短編 刃の記憶
評判が良ければ続き描きます!
刃の記憶
――生きる。
その一念だけが、すり切れた指先を動かしていた。
崩落した祭壇。瓦礫の隙間で、冷ややかな月光を弾くものがあった。
錆びついた、剣の柄。
少女――ミナは、泥にまみれた手を迷わず伸ばした。
三日前まで、そこには温かいスープの匂いがする村があった。
いま、鼻の奥にこびりついているのは、肉と家屋が爆ぜた黒い煙の臭いだけだ。
魔獣の群れがすべてを蹂躙した夜、ミナは家畜小屋の床下に這いつくばり、己の口を両手で塞ぎ続けた。
ただ、それだけで生き延びた。
誰も助けに来ない。誰も名前を呼んでくれない。
なら、動かなくなった足を引きずってでも、進むしかなかった。
指先が、冷え切った鉄の柄に触れる。
(――待て。抜くな)
頭の芯に、直接冷水が注ぎ込まれたような錯覚。
ミナの身体が硬直する。声は、手のひらの下――剣の内部から響いていた。
掠れていて、ひどく低い。だが、奇妙なほど胸を打つ響き。
「喋る、の……?」
「今は、な。抜けば分かる。……来るぞ」
背後の茂みが、爆発したように弾けた。
息を吸う暇さえ与えられない。
月光を浴びてぎらつく、緑色の鱗。巨躯を揺らす大蜥蜴が、肉を引き裂く爪を突き出して跳躍してくる。
死が、目の前に迫っていた。
ミナは叫びを押し殺し、全力で柄を引き抜いた。
瞬間、世界が反転する。
視界が異常なほどに澄み渡り、自分の腕が、まるで他人のもののように勝手に跳ね上がった。
鉄の塊のはずの剣が、羽毛のように軽い。いや、刃が自ら意志を持って、空中を滑っている。
「腰を落とせ。膝を抜け。腕の力で振るな」
脳内に叩きつけられる無機質な命令。
逆らえない。ミナは言われるがまま、ガクリと膝の力を抜いた。
火花が散る。
大蜥蜴の凶爪が、傾けられた刃の上を滑り、虚空へと逸れていく。
衝撃は最小限。骨の奥がじわりと痺れるだけの、完璧な受け流し。
「――今だ。踏み込め」
背中を強烈に押された気がした。
ミナは泥を蹴り、無我夢中で前へ飛び出す。
吸い込まれるように、刃が鱗の隙間、肉の最も柔らかい急所へと滑り込んだ。
手応えは驚くほど滑らかで、そして、静かだった。
ズサァッ、と巨躯が横ざまに倒れ伏し、土埃がミナの頬をざらつかせた。
ぜえ、ぜえ、と自分の荒い呼吸だけが夜の静寂を乱す。
喉の奥が焼けるように熱い。心臓が肋骨を内側から叩き壊さんばかりに脈打っている。
手の中の剣は、沈黙を守ったままだ。
やがて、脳裏にぽつりと声が落ちてきた。
「悪くない。筋はいい」
「あんた……誰、なの」
「さあな。名も、何もかも覚えていない」
ミナは剣を握りしめたまま、瓦礫の上にドサリと腰を落とした。
吹き抜ける夜風が、汗に濡れた首筋を冷やす。
鼻を突くのは、焦げた石の臭いと、獣の生臭い返り血。
「覚えてないのに……剣の使い方だけは、分かるの?」
「身体が覚えている、というやつだ。俺の錆びついた刃の奥に、誰かの人生がまだ澱のように眠っている」
淡々とした声だった。
けれど、その平坦さの裏に、何かを必死に堪えているような、わずかな『間』があった。
ミナは剣を月に掲げた。
刀身には、数え切れないほどの刃毀れと傷。新しいものではない。何十年、何百年と血の雨をくぐり抜けてきた、戦いの年輪だ。
「これ……あんたの、記憶?」
「かもな。だが記憶というのは厄介だ。持ち主を失った記憶は、時々美しい嘘をつく」
掠れた声が、ほんの少しだけ自嘲気味に揺れた。
ミナは立ち上がる。生まれたての小鹿のように、膝がまだガタガタと震えていた。
それでも、剣を腰の帯に差し込む手つきは、さっきより微かに様になっていた。
「あたし……村に帰らなきゃ」
「帰る場所が、まだあるのか」
その一言が、鋭利な刃物となってミナの胸を突き刺した。
喉が、きゅっと詰まる。
視界の裏に焼き付いた、焼け落ちた我が家の梁。まだ熱を持っていた灰の感触。
誰も、いない。
「……ない。だから、探しに行くの」
「探す、とは?」
「帰れる場所。もう一度、ただいま、っておかえり、って言える場所。どこかにあるはずでしょ、この世界のどこかに」
剣は、長い沈黙に沈んだ。
冷たい風が瓦礫の隙間を吹き抜け、低く、獣のように唸る。
「――なら、俺も付き合ってやる」
「勝手に決めないでよ」
「お前が俺を抜いた。その時点で、もう他人事じゃない」
ミナは小さく鼻を鳴らし、一歩を踏み出した。
崩れた祭壇を背に、夜の帳へと歩き出す。
その時、背後で、みしりと石が軋む音が聞こえた。
振り返れば、瓦礫の奥に埋もれていた歪な石碑が、月光を浴びて鈍く狂い咲いている。
刻まれているのは、ミナの知識にはない、歪でおどろおどろしい古代の文字。
「あれ、何か書いてある……」
「……読めるのか、お前」
「読めない。あんたは?」
脳内の声は、ピタリと途絶えた。
ただ、柄を握るミナの手のひらに、微かな、しかし確かな戦慄きが伝わってきた。
「なんでもない。行くぞ」
「今、絶対なんか隠したでしょ」
「剣に隠し事などできるか。顔もないというのに」
ミナは肩をすくめ、それ以上は追及しなかった。
確実につなぎ留められた秘密の存在を感じながらも、今の二人には、それを暴き立てるほどの信頼の貯金がなかったからだ。
――夜が明ける頃、二人は鬱蒼とした森を抜けていた。
朝靄のひんやりとした空気に、湿った土と、名も知らぬ花の甘い匂いが混じる。
鳥たちの囀りが頭上から降り注ぎ、昨夜の凄惨な死闘が幻だったかのように思わせた。
ぐう、と情けない音が響く。
「腹、減った……」
「剣に空腹の苦痛は理解できんが、お前の臓物が鳴らす悲鳴はさっきから不快なほど響いている」
「うるさい。あんた、耳までついてるわけ?」
「聴覚くらいはある」
ミナは道端に実った赤黒い木の実を毟り取ると、爪で皮を剥いて口へ放り込んだ。
瞬間、強烈な酸味が舌を刺す。
「まずっ……!」
「贅沢を言える身分か、放浪娘」
「うるさいってば!」
悪態を吐きながらも、ミナの足取りは、不思議と昨日より軽かった。
たった一人で暗闇を這っていた時にはなかった、奇妙な支えが、確かに腰の後ろにある。それが何なのか、彼女はまだ言葉にできない。
やがて、踏み固められた土の上に、深い馬車の轍が見えてきた。
乾燥した馬糞の臭い、人の営みの気配。
「この先に、人がいる」
「行くのか」
「行くしかないでしょ。あんたの手入れだってしたいし。錆びだらけじゃ格好つかない」
「手入れ、か……」
魔剣の声に、微かな戸惑いの色が混じる。
誰かに刃を研がれ、油を塗られる。その、かつて受けていたはずの『愛撫』のような感覚を、彼は手探りで思い出そうとしていた。
だが、霧の向こうの記憶は結ばれない。もどかしさを誤魔化すように、声は消えた。
轍をなぞるように歩きながら、ミナはふと問いかけた。
「ねえ、さっきの戦い方、どこで覚えたの?」
「覚えていない、と言っただろう」
「でも、身体は動いた。じゃあ、その身体を持っていた元のあんたは、どんな人だったの?」
長い、長い、歩数にして十歩ほどの沈黙。
「――強かった。それだけは、確信がある。だが、名前も、愛した者の顔も、何一つ霧の向こうだ」
「悲しい?」
「感情の有無を剣に問うな。俺はただの鉄塊だ」
「さっき、今にも泣きそうな声してた」
「気のせいだ」
ミナはそれ以上、彼の傷口を抉らなかった。ただ、柄を握る右手に、少しだけ熱を込めた。
昼を過ぎる頃、二人は小規模な開拓集落へと足を踏み入れた。
ささくれた木造の家々が身を寄せ合い、井戸端では皺だらけの女たちが洗濯板を叩いている。土埃を巻き上げて走り回る子供たちの黄色い声が、乾いた空気に溶けていく。
その最果てに、目指す場所はあった。
カン、カン、と高く響く金属音。炭が爆ぜる、鼻を突く独特の臭気。
「――ここで、見てもらおう」
「鍛冶屋なんて大丈夫? 変な妖刀だってバレたら騒ぎになるんじゃ……」
「バレて困る生い立ちなどない。ただの鈍らとして扱われれば、それでいい」
薄暗い鍛冶場の中、白髪交じりの頑強な老爺が、ふいごの前に座り込んでいた。
ミナが恐る恐る声をかけると、老爺は酷く無愛想に視線を巡らせ――そして、彼女の腰元で静止した。
老爺の、濁った眼の奥が、ぎらりと据わる。
「――嬢ちゃん。その剣、どこで手に入れた」
「え、あ……森の、古い、崩れた祭壇のところで……」
老爺はミナの言葉を最後まで聞かず、乱暴に手を伸ばした。
ミナは本能的に柄を拒絶するように握りしめたが、脳内で(渡せ)と静かな声が響き、渋々その手を離した。
シャリン、と錆びついた刃が肉厚の鞘から引き抜かれ、炉の炎に照らされる。
老爺の、煤で汚れた親指が、刀身の無数の傷を愛おしむように、這うように、なぞっていく。
「この地肌……この、独特の刃紋。まさか、な……」
「知ってるんですか? この剣のこと」
「昔、死んだ親父から、御伽噺として聞かされた。百年前、この王国を滅亡の淵から救い出した剣士がいた。男は一切の名を遺さず、ただ『無銘の剣』と呼ばれる一振りを帯びていた、とな。その剣が、聖なる祭壇に封印されたという伝説がある」
ミナの手のひらで、戻ってきた剣が、かすかに、けれど激しく共鳴するように震えた。
「その剣士は……どうなったの?」
「さあな。ある日、文字通り煙のように姿を消したそうだ。ただ、主を失った剣だけが、祭壇に遺されていた。……もし本当のことが知りたけりゃ、ここから馬車で半日の場所にある街、リンデンの『大図書堂』へ行け。古い戦記が、まだ焼き捨てられずに残っているはずだ」
老爺はそれだけ言うと、剣を乱暴に鞘へと押し込み、ミナに突き出した。
「刃は研いでやった。だがな、嬢ちゃん。その得物を帯びるなら、相応の覚悟を持て。名もなき英雄の『因縁』ってやつは、時として持ち主の肉を喰い破るぞ」
受け取った剣は、研がれたことで冷徹な輝きを取り戻していた。
腰に納めると、すぐに低い声が鼓膜を震わせる。
「……聞いたか」
「うん」
「信じるか? あんな、老いぼれの妄言を」
「信じるとかじゃないよ。ただ……あんたのことが、ほんのちょっとだけ、わかった気がして、嬉しい」
剣は、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、出会った夜の冷徹な拒絶とは、明らかに違う『体温』のようなものを孕んでいた。
翌日、二人はリンデンを目指し、再び街道へと躍り出た。
しかし、街の入り口まであとわずかという場所で、その光景に遭遇する。
街道の脇、横倒しになった荷馬車。散乱する小麦の袋。
数人の薄汚れた男たちが、血を流して地面を這う老人を取り囲み、耳障りな笑い声を上げていた。
「――盗賊か」
「助けなきゃ!」
「待て。相手は四人、こちらは刃を握って二日の小娘だ。命がいくつあっても足りんぞ」
「だから何!? 見捨てろって言うの!? あたしと同じ目を、あの老人にさせるっていうの!」
ミナの脳裏に、あの炎に包まれた村の光景が、フラッシュバックする。
叫び。無力な自分。
剣は、二度と引き止めなかった。
「――なら、死ぬ気で俺の指示に従え。呼吸一つ、瞬き一つでも狂えば、お前はここで肉塊になる」
「分かってる!」
土を強く蹴り飛ばす。
バクバクと暴れる心臓。喉を焼く空気。こめかみを流れる冷や汗。
世界が、信じられないほどのスローモーションに突入する。
盗賊の一人が気づき、下卑た笑みを浮かべて迫り来る。振り下ろされる錆びた鉈。
「――右に半歩。刃を立てるな、寝かせろ。衝撃を逃がせ!」
ガギィィン!
言われた通りに身体をねじる。
肉薄する鉈の軌道が、滑らせた刀身に沿って虚空へと滑り落ちる。体勢を崩した盗賊の肉へ、ミナの腕が勝手に、最短距離の突きを放っていた。
浅い。だが、確実に前腕の肉を削ぎ落とす。
「ぎゃあああ!」
悲鳴。二人目が、ミナの死角――背後から殺気を放って跳躍する。
振り向く猶予はない。だが、剣が脳内で絶叫した。
「屈めぇぇ!!」
思考を挟まず、膝を折る。
頭上を、凄まじい風切り音とともに鉄パイプが通り過ぎた。
ミナは地面を這うような姿勢のまま、軸足を一歩踏み込み、上半身を独楽のように回転させる。
ザシュッ!
戻りざまの一閃が、二人目の太ももを深く裂いた。鮮血が夜の砂利にぶちまけられる。
三人目が、激昂しながら巨大な木槌を振り下ろす。
避けるスペースがない。ミナは左肩でそれを受け止めるしかなかった。
鈍い、肉と骨が潰れるような衝撃。
「う、くぅ……っ!」
「まだ止まるな! 歯を食いしばれ、ガキが! 痛みに意識を渡すな!」
魔剣の、烈火のごとき怒号がミナの魂を叩き起こした。
左肩の激痛を、アドレナリンが強制的に麻痺させる。
ミナは両手で柄を呪うように握りしめ、自らの体重のすべてを乗せて、前方へと刃を突き出した。
ドスッ、と重苦しい肉の感触。
三人目の腹部に刃が深く突き刺さり、男は白目を剥いて崩れ落ちた。
残された四人目が、その凄惨な戦闘能力に完全に気圧され、ガタガタと膝を震わせて後ずさる。
ミナは、肩で激しく息をしながら、血に濡れた刃を構え直した。
前髪の隙間から、爛々と輝く瞳で男を睨みつける。
「……まだ、やる?」
ひぃ、と短い悲鳴を上げ、四人目は負傷した仲間を抱え、一目散に闇の中へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。
老商人が震える声で感謝の言葉を述べる中、ミナは緊張の糸が切れ、その場に膝から崩れ落ちた。
遅れてやってくる、左肩の凄まじい鈍痛。ジンジンと、脈打つたびに脂汗が滲む。
「――生きて、る……」
「……合格だ。今のは、全盛期の俺の足元に及ぶ程度の、マシな動きだった」
ぶっきらぼうな、けれど、どこか誇らしげなその声を聞いた瞬間。
ミナの目頭が、じわりと熱くなった。
ただ生き延びるためだけに逃げていた自分が、誰かを守り、そして、この風変わりな相棒に認められた。それが、これほどまでに胸を震わせるものだとは知らなかった。
老商人から手渡された、いくつかの銀貨を握りしめ、二人は夕暮れに染まるリンデンの街へと滑り込んだ。
石畳の通りには、家々の窓から温かい光が漏れ、美味そうな煮込み料理の匂いが漂っている。
ミナは一番安い宿の、狭い一室を確保した。
ベッドに潜り込み、枕元に剣を横たえる。窓の外からは、階下の酒場から漏れる酔っ払いたちの喧騒が聞こえていた。
「――図書堂、明日だね」
「ああ。だが、その前にその耳を研ぎ澄ませ」
「え?」
「階下の、くだらん酔客どもの雑音だ。聞き捨てならん単語が混じっている」
ミナは窓を細く開け、夜風とともに流れてくる声に耳を傾けた。
『――だからよ、あの「銀の塔」の跡地には近づくなって言ったろ』
『ああ、百年前の戦争で崩れ落ちたっていう、呪われた塔か?』
『呪われちゃいねえよ。あそこはな、第七剣士団が最後に立てこもった聖域だ。国を裏切った将軍を道連れにするために、団長がたった一人で残って、塔ごと爆破したんだとよ』
『へえ……その団長の名前は?』
『さあな。歴史から完全に消されてる。裏切り者の将軍の血族が、都合の悪い事実を全部隠蔽したのさ』
その瞬間。
ミナの指先の下で、剣の刀身が、まるで生き物のようにカチリと熱を帯びた。
「ガレイン……あんた、今――」
「――静かにしろ。来る」
その声は、かつてないほどに鋭く、そして、怯えていた。
ドクン、とミナの脳組織が直接脈打つ。
視界が、真っ白な閃光に包まれた。
脳内に直接流れ込んでくる、圧倒的な情報量の映像。
崩壊していく、美しい白亜の塔。
血の雨が降る、灰色の空。
無数の矢が突き刺さった、誰かの――いや、この剣の持ち主の背中。
その視線の先には、漆黒の鎧を纏った男が立っている。
『――お前はここで消える。誰にも知られず、名も残さず、犬のように死ね、ガレイン』
『それでいい。俺の名など、硝煙と共に消え失せればいい。……俺の守った部下たちが、明日を生きられるなら、それで、いい』
男は、血を吐きながら、確かに笑った。
――プツン、と映像が途切れる。
ミナは、はっと我に返って大きく息を吸い込んだ。
手のひらの中の剣は、いつの間にか、元の冷たい鉄に戻っている。
「……今の、見たの?」
「……ああ。私の、悍ましい過去の断片だ」
「あんただったんだね。あの、国を救った団長」
「名前は、ガレイン……。そうだ、確かにそう呼ばれていた。だが、まだ足りない。核心の、最も重要な記憶が、あの裏切り者の顔が、霧の向こうで歪んでいる……っ!」
魔剣の声に、初めて剥き出しの『焦燥』と『怒り』が滲む。
ミナは、その震える刀身を、自らの胸に抱きしめるように強く握りしめた。
「明日、必ず図書堂へ行こう。その破られた歴史を、あたしたちで繋ぎ合わせるの。あんたの遺したものを、絶対に無駄にはさせない」
「……なぜ、そこまで私に肩入れする。お前には関係のない、百年前の死者の執念だぞ」
「関係あるよ。あんたがあの夜、あたしを助けてくれた。あたしに、もう一度前を向く力をくれた。……それだけで、あたしが命を懸ける理由には十分すぎる」
剣は、長い、長い沈黙の後。
フッと、宿の蝋燭を吹き消すような、静かな気配を漏らした。
「……お前は、本当に阿呆な娘だ。だが……嫌いではない」
「おやすみ、ガレイン」
「ああ、おやすみ。我が主よ」
翌朝。二人は大図書堂の、埃っぽい地下書庫にいた。
眼鏡をかけた司書の女性が、慎重な手つきで、一冊の、端が焼け焦げた分厚い記述書を差し出してくれた。
「これが、当時の記録が残る唯一のオリジナルよ。ただし、肝心な部分は、誰かの手によって綺麗に切り取られているわ」
ミナは、ガレインを傍らに置き、震える指で羊皮紙のページをめくった。
『――第七剣士団団長、ガレイン・ヴァルド。裏切りし将軍ヴォルフェイドの反逆を阻止すべく、銀の塔にて単身、これを迎え撃つ――』
そこから先は、無残にも引きちぎられていた。
(ガレイン・ヴァルド……)
脳内で、その名が幾度も反響する。
「破られたページの続きは、おそらく、その『銀の塔』の最上階に眠っているわ。生存者たちが、真実を記した石板をそこに隠したという噂が、古くからあるの」
司書の言葉に、ミナは力強く頷いた。
「行きます。そこへ」
図書堂を出ると、山脈の向こうから吹き付ける風が、ミナの髪を激しく揺らした。
「ガレイン・ヴァルド。確信した?」
「……ああ。その名を呼ばれた瞬間、魂の奥底の、冷え切っていた火床に、再び烈火が灯った。間違いない、それが私の名前だ」
「よし。じゃあ、次の目的地は決まりだね」
山道を歩くこと、さらに二日。
行く手を阻むように、赤黒い眼をした『岩狼』の群れが、牙を剥いて立ちはだかった。数は五匹。
「多いな。引くか?」
「ううん。この狭い一本道なら、奴らは一斉には襲えない。一匹ずつ、確実に潰す!」
ミナは、ガレインを正眼に構えた。
最初の夜のような、無様な恐怖はもうない。
ガウゥゥッ!
先頭の岩狼が、弾丸のように跳躍してくる。
ミナは、最小限の動きでそれを紙一重でかわし、すれ違いざまに刃を鋭く一閃させた。
確実な手応え。一匹目が血煙を上げて転がる。
二匹目が横から襲いかかるが――その瞬間、ガレインの指示を待つより早く、ミナの身体が、完璧なカウンターの軌道を描いて動いていた。
「お前、今のは……」
「身体が、勝手に動いたの。あんたの記憶が、あたしの中に流れてきてる」
三匹目、四匹目を、円舞のような鮮やかな剣閃で同時に叩き伏せる。
最後の一匹は、その圧倒的な剣威に恐れをなし、尾を巻いて岩陰へと逃げ去っていった。
ミナはガレインを美しく鞘へと納め、ふぅ、と長い息を吐き出した。
「塔が近い。私の記憶がお前に逆流しているな。……急ごう。すべての決着が、あの場所にある」
そして三日目の正午。
二人はついに、雲を突き刺すように聳え立つ、崩落した『銀の塔』の跡地へと辿り着いた。
風が石壁の隙間を吹き抜けるたび、まるで百年前の戦士たちの、無念の咆哮のような音が響き渡る。
最上階。崩壊した祭壇の奥に、風化しかけた一枚の巨大な石板が、ひっそりと佇んでいた。
ミナは駆け寄り、そこに刻まれた、今度ははっきりと読める文字を、声を震わせながら読み上げた。
「――『第七剣士団団長、ガレイン・ヴァルド、ここに眠る。彼は孤立無援の中、王国の裏切り者ヴォルフェイド将軍を討ち果たし、民の未来を死守せり。その魂を宿せし剣は、いつか、新たな正義の主と共に、再び戦場へと舞い戻らん』……っ!」
ゴォォォォッ!!
突如、ガレインの刀身から、眩いばかりの銀色の光柱が天へと突き抜けた。
ミナの脳内に、すべての記憶のパズルが、凄まじい速度で結合していく。
仲間たちの、輝かしい笑顔。
守り抜いた、名もなき民たちの明日。
そして――いま、目の前にいる、最愛の、新たな相棒の姿。
『――私の名は、ガレイン・ヴァルド。後悔など、微塵もない』
光が収まったとき、そこには、以前よりも遥かに鋭利で、神聖な輝きを放つ、一振りの『聖剣』が鎮座していた。
「……思い出したんだね、ガレイン」
「ああ。すべてを。……そして、理解した。私の戦いは、まだ終わっていないということを」
その声には、かつての凍てついた平坦さはなかった。
気高く、そして、どこまでも温かい、本物の『人間の英雄』の声が、そこにあった。
「ねえ、ガレイン。あの裏切り者の将軍の血を引く奴らが、まだこの国のどこかにいるかもしれないんだよね?」
「おそらく。歴史を歪め、今ものうのうと権力を貪っているはずだ」
「じゃあ、決まり。あたしの帰る場所を探しながら、その悪党どもの面、拝みに行こうよ」
ガレインは、今度ははっきりと、大人の男の包容力に満ちた苦笑を漏らした。
「本当に、退屈させてくれない主だ」
「あたしのセリフだってば」
二人は、確かな絆で結ばれた。顔は見えなくとも、お互いの魂が、これ以上ないほど近くにある。
ミナは聖剣となったガレインの柄を強く握り締め、崩れた塔を背に、新たな荒野へと歩き出した。
まだ、何一つ終わってはいない。
世界は広く、敵は強大だ。
けれど、もう、あの孤独な夜の恐怖はない。
腰元で息づく、百年の英雄と共に、少女はどこまでも、未来を変えるために歩き続ける。
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