共有し合いたかった。和人にはもっとわがままを言って欲しかった。
紀子は、ずっと階段の手すりの錆を眺めていた。そのうちに、警察の制服を着た男達に囲まれて、脇を抱えあげられ外に連れ出された。
彼らは必死に何かを問いかけたが、紀子はまるで知らない言語をなげかけられているように理解できなかった。
パトカーに近づくと、サイレン音が聞こえ、赤色灯が紀子の体をうっすらと照らしている。
紀子は、パトカーに乗せられた後、うわごとのように「私がミズエを殺しました」と何度もつぶやいていた。何を聞かれても、紀子はそれしか答えなかった。
紀子が死んで三年以上もの月日が流れた。独房で、着ていたシャツの袖を飲み込んで、窒息したのだ。紀子が、和人の祖母であるミズエを殺して、服役中の出来事だった。
和人は、紀子がミズエを殺した時のことをあまり覚えていない。その現場に居たような気もするし、居なかったような気もする。紀子がミズエを殺した時から、その後数日間の記憶が和人の脳内からすっぽりと抜け落ちている。
結局、澄子の証言から、和人はずっと澄子の部屋に居たことになっている。
和人は、ひっそりと墓地の奥の方にある紀子と栄一郎の墓に手を合わせていた。
二人の命日は同じ日だった。栄一郎が衰弱死でこの世を去り、その報告を受けた紀子は後を追うように自殺したのだ。
墓に向かって手を合わせる和人の横には、樹里がいた。樹里も、和人と同じように手を合わせながら目を瞑っている。
和人は、栄一郎の保険金を受け取り、一人暮らしをしながら高校を卒業した。
卒業後は、小さな印刷会社に就職し、築二十三年のボロアパートに住んだ。
人間らしい欲もなく、ただひたすらに日々を過ごしていた。
休みの日には、一日中窓から外を眺めて過ごすか、テレビと睨めっこし続けるだけだった。テレビから流れる笑い声を聞くと、近くに人がいるような気がして、すこしだけ寂しさを紛らわせることができた。
人と関わることをできる限り避けた。孤独こそが、和人にとって安堵をあたえてくれるのだ。
和人は、自分自身が人を不幸にする呪いを背負っていることは知っている。澄子にそう教えられたのだ。
澄子が話したのは和人の前世のことだった。和人は戦時中に亡くなった男性だった。住んでいた村で殺人を犯し、町へ追われた。
だが町は、空爆に襲われるため、町外れの防空壕のような洞穴で日々を過ごしていた。その洞穴には、祠がある。木で作られていて、鉄の扉がはめられた祠だ。
その祠は、その土地で崇められている祟り神を祭ったものだった。
ある時、男は道端に倒れている若い男の子供を奪い取り、洞窟へと連れ去った。男は奪ったものが赤子であると気づくと、身の毛もよだつような行為に及んだ。赤子を振り上げてから、地面に叩きつけたあと、さらに足で踏みつけたのだ。
男は、赤子の肝を食えば、傷が治るという地方の迷信を信じていた。
男は、住んでいた村で横腹を刃物で切られており、すでに化膿していた。その部分からは、粘着質な体液がこぼれ、嫌な臭いがしていた。
この赤子の新鮮な肝を食えば、この傷も治るはずだと男は信じていた。
その時、赤子の父親が洞穴にやってきて、子供を取り戻そうと男と揉み合いとなった。その結果、祟り神を祭る祠を汚してしまうことになる。さらに男は、その場で赤子の父親を殺し、赤子の腹を食い破った。
そのことで祟り神の怒りに触れた。男だけではなく、赤子とその父親も同様に祟り神の呪いを被ることになった。人間の間で決められた、被害者や加害者といった概念は、神には通用しない。洞穴を汚し、祠を破損させたというだけで、怒りの対象となった。
二人を殺した男も、次の日に死んだ。
原因は分からない。もしかしたら、傷が化膿したことが原因だったかもしれないし、祟り神が呪い殺したのかもしれない。
親子を殺した男は和人として生まれ変わり、祟り神によって周囲の人を、特に愛する人を不幸にするという呪いを背負わされた。
赤子は紀子として生まれ変わり、赤子の父親は栄一郎として生まれ変わった。
二人に課せられた呪いは、周囲の者を不幸にする呪いを背負った和人の親となることだった。
三人の家族は、呪いによってむすばれていた。
澄子からその話を聞いた時、和人は妙に納得してしまった。積み重なる家族の不幸。そして、時折見る夢の内容と、前世の出来事が重なった。
だから和人は、すんなりとその事実を受け入れることができた。
和人は、二人の墓にスイートピーの花束を手向けた。暗い灰色の墓石に、ピンクの花弁よく映える。紀子と栄一郎が好きな花だ。
隣にいた樹里が「綺麗な花ね」とつぶやく。
和人は何度も、樹里に別れようと説得したが、彼女は受け入れなかった。
好きだという気持ちだけではなく、両親を亡くした和人に対して深い同情をしていたのかもしれない。樹里は、毎日悲しそうに俯く和人を放っておけなかったのだろう。
和人は、そんな樹里の想いを必死に拒否しようとしていた。誰かと一緒にいれば、また不幸な者を増やすだけだ。
紀子と栄一郎の命日であるこの日も、樹里は無理やりに和人についてきていた。
樹里がいることで、和人は救われることの方が多い。
樹里の笑顔は、孤独の中和剤だった。そのために、強く樹里を拒否することもできないのも事実だった。
大袈裟ではなく、樹里以外に必要なものなどこの世には無かった。だからこそ、側にいられなくても彼女にだけは幸せになって欲しいと願っている。
その願いはついに和人にある決意をさせた。
樹里は高校を卒業して、地元の役場に勤めている。独り暮らしはせずに、両親と共に自宅の一軒家に住んでいた。
帰宅するのを待ってくれている人が居るということが、和人にとっては羨ましかった。
夕陽が山の向こうに溶けだし、辺りが薄暗くなり始めた頃に、二人は大きさの違う凸凹の影をつくって歩いていた。
いつも和人は、家の前まで樹里を送る。その日も、同じように閑静な住宅街をとぼとぼと歩いていた。他愛ない会話を交わし、少しだけ二人は笑った。それだけで幸せだった。
樹里の自宅前まで来ると、和人は「じゃあ」と言って顔の辺りに右手を上げた。
いつもなら「うん、またね」と樹里も同じように左手を上げて、ハイタッチをして別れるのだが、その日は違った。
樹里の表情が硬くなっている。
いつもは見せない樹里の顔に、和人は緊張した。
「どうしたの?」
逆光で黒く塗りつぶされた樹里の顔を覗き込みながら、和人は言った。
「私には、和くんが幸せになることから逃げているように見えるの。あなたがなにを背負っているのかわからないけど、私たちなら幸せになれるって思うの……」
「あぁ、俺もそう思うよ」と言いたかったが、和人は俯いたまま何も下唇を噛んだ。
「ねぇ、話さなきゃいけないことがあるの」
そう言って樹里は目を瞑り、下唇を噛んだ。
和人の背筋に凍るような嫌な悪寒が走る。何を言われるのか、全く想像がつかなかった。
「なに? 好きな人でもできた?」
和人は無理に頬を引き上げて、笑って見せた。
樹里は、目を開けて和人の方をまじまじと見つめる。
好きな人ができていたとしても不思議ではない。いままで和人は樹里に対してどこか曖昧な境界線を引いてきた。愛したいのに愛さないという境界線。だが、それこそが愛しているという証だった。
樹里に新しい男性が現れていたとしても、責めることはできない。彼女にとって、自分がすでに人生の荷物になってしまっていることを、和人は自覚していた。それならばいっそうのこと、ここに捨て去っていってほしかった。
二人の間だけ、時間が止まったようだった。
樹里の足元から伸びた影が、和人と重なっている。
「子供ができたの。あなたの子よ」
樹里がそう言った瞬間に、和人が見ている世界の色が失われた。
赤々と燃えた夕日も、樹里から伸びる黒い影も、すべて灰色へと化した。
和人の口から小さな声が漏れた。まばたきも忘れ、和人はただその場に立ち尽くすしかなかった。
「俺の子供だって?」
「そうよ、あなたの子供。ねぇ、私たちなら幸せになれる。裕福じゃなくたっていい、和くんと、私と、この子で支え合って静かに暮らしましょう」
樹里は、お腹をさすって見せた。
そんなところに、本当に命があるのだろうか。和人にはそれが信じられなかった。息をすることも忘れ、和人は樹里のお腹の辺りを見つめていた。
「幸せにはなれないよ」
和人は消え入りそうな声でそう呟く。その瞬間に、樹里の顔が悲しみに歪んだのがわかった。
「どうして? どうしてそう思うのよ! じゃあ、この子はどうすればいいのよ!?」
「おろしてくれ」
和人の言葉を聞き、樹里はうなだれた。
逆光でうまく見えなかったが、樹里はポロポロと涙をこぼしていることはわかった。
「おろすなら、早い方がいい。お金は用意するよ。できるなら明日にでも……。明日も休みだろ?」
樹里は何も言わず、和人に背を向けた。夕陽の光に包まれて、その小さな背中が燃えて消えてしまうのではないかと思えた。
抱きしめてあげたかった。「幸せになろう」と言ってあげたかった。
だが、呪いを背負った自分には、それができないことを和人はわかっている。
和人は、樹里の背中から目をそらし、振り返って歩きだした。二人の距離が離れ、和人に重なっていた樹里の影も一緒に離れた。
次の日、和人の心は今までにないほどに穏やかだった。
もう、決意は揺るがない。誰も不幸にはしないという決意だ。
呪いを今日で断ち切る。
樹里を不幸にしないためには、この方法しかないのだ。
先日買っておいた黄色と黒色の縞模様のロープを、部屋の脇に置いていた買い物袋から取り出す。
部屋を見渡しても、ロープをかけられるような所が無かったため、天井の板を壊して、天井裏の柱にロープをくくりつけた。
首を吊るための輪を作る。もやい結びという強度の強い結び方で、インターネットカフェのパソコンで調べておいた。
舞台が整うと、和人はテーブルの上に大学ノートを広げ、ボールペンで文字を書き始めた。
テレビとボールペンがノートの上を走る音だけが部屋に響いている。
ノートには樹里に財産のすべてを渡すと書いておいた。そこに、保険金の契約書を添えて、ノートを閉じた。
生命保険に加入して二年が経った。これで、自殺しても保険金が支給される。受取人はもちろん樹里だ。
紀子が自殺したときは、生命保険に加入して二年以内だったので、保険金は下りなかった。その教訓を、和人はしっかりと生かしている。
樹里は今頃、子供をおろすために、産婦人科へ向かっているだろうか。
なぜ、このタイミングで子供など出来てしまったのだろうか。これも呪いせいなのかもしれない。
和人は一人の部屋で、声に出して樹里に謝った。
和人は、樹里を幸せにするための努力すらできない自分が許せない。何度も、太ももを拳で叩いた。そんなことには意味が無いことは分かっていたが、和人にはもどかしい気持ちを自分にぶつけることしかできなかった。
テレビから流れるアナウンサーの声だけが室内に響いている。
和人はその声を聞きながら、今まで座っていた椅子を持って、ロープが吊るしてあるテレビの前へと行った。
テレビに背を向けて、椅子の上に立つ。
首にロープをかけて、目を閉じた。怖くはない。むしろ生きていて、これ以上誰かを不幸にする方が恐ろしかった。
テレビはつけたままにしておいた。室内が静かになってしまったら、急に不安が芽を出し、死ぬことが恐ろしくなるかもしれないと思ったからだ。誰かの声が聞こえているということが、どれほど心強いことか。
「母さん、父さん、ごめん。死を覚悟してまで、愛してくれていたのに。でも、もうこれ以上誰も不幸にしたくないんだ」
命がけで愛してくれた両親を裏切って死ぬのは辛い。だが、命を捨てても守りたいものがある。
樹里を。彼女を守りたい。生きていれば樹里を愛さずにはいられない。どんなに強い心を持っていても、人間は孤独には勝てない。このまま生きていれば、樹里を愛さずにはいられないし、幸せにしたいなどという幻想を抱いてしまう。それだけは阻止したい。そのためにはこの方法しかない。
後は、椅子を後ろに蹴飛ばすだけだ。
ロープで首が閉まり、頸動脈が圧迫されてすぐに意識を失うだろう。苦しいのは最初だけだ。
和人はつま先に力を入れて、乗っている椅子を蹴り倒そうとした。
その時、大きな風が吹き、カーテンを大きく膨らませた。
風のせいか、テレビがある後ろの方で、何かが倒れる音がする。和人は、後ろを振り向いた。
仏壇に飾ってあった、写真立てが倒れている。紀子と栄一郎の写真を入れたものだ。
両親が迎えに来たのかもしれない。そう思って和人はフッと笑い、もう一度、前に向き直ろうとした。だが、テレビのニュースキャスターが読み上げた名前に、聞き慣れたものが混じっていることに気付き、再度後ろのテレビがある方向を向いた。
そこには澄子が映っていた。カメラの方を向き、何かを喚き散らしている。
澄子は、スーツを着た警察関係者らしき男達に押さえつけられるように、黒いバンに乗せられているところだった。
和人はその様子を椅子の上に立ったまま体を捩じらせて、ボーっと眺めていた。
『壇澄子容疑者は、テレビなどに数多く出演している人気霊能力者です。霊に関する相談を受けては、高い相談料だけではなく、厄除けの壺、幸福の判子、縁結びの数珠などと称した商品を売り付けるという行為を長年にわたって行ってきました。高齢者を中心に巧みな話術や不安を煽るような言葉で、高額な商品を売り、多額の利益を得ていました。また、病気になると脅して保険の勧誘をし、一人に多数の保険契約をさせたこともわかっています。今回、警察に被害届を出したのは、悪徳霊感商法被害者の会代表で弁護士の……』
和人は、そこまで聞き、首にかかったロープを外した。椅子から下りて、テレビ画面に顔を近づける。そこに映っていたのは間違いなく澄子だった。
『壇容疑者は、テレビなどでも霊視鑑定を披露していました。ですが、その鑑定もでたらめなものばかりでした。これは一か月前に収録されたテレビ番組の映像です』
男性アナウンサーの横に座っている女性アナウンサーが、真剣な顔をしてそう言うと、画面が切り替わる。
生放送されたバラエティ番組で、澄子が最近活躍している芸人やタレントを霊視鑑定している様子が映し出され。
澄子は「あなたのおじいさんが、背中に憑いており、あなたを見守ってくれています」
と自信に満ちた顔で言ったが、霊視鑑定を受けている若い女性タレントは、首を傾げ「私の祖父が、憑いているのですか?」と尋ねた。澄子は深く頷き「おじいさんはとてもあなたのことを心配して……」と言いかけたところで、タレントは「私の祖父は父方も母方もまだ生きています」と言った。澄子の顔が赤くなっていくのが画面越しにもわかった。「それは、ええっと、やはりあなたのおじいさんではなく、その……」と澄子は言葉に詰まっている。出演者の中でもどよめきがあがる。生放送であるため、そのまま全国にこの映像は流れたのだろう。
その他にも、霊視鑑定を行っている澄子の映像が流された。映像に合わせて男性の声でアナウンスが流れ、澄子が言っている矛盾点などを指摘した。
それからまた、画面は変わり、男女のアナウンサーが映った。
男性アナウンサーは『このような映像から、壇容疑者を信仰して人たちの間からも、本当は霊能力を持っていないのではないかという疑惑が沸き上がりました。壇容疑者は、テレビ局の陰謀だと信仰している人たちに訴えかけているようです。今後は、さらに被害届が増えることが予想されます』と言った。
女性アナウンサーの隣に居た、コメンテーターらしき男性に話が振られる。その男性は難しい顔をつくって「霊感商法や、占いといったたぐいのものは、人を信じらせるためにいくつものテクニックが使われているのです」と言って、そのテクニックについての簡単な解説をして見せた。
それから、次のニュースに移った。
和人は、一度その場に座り込み、何かを思い出したように立ち上がって窓の方へと向かった。
窓から顔を出す。天気のいい穏やかな日だった。
仏壇に飾られた写真立てを倒すほど、強い風など吹いていない。カーテンが風に揺れるようなこともない。
空には綿菓子のような雲が漂っている。
前世からの呪いなど、ただの思い込みだったのかもしれない。和人の胸の隙間にそんな考えが顔をのぞかせた。
栄一郎も紀子も、呪いの輪の中に居ると思い込まされていたのかもしれない。
和人はある仮説をたてた。
栄一郎は、裕福な家庭に生まれ、良い大学を出てプライドだけは人一倍高かった。紀子との駆落ちをきっかけに、ミズエという後ろ盾と社会的地位を失った。その落差は激しいものだっただろう。
プライドが邪魔をして、何度も職を転々としていた栄一郎は、この不幸はもしかしたら自分のせいではないのではないかと考えた。以前澄子に、紀子とは結婚してはいけないと言われたことを思い出し、彼女に霊視鑑定をしてもらいに行った。
そこで、呪われているという鑑定結果を突き付けられる。それを受けて、自分に降りかかる不幸や苦しみは、すべて呪いのせいだったのだと思い込んだ。そうやって、プライドを守ろうとした。
うまくいかないことを呪いのせいにして、逃げたかったのだろう。呪いのせいにしてしまえば、自分の心の弱さゆえの失敗に対する責任から逃げることができる。だが、それは自分に対する言い訳に過ぎない。
栄一郎は、自分自身に対する責任回避のために、呪われているから人生が上手くいかないのは仕方がないという逃げ道を作った。最後には本当に呪いに侵されていると信じ込んでしまったことで、病魔に倒れたのではないだろうか。
紀子もまた同じように、呪いを信じたに違いない。ただ、栄一郎と違ったのは、呪いを背負っていると思い込んだことで、母親であることの責任は膨らんだ。息子である和人への愛も深まっていった。
栄一郎と紀子が、澄子の霊視を受けたのは、自分達の人生が上手くいかないことを見えない力のせいにしたかったからなのかもしれない。
澄子は、紀子と栄一郎を巧みな誘導によって、あたかも家族三人が前世で強い関係があったように思い込ませた。
前世のストーリーをでっちあげて、呪われていると脅迫し、思い込ませることで二人に同じ夢を見せた。
でも実際には、二人は同じ夢を見ていたわけではないのかもしれない。澄子が霊視鑑定や前世治療といった、ある種の催眠によって事実を捻じ曲げて、あたかも紀子と栄一郎が同じ夢を見ているように思わせた。
なんせ夢なのだ。目を覚ましてしまえば、曖昧にしか覚えていない。「あなた方が見た夢は、同じ内容のもので、このようなものだ」と澄子に言われれば、栄一郎も紀子も「きっと自分達が見ている前世の夢は、そういったものなのだろう」と思い込むに違いない。
では、なぜ自分も何度か赤子の夢を見たのだろうか。赤子の顔がやがて母親の顔に変わるという奇妙な夢だった。だが、それも思い込みだったかもしれないと和人は思う。
和人は何度か、栄一郎が寝ている時にうなされているのを見ていた。「あかごが、あかごが」としきりに呟いていた。和人はすぐに「赤子」のことだと思った。実際はどうだったのかわからない。
赤子にうなされる夢とはどんな夢か。和人は栄一郎が見ていた夢のことをずっと考えていた。それに、紀子も栄一郎が倒れる前と同じように、夢にうなされていた。それを和人はとても心配していた。だから、夢と現実がリンクしてあのような赤子が母親の顔に変化する夢を見たのかもしれない。
だが、澄子は何のためにそのようなことをしたのだろうか。ミズエに頼まれて、結婚する前に栄一郎と紀子を引き離すために、そのような話をでっちあげたのか。
いや、違うだろう。ミズエも、澄子の話を信じ切っていた。ミズエが指示をして騙していたのであれば、あんなにも必死に和人を栄一郎から引き離そうとはしないだろう。
ミズエは、和人が背負う呪いが、栄一郎を病魔に追い込み苦しめているのだと思い込んでいた。
では、澄子の目的は金か。いや、それも違うだろう。もし金を巻き上げることだけが目的であれば、わざわざ栄一郎を騙す必要はなかっただろう。手っ取り早く、ミズエ自身に呪いが掛っていると思い込ませて、御払いをして、壺を買わせた方が金になったはずだ。
あぁ、そうか、澄子こそが、深い思い込みをしていたのかもしれない。そう和人は思った。
メディアなどで大々的に取り上げられ、人々に羨ましがられ尊敬される存在となったことで、澄子は霊能力に対する自信を深めていったはずだ。
視聴者はテレビに取り上げられる人間が言うことは、自然と信憑性が高いと感じてしまう。
なぜか人は、テレビに出ているものを疑おうとしないのだ。多くの人間が澄子を信じ、また彼女自身も自分を信じすぎたのだろう。
澄子もまた、社会と自分自身に騙され、思い込まされていたのだ。だから澄子には、人を騙しているという罪悪感などなかったのだろう。
和人は机に上に置いてあったノートを、紙くずやカップラーメンの容器がはみ出しているゴミ箱に押し込み、玄関の方へ向かった。
だが、扉の前で一度立ち止まる。本当に澄子は偽物の霊能力者だったのだろうか。澄子は確かに、和人自身しか知らない事実をいくつも言い当ててみせた。
先ほど、和人の頭に浮かんだことは仮説にしか過ぎない。しかも穴だらけの仮説だ。
澄子が本当に霊能力を持っていたのだとしたら、自分はやはり人を不幸にする呪いを背負っているのだろうか。呪われていないというのも、思い込もうとしているだけで、実際には呪いを背負っているのかもしれない。
和人は一度、部屋の中を振り返った。黄色と黒色の縞模様のロープが、天井からつり下がっている。
和人は、クマバチの姿を思いだす。頭と腹は黒く、その間にある胸は黄色い。
慶介の言葉が頭をよぎった。彼らは航空力学的には、絶対に飛ぶことはできない。彼らが飛ぶことができるのは、飛べると思い込んでいるからだ。
和人は、何かを決意したようにドアノブを回し、勢いよく扉を開けた。柔らかい空気が室内に流れ込んでくる。
信じるなら、自分に都合のいいことを信じたい。未来はきっと幸せなれると思い込みたい。
熊蜂のように、人だって幸せになれると思い込んでいたら幸せになれるかもしれない。誰かを幸せにできると強く思いこめれば、きっとできるはずだ。
まだ間に合う。樹里も、お腹の子も幸せにできるかもしれない。
父と母が自分を愛してくれたように、誰かを愛することができるかもしれない。和人は両親のことを思い出しながら走った。
愛する人を幸せにできるかもしれない。確信はなくても、思い込むことはできる。そう気付いた時、心と体は愛したい人の元へと自然と動き出していた。
風の無い日だった。だが和人の頬を優しく風が触れて、空へと消えた。