16:食べ物を武器にすな
緑郎が靴も履かずにパンツ一丁で冬の街を遁走している頃、南国パラダイスなモアトピア内も一部が修羅場と化していた。
パイナップルをぶつけられた時に、トゲトゲした皮が刺さってしまったのか。頬に小さな切り傷をいくつも作った上井が、全身をガタガタと震わせながら
「憂子……おま、なんで、パイナップルなんか……」
と、「今そこじゃないだろ」な問いかけをしていた。たしかに、パイナップルの入手ルートは気になるが。今そこじゃないだろ。
一方の憂子は、左手で鷲掴んでいたパイナップルを両手に抱え直して、ふわりと微笑む。綺麗な笑顔だ。
「ほら入り口で、手荷物検査があったでしょ? だから包丁は持ち込めなくてさー。せっかく買ったのにね。没収されてさ。もう、マジ残念なんだけど。ほんと残念」
何度も残念と繰り返しながら、肩をすくめている。彼女の表情と口調からほんのり漂う「ズレてる」空気が、やはり怖い。
(包丁を持ち込もうとしてるお客は、その場で追い出すべき……ううん、すぐにおまわりさんを呼ぶべきでしょ)
鈴緒は無意識に銀之介へしがみつきながら、ついそんなことを考える。後で絶対に警察にチクってやろう。今こそこの、無駄に広い人脈を使うチャンスだ。
上井は包丁という単語で心の古傷が痛んだのか、ビクリと肩を跳ねさせたものの。一度深呼吸をしてから、涙目で次の問いを口にした。
「……ってかさ。お前がなんで、ココにいるワケ……?」
震え泣き寸前の情けない顔だが、なけなしの気合を振り絞って元妻をにらみつけた。
「やーだー! もーっ、芳ちゃん怖いって!」
だが憂子はそれを笑い飛ばし、彼へパイナップルを投げつけるような素振りを見せる。再度芳ちゃんこと、上井 芳一がビクつくのを楽しみながら、憂子は朗々と悪夢の解説パートをおっぱじめた。
「芳ちゃんの職場なんて、あんたのSNS見てたらすぐ分かるじゃん? なんでかあたしのアカウントはブロックされたんだけどさ。捨て垢でずーっと見守ってあげてたの」
「えっ……」
上井が絶句する。しかし憂子は、構わず続けた。
「ほらこの前、バーガーキングの包みがさ、職場のテーブルに見切れてたっしょ? だから県内のバーキンのお店さ、全部調べて回ってさ。でも全然見つからなくてどうしよーって思ってたら、ここにも店出してたんだね! マジ知らなかったー! もし県外に引っ越してたらどうしよーってちょっと心配してたから、マジ安心したもん」
ペラペラと告げられるドン引きの事実に、上井だけでなく鈴緒と銀之介も一歩後ずさった。
駄目だこの女――三人の心がそう、一つになった瞬間である。
話をしたところで無駄だと判断し、鈴緒は周囲を見渡す。他の従業員を見つけ次第、速やかに通報してもらおうと考えていた。プールに入るため、彼女も銀之介も通信機器は持ち合わせていないのだ。
だがぐるりと首を巡らせたことで、不運にも憂子の注意を惹きつけてしまった。たちまち、憂子の笑顔がイカれ怒り顔に変わる。パイナップルを脇に抱えてびしり、と鈴緒を指さした。
「ってかあんたァッ!」
「ひっ、何っ?」
突然呼びつけられ、鈴緒がその場で飛び跳ねる。憂子は目を白黒させる彼女をにらみ、大声で吠えた。
「あたしの芳ちゃんのこと、狙ってんでしょ! 分かるんだからね、あたし! 変なうそ吹き込んで芳ちゃんとあたしの仲、グッチャグチャにしやがって! 死ねよクソガキ!」
上井を狙っているなど、事実無根どころか種すらない妄想だ。鈴緒は大慌てで首を振る。
「狙ってません! 狙うわけないです! わたし、ちゃんと彼氏いますから! ほらこのっ、怖い人!」
銀之介の腕もグイグイ引っ張り、アピールする。
一方の銀之介は、鈴緒の胸の谷間に自分の腕がシンデレラフィットしてそれどころではない。何なんだ、このご褒美は。
だが鈴緒のこの弁解が、憂子の嫉妬の炎に油を注ぐ。
「あーあーあー! 分かってんだよ! そういう興味ないフリしてさ? 優しい芳ちゃんだましたんだろ! ふざけんな! オッパイ見せびらかしやがって!」
憂子が地団駄を踏みながら、パイナップルを振りかぶる。しかしそれがぶん投げられる前に、立ち直った銀之介が鈴緒を素早くその背に隠した。そして虚を突かれた憂子を視線で威嚇し、低い声で淡々と迎撃する。
「巫女は、先見の内容について一切虚偽を行う事が出来ない。君が夫を殺す可能性があったのは事実だ。むしろ先見のお陰で殺人を犯さずに済んだ、と鈴緒ちゃんに感謝すべきだろ」
「……は?」
冷静に事実だけを叩きつけられ、怒りのメンヘラ元妻は顔を歪ませてしばらく固まった。怒りで我を忘れた頭では、ちょっとすぐに内容を処理できなかったのだろうか。
――いや、違った。
「……あれ、あんた……旭谷……?」
憂子はここでようやく、自分をたしなめる相手がかつての同級生だと気付いたのだ。上背がデカすぎるあまり、今まで茶色い塗壁か何かと認識していたのだろうか。
憂子は振りかぶっていたパイナップルを抱きしめると、ギリリと歯を食いしばった。銀之介を見る目は、まるで親の仇と出会った時のようだ。




