6:怠惰ライフ終了のおしらせ
結局市役所の入社式の間中も、鈴緒の心は大荒れであった。それでもやはり、慣れとは恐ろしいもので。今回もトチったり文章を噛むこともなく、爽やか営業スマイルと共に巫女からのありがたい――のかは人それぞれな挨拶を言い終えた。
そして再び腐りかけの魚の目に戻りながら、市役所の車で自宅近くまで送ってもらう。自宅前でなく自宅近くを頼んだのは、偏にご褒美ケーキを買いたいがためだ。
「巫女さん、体調不良ですか? いつもより元気がないようですが」
運転中の女性職員が、後部座席で虚ろな目を晒している鈴緒へ声をかけた。鈴緒は姿勢を正し、ほんのわずかに迷った末作り笑いで受け流す。
「すみません。昨日ちょっと、緊張して眠りが浅くて」
「そうでしたか……やっぱり緊張しちゃいますよね。すみませんね、毎年……」
「いえいえっ。でも、皆さんにお祝いを言えるのは光栄なことですし」
鈴緒は、不銅との血縁関係を伏せることにした。鈴緒たちの母の姉でもある不銅の母は、他家に嫁いだ身だ。つまり日向姓も名乗っていない。ひょっとすると彼も、不必要に騒がれたり勘ぐられるのを嫌がって、日向家との関わりを公表しない可能性がある。
かなりの堅物なのだ、彼は。
(もし不銅くんが巫女の七光りを使いたいなら、きっと自分から従兄だって宣伝するだろうし。してたら絶対、市役所の人からも何か言って来てるはずだし。言われるまで、わたしはそっとしとこう……)
そんなことを考えていると、ショルダーバッグの中で何かが震えた。スマートフォンにメッセージが届いたらしい。開くと、タイミングよくと言うべきか不銅からのメッセージだった。
〈お久しぶりです。鈴緒も緑郎君もお変わりありませんか? 僕はこちらで就職することになりました。驚かせてすみません。また改めてお宅へ挨拶に行きます〉
年下の従妹への久々の挨拶とは思えぬ、なんとも堅苦しい文体だった。取引先宛と間違えていないだろうか、と鈴緒は首をひねる。
ただ鈴緒と緑郎の名前も書いてあるので、自分宛と考えていいはずだ。たぶん。
そして入社式で手を振って来た優男は、やはり他人の空似やドッペルゲンガーではなかったらしい。
鈴緒はこの事実に、想像以上に落胆してしまった。しょんぼりと背中を丸め、車の揺れに合わせて左右に傾きながらも、不銅へ〈就職おめでとう。来る時はまた教えてね〉と無難な返事を送った。
しょんぼりしながらも、車を降りた後はケーキ屋へ足早に向かった。そこでお目当てのいちごのムースと、ついでにケーキを三つ買って帰路に就いた。なおケーキが二人分でなく、三人分であるのには理由がある。もちろん鈴緒が食べるのはムースだけだ。
「ただいまー」
鈴緒が玄関のドアを開けると、緑郎のクロックスと並んでコンバースのスニーカーが置かれていた。使い込まれたそれは緑郎の靴より大きく、銀之介のものより小さい。
三つ買ったケーキが無駄にならないようだ、と鈴緒は一つ頷いてから廊下へ上がる。自室へ向かう前に、ケーキたちを冷蔵庫へ入れることにした。
そしてキッチンで、湯上りらしき頭がしっとりと濡れたスウェット姿の緑郎と鉢合わせる。彼は手に持った、ピクニックのフルーツ オ・レを飲んでいた。風呂上りにはコーヒー牛乳でなく、フルーツ牛乳派らしい。
緑郎は鈴緒に気付くと、ストローから口を離してにっかり笑った。
「おかえり、鈴緒。スピーチお疲れさまー」
彼の声で、続きのダイニングにいた男性も鈴緒の方を見る。
「おかえりなさい、妹さん! 真っ昼間からお邪魔してすみません」
「いえいえ。お久しぶりです、原田さん」
鈴緒もダイニングの男性へ、ぺこりと一礼した。
原田は、緑郎が絵画教室で出会った新しい友人である。バレンタインの夜に、二人で一緒にゲームをして雑魚寝をして以来すっかり意気投合したらしい。
緑郎は最近、原田の趣味兼副業であるインディーゲームの制作を手伝っているようで、原田宅へ連泊することもしばしばあった。
なので兄の顔を見るのも、実は三日ぶりだったりする。問題児を野放しにしているので、鈴緒もついつい原田の濃い顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃんの素行、大丈夫ですか? ご迷惑かけてません?」
海人という通称を付けたくなるようなくっきり顔をほころばせて、原田は人懐っこく笑った。
「今のところは、風呂キャンセル界隈に片足を突っ込んでいる以外、至って真面目ですよ」
「だいぶ迷惑かけてるじゃないですかっ」
どうりで家に戻って来るなり、風呂に入っているわけである。鈴緒がギロリと兄をにらむと、緑郎はフルーツ オ・レの紙パックを畳みながらテヘッと舌を出す。
「忙しいと、ついねー」
「よそ様に迷惑かけるなら、お泊り許さないよ? それにそんなことばっかしてると、また不銅くんに叱られるからね」
不真面目を極めた獣道をひた走る緑郎と、真面目一辺倒な不銅の相性はあまりよくない。というか、緑郎側が一方的に苦手意識を持っているのだ。
しかし不銅の実家は東京にあり、今までは会うのも数年に一回程度だ。緑郎も妹の警告を笑い飛ばす。
「やだなー。あいつが来るの、たまの年始ぐらいじゃん? じゃあバレなきゃいいんだよー」
「バレるよ、たぶん。すぐに」
しかし彼が東京に住んでいたのは、もう過去の話である。
思いのほか冷え冷えとした鈴緒の声に、緑郎も気の抜けた笑顔のまましばし固まる。次いでぎこちない仕草で、鈴緒の真顔を見た。
「……え。なんで?」
「さっき市役所でね、不銅くんを見かけたの。新卒で入ったみたい」
事実上の死刑宣告に、緑郎の顔色がみるみる青ざめる。そして涙目で叫んだ。
「やだぁー! 帰ってよぉぉーッ!」
「無理だよ、もう入社しちゃってるから」
駄々をこねる兄を、鈴緒は鼻で笑った。




