19:人の話はよく聞こう
鈴緒と銀之介は、上井と共に従業員用通路を通ってモアトピアのエントランスに戻った。とはいえ、腰が抜けて歩けなくなった上井を、銀之介が背負っての帰還だったので時間がかかってしまったが。
三人がエントランスに戻って憂子を探す――までもなく、すぐに見つかった。頭からトランクスのようなものを被った憂子はタイル張りの床に座らされており、後ろに回された彼女の腕を警備員がしっかり掴んでいた。
あまりにも世紀末過ぎる絵面である。中世ヨーロッパの、処刑前の一幕に見えなくもないが、彼らの横に全裸の緑郎も仁王立ちでいる。わけが分からない。
鈴緒は思わず頭痛を覚え、側頭部を手で覆った。
「お兄ちゃん、どうしてここに……あれ? 裸じゃ……ない?」
先見のせいで全裸と決めつけていたが、不快感を押し殺して兄の股間をよく見ればベージュのサポーターを履いていた。緑郎は腰に手を当てた体勢で、むんっと股間を前に突き出した。思わず縊り殺したくなるドヤ顔だ。
「水着を着る時は、サポーターも履かないと不安でしょー?」
「水着?」
鈴緒は頭痛と一緒に殺意も抑えつつ、緑郎が指さしている憂子が被せられたパンツへ視線を移した。トランクスだと思っていたそれは、どうやら水着のようだ。緑郎は普段からバカな柄のパンツばかり履いているので気付かなかったが、いかにも水着なハイビスカス柄である。
兄が全裸でないことは何よりだ。だが、それはそれとして。鈴緒は可愛らしい顔を思い切りしかめた。
「……で、どうして水着なの? というか、どうして服着てないの? あと、絵画教室はどうしたの?」
鈴緒の冷え冷えとした声と眼差しから、
「おいクソ兄よ。ひょっとしてお前は絵画教室を抜け出して、モアトピアで遊ぼうとしていたのではないか?」
と疑っていることは明らかだった。緑郎も即座にそれを察し、慌てて首を振る。両手も上げて、降伏ポーズもばっちりだ。
「違うからね! 絵画教室を抜け出したわけじゃないからね! いや、抜け出したのはそうなんだけど……」
「ふうん」
「だから違うの! 理由があって命からがら、逃げて来ただけだからー!」
「え? 命?」
絵画教室は表向きで、臓器売買でも行われていたのだろうか。鈴緒がキョトンと小首を傾げて、オウム返しをする。
しかし実態は、もっとずっと馬鹿馬鹿しいものだった。
「モデルはモデルでも、実はヌードモデルが欲しかったらしくてさー……倫子ちゃんと室長のお姉さんに、いきなり捕まえられて服も脱がされたから、怖くなって逃げたんだよ……」
「ぅわぁ」
それは怖い。鈴緒も唇を尖らせて、しょっぱい顔になる。だが相手が倫子なら、主にバイト代が発生している場合にやりかねない。
彼女はドライかつ、現金で合理的な性格なのだ。
緑郎も似たり寄ったりの表情を浮かべながら、それでも得意げにサポーターのゴムを引っ張ってパンッ!と軽快に鳴らした。鳴らすな。
「でもさ。ちょっとでもプール気分を楽しみたくて、水着着ててよかったよー」
「そう……水着が無駄にならなくて、よかったね」
緑郎のドヤ顔に再度殺意を覚えつつ、鈴緒は乾いた笑顔で労う。
今まで二人の会話に参加せず、自力で立てない上井を介助していた銀之介が口を開いた。
「ところでお前、財布やスマホや、家の鍵はどうしたんだ」
「あー……それも置いて来ちゃった。だってむっちゃ怖かったんだもん……『羅生門』に出て来るおばーちゃんかよって思ったもん」
緑郎がシュンとうなだれて言った。銀之介の片方の眉が持ち上がる。
「現国の授業はずっと寝てたくせに、そういう事だけは覚えてるんだな」
呆れ半分の言葉に、緑郎は照れくさそうに笑う。銀之介の言葉と、そしてこの腑抜けた笑い声が憂子の記憶を揺り動かした。はっとしたように、丸まっていた彼女の背中が伸びる。
「あっ! あの裸のヘンタイ、日向なんじゃん! ってかあたしに、何被せてんの!? これ何!?」
水着越しにモゴモゴと叫ぶ。死刑囚のこの声に、銀之介が鼻で笑って答えた。
「その日向のパンツだな。どうだ、元カレのパンツの被り心地は?」
「はあぁぁぁぁァーッ!?」
憂子の奇声が、エントランス中にこだました。鈴緒はこっそりと「やっぱりお兄ちゃん、元カレだったんだ」と納得する。予想通りだ。
どうやら憂子は、先ほどの日向兄妹の会話を全く聞いていなかったらしい。視野の狭いヤンデレ気質が災いし、銀之介の嘘をすっかり信じた彼女は、座ったまま足をジタバタと動かして暴れる。
「最悪に決まってんだろ! ってか顔についてるの、どっち!? 前なのッ? 後ろなのォ!?」
せめて前であれ、と祈っていることがバレバレの裏声だ。たちまち銀之介が悪人面で微笑む。
「後ろの方だな。良かったな」
「よくねぇよ!」
ここに緑郎も、人懐っこい爽やか笑顔で参戦する。
「おれ、お腹緩めでさー。今朝もちゃんとウンコしたよ!」
この爆弾投下に、一拍遅れて憂子が叫ぶ。
「ふざけんなァァァーッ! ビオフェルミン飲めよなぁぁぁぁッ!」
甲高い絶叫を上げて暴れる姿は、中世の死刑囚というよりもマンドレイクに近かった。見たことなんてないけれど。
だが、憂子によって楽しみにしていたデートをぶち壊された鈴緒はもちろん。
彼女にパイナップルをぶん投げられた上井も、そして暴れる彼女を抑えつけている警備員コンビも、誰も「頭に被ってるのは水着だし、緑郎はサポーターも履いてるよ」とは教えなかった。
全員、なかなかどうして彼女にご立腹であるらしい。
しかしこの出来事がトラウマになったのか。この騒動の後、憂子が上井に粘着することはなくなったという。怪我の功名だ。




