25:メガネのHard Day’s Night
その日の夜、日向家に帰宅した銀之介の表情は暗かった。好きな人の地獄行きを目の当たりにした獄卒の面構えである。
実は彼はつい三十分ほど前まで、バレンタインデーという行事の存在自体を忘れ去っていたのだ。日本人として、あまりにも情弱が過ぎる。
それというのも、社会人になってからバレンタインと無縁になったことが原因だった。
大学時代に付き合っていた恋人とは、彼女の就職先が遠方だったため入社半年も経てば自然消滅していた。そして職場内では義理チョコの配給も禁止されている。男女共にプレゼントの負担が半端ないためだ。
おまけに本人が強面のため、あまりモテない。鈴緒と付き合うまで、ずっと独りだった。
こういった事情によりバレンタインが「学生がなんか、ウキウキとエンジョイしている行事」という、よその国の奇祭レベルにまで落ちていたのだ。そこへ当事者意識をぶち込んでくれたのは、後輩の日野だった。
「先輩、なんか普通に飯も付き合ってくれてますけど……彼女さんほっといて大丈夫なんすか? 今日、バレンタインっすよね?」
お世話になった先輩へのプレゼントを買いに行った後、皆でちゃんこ鍋の店に入ったところでこう尋ねられたのだ。いつも明朗な彼らしからぬオドオドした口調だったので、かなり気を遣われたらしい。
日野の言葉で一気に血の気が引いた銀之介は、慌てて鈴緒に電話をかけるも、一度も出てもらえなかった。メッセージも既読すら付かない。
日野や男性の同僚からは哀れみの、そして女性の同僚からは蔑みの視線を注がれつつ、銀之介は大急ぎで店を出た。制限速度ギリギリで車もかっ飛ばし、家に戻る。
だが案の定というべきか、玄関も廊下も真っ暗であった。ただいま、と控えめに声をかけても誰の返答もない。
リビングにも人の気配はなく、ひんやりとした空気だけが漂っている。
そしてキッチンのゴミ箱の中には、潰されたレトルトカレーの空き箱があった。冷蔵庫の中の食材は、ほぼ手つかずである。罪悪感まみれだった銀之介の胸にじんわり、と寂寥感もにじみ始めた。
(夕食は豪勢にすると言ってくれていたのも、俺のためだったはずなのに)
鈴緒にとっては初めての彼氏であり、彼氏と共に初めて迎えるバレンタインなのだ。絶対に楽しみにしていたはずだ。今すぐ土下座して謝りたい――が、その当人が見当たらない。残念ながら、彼女の部屋も無人だった。
ここに来て罪悪感や寂しさに加えて、不安もせり上がって来る。
(まさか、俺に愛想を尽かして……家出? いや、さすがにこれだけで――これだけじゃないよな、俺の場合。そもそもバレンタインを失念する事は、なかなかの量刑だろ。おまけに俺の減らず口と無愛想さは、親にも兄貴にも呆れられるレベルだ。鈴緒ちゃんに見切りを付けられても仕方が、ない……のかもしれないが! どうしよう、それだけは凄く嫌だ! 泣くかもしれない!)
ここまで一気に考え、ちゃんこ鍋店での比でなく血の気が引いた。ついでにちょっと、立ち眩みもする。
銀之介は鈴緒の部屋のドアをそっと閉めながら、自身のスマートフォンを取り出した。緑郎は朝まで飲むと言っていたが、ひょっとすると何か知っているかもしれない。
彼へのメッセージを打ちつつ、次に自分の部屋へ向かう。ひとまずはコートや荷物を置いて、身軽になりたかった。壁のスイッチに手を伸ばす。
白熱灯が点いた瞬間、彼は部屋の異変に気付いた。ベッドのシーツがグチャグチャになっている上、布団がこんもりと小さな山を作っているのだ。銀之介は、途中まで入力していた緑郎へのメッセージを閉じる。次いでこくり、と唾を飲み込んだ。
「……鈴緒ちゃん?」
ためらいがちに声をかけるも、小さな山は穏やかに上下するばかりだ。寝ているのだろうか。
なんとなく足音を消しながらゆっくり近付いて、そっと枕側に回り込む。
すると布団を頭の下半分ほどまで被った、鈴緒の寝顔が窺えた。いつも自分をじっと見上げる、淡い青色の瞳も閉じられ、緩やかな呼吸を繰り返している。暖房の付いていない部屋で寝ているからか、小さな鼻の先だけがほんのりと赤い。
銀之介視点では愛らしさ満点の寝顔に、TPOも吹き飛んでついキュンとしてしまった。ほぼ無意識に手を伸ばす。
そして布団をわずかにずらし、寝乱れた彼女の髪を撫でた。桜色の耳も指でなぞった。
「んぅっ」
これがくすぐったかったのか、鈴緒はぐずるような声をこぼす。ふるりと首を一つ振った後、彼女の目が半分ほど開いた。そのまま鈴緒はしばらくの間、ぼんやりと銀之介を見つめてから、やがてびっくりしたように目を瞬いた。
「え……銀之介さん?」
「ごめん、鈴緒ちゃん。バレンタインの概念自体を忘れていた」
「日本に生きてて、そんなことあるのっ?」
開口一番の彼の謝罪に、鈴緒も寝起きとは思えぬ歯切れのいい声で返した。銀之介も怖い顔でこくり、と一つ頷く。
「本当に申し訳ない。社会人になって以来、全く縁が無かったんだ」
「えぇぇー、哀れ……」
鈴緒は声も表情も情けないものになり、ベッドから身を起こす。自分のベッドに彼女が寝ているのは――なんというか、落ち着かない。臭くないといいけれど。
「――ところで、何故ここに?」
訊いていいものかと悩んだが、ここでスルーするのも不自然である。銀之介が尋ねると、鈴緒の桃色の唇がつんと尖った。三角座りの体勢になり、眉も寄せられる。拗ね顔も、これはこれで可愛らしい。
「だって……銀之介さんのお仕事とか、そういう事情は分かるけど……でも、ね……」
語尾が弱々しくなった彼女の背中を撫で、続きを促す。
「うん」
「今日、他の女の人のプレゼント見に行ったのが……ちょっとだけ、悲しかったから」
貴重なヤキモチを、伏し目の憂い顔で披露されればもう、銀之介に勝ち目はない。ちんまりと背中を丸める彼女の体を引き寄せると、素直に彼へもたれかかってくれた。そのまま痛くない程度に抱きしめる。
「そうだよな。本当にすまない」
もう一度謝りながら、銀之介は決心する。退職する先輩がアラフィフなうえ、
「旦那の転勤先が実家の近くでさー! こりゃちょうどいいわって思ったのよー! ウハハ!」
とのけぞって大笑いするような、三児の母だという事実は墓場まで持って行こう、と。
銀之介の腕の中で、鈴緒がもぞもぞと動き出した。彼も腕の力を緩め、鈴緒の好きにさせる。
三角座りをしていた鈴緒は膝を崩し、ベッドの端に座っている銀之介へ向き直る。そして赤い顔で彼をじっとり睨みながら、コートを引っ張った。怒っているというよりも、泣き出しそうな表情に見えた。
「……謝るなら、た、態度も示して、下さい……」
言い淀みながらの言葉と潤んだ目で、彼女の言わんとしていることが分かった。うん、と銀之介も一つ頷いてから鈴緒の頬に手を添える。
キュッと目をつぶった彼女に庇護欲を覚えつつ。銀之介は柔らかな唇に、自分のものを重ねた。
そんなわけでイチャイチャタイム突入となります。
なお後輩の日野君は、シーズン1で銀之介におちょくられていた後輩君でもあります。
彼にまつわる番外編をネオページに掲載しておりますので、ご興味がありましたらぜひぜひっ。
https://www.neopage.com/book/32241691011383200?r=46bcf82fd40dc3297dadb8d0aeeef5c0&f=sc-1-MzAxMTU5MTA4MTAwNjEwMDA%3D




