5:目の中に入れても痛くない系彼女
甘かった。鈴緒は己の考えの浅はかさを呪った。
自分さえ理性を保てていれば、バカップル状態から脱却できるだろうと思っていた。
だが真の敵は彼女の甘え癖よりも、むしろ
「銀之介さん、本当に大丈夫だから。帰りはちゃんと、市役所の人に送ってもらえるの。毎年そうしてもらってるから、本当に大丈夫」
銀之介の甘やかし癖、なのかもしれない。彼は今も鈴緒を甘やかすべく、入社式後のお迎えまで買って出ている始末だ。車の運転座席から降りようとする銀之介と、外に立ちはだかる鈴緒が、ドアを挟んでにらみ合う。
それよりも彼の仕事はいいのだろうか。
事務局を出る間際、日野という後輩に思い切り呼び止められていたはずなのだが。
ヤクザ風スーツから普段の実直スーツに着替え直した銀之介は、「大丈夫」と繰り返す鈴緒にもめげずに食い下がる。
「しかし――」
「逆にお迎えに来てもらったら、市役所の人も困っちゃうかもだし。なので気にせず帰って、ちゃんとお仕事してくださいっ」
鈴緒が噛みつかん勢いで言うと、ようやく彼も引き下がった。渋々といった様子だが、ドアノブから手を離してシートベルトを再装着する。
「分かった。だが何かあれば、必ず連絡してくれ」
「うん」
鈴緒もキリリと表情を引き締め、しっかり頷いた。ここで彼女がゴネれば、また振り出しに戻りかねない。それに鈴緒だって、彼が自分のことを気にかけてくれるのは嬉しいのだ。
銀之介は凛々しい彼女を見上げ、かすかに目を細める。
「それから。今日の服も、とても似合ってる」
「えっ、あっ……うん、ありがと……」
急な褒め言葉に取り乱しながらも、鈴緒ももじもじと礼を言った。彼にはこういうところがあるから、変な意地を張り続けるのが難しかったりする。
勝気な鈴緒との相性は、はっきり言って抜群であろう。
こうして鈴緒は、市役所での入社式(入所式かもしれないが、鈴緒もその辺の細かい名称までは覚えていない)を控えているにもかかわらず、銀之介を送り返すために多大なる労力を払う羽目となった。こんなことになるなら、最初から素直に送ってもらった方がよかったかもしれない。
疲れた笑顔で彼の車に手を振った後、思わずため息が出る。
「銀之介さん、わたしのお世話するのが趣味になってるのかも。もう駄目だ」
由々しき事態を自覚し、遠い目になった。
実のところ、鈴緒も薄々ではあるが「甘やかされてるなぁ」という自覚はあった。彼と十年以上の付き合いがある緑郎からも
「今までの彼女にも紳士っぽかったとは思うけど、こんな初孫を可愛がるジジイ感はなかったような……銀之介、老いた?」
という指摘も受けている。ただこれまでは鈴緒も、じわじわと濃度を増していくジジイ感に慣れた末に甘えまくっていたため、そこまで不都合もなかったが。
(このままだと、見るに堪えないバカップルの完成じゃない)
自覚した今となっては、彼の甘やかし癖もどうにかせねば。でなければ彼女の大学内での立ち位置が、タタリ神または山村貞子級の怨霊になってしまう。
しかし下手に彼と距離を取ったり、またはバカ可愛がりを拒否しようものなら、浮気や心変わりといったあらぬ誤解を招きかねない。
どうしたものか、鈴緒は市役所の応接室でしばし悩んでいた。
だが途中で市役所職員が顔を出し、大会議室へ案内される。今まで何度も訪れている場所なので案内なんて不要だが、それは言わぬが花である。
また彼女の脳内は「いかに親戚から口出しされない、品行方正カップルに生まれ変わるべきか」で八割方占められているので、それどころではなかった。
なお残り二割は、帰りに自分へのご褒美として買うつもり満々のケーキが占めている。今日はいちごムースの気分だった。
こんな不誠実な気持ちで、他人様の晴れの舞台に臨んだせいなのか。
それとも今日の一連の気付きと焦りは、この瞬間のために積み上げられたものだったのか。
鈴緒は大会議室にズラリと並んで座る、新卒職員の面々をぐるりと見渡した時に、嫌な懐かしさを覚えた。
覚えのある顔が、あったのだ。
それは東京に住んでいるはずの、母方の従兄の顔だ。
しかしここから東京まで、かなりの距離がある。そして従兄こと不銅はとってもお利口さんだと、何かにつけて伯母がマウントを取って来ていた。わざわざこんな地方都市の役所に就職するだろうか。
胃にキリキリとした痛みを覚えながら、鈴緒は恐る恐る二度見すると――やはり、伯母の秘蔵っ子がいた。
おまけに不銅も、おっかなびっくりな彼女の視線に気付いたらしく、中性的な線の細い顔をにっこり笑顔に変えていた。こっそりながら、手まで振って来る余裕ぶりだ。
こんなフレンドリー仕草までかまして来て、他人の空似ということはまずないだろう。いつも「こんな品行方正な優等生君が、本当にうちの血筋の子なのだろうか?」と、日向一家の首を傾げさせていた不銅で間違いない。
鈴緒はせり上がって来る胃酸に吐き気を覚えながらも、死にかけの笑顔を無意識に浮かべていた。
色んな人の門出をお祝いしているだけなのに、どうしてこうなったのか――そんな疑問から死んだ魚の目になる巫女に、顔馴染みの古株職員たちは不思議そうに彼女を眺めていた。




