13:メガネが眼鏡を取ったなら
二月十三日の、デート当日となった。
どうせすぐに脱ぐ(そして水着に着替える)と分かってはいるのだが。鈴緒はチャイナボタンが付いた、イチゴ色のブラウスとミニスカートのセットアップを着ていた。こちらは現在お気に入りの、一軍エース服である。
(だって、ちゃんとしたデートって初めてだし。いいでしょ、ちょっとぐらい気合入れても)
内心で言い訳しながら、車を運転する隣の銀之介をちらりと見た。ちょうど赤信号に捕まっていたところだったので、彼も鈴緒の視線に気づいてこちらを見る。
鈴緒はまさか彼に気付かれるとは思っておらず、ついぎくりと身を強張らせた。無意識にブラウスのチャイナボタンを指でなぞる。
銀之介は彼女の落ち着かない様子を見下ろし、わずかに口角を持ち上げた。
「安心しなさい。緑郎はきちんと絵画教室に捨てて行くから」
「やだー、捨てるとか言わないでよー」
彼の言葉に、後部座席でトッポを食べていた緑郎から抗議の声が上がった。
地方都市在住者の定めとして、緑郎も自分の車は持っている。しかし肝心の運転はあまり得意でなかった。なので本日も、銀之介の運転する車に相乗りしての絵画教室入りである。
「おい緑郎。帰りは自分でどうにかしろよ」
銀之介の言葉に、緑郎は愛想よくヘラリと笑った。
「大丈夫だってー。室長さんが、終わったらちゃんと送ってくれるってさ」
なんと。SNSのDMだけでのやり取りだというのに、すでに倫子の大先輩を足に使える立場らしい。鈴緒が後部座席へ振り返り
「お兄ちゃんってさ、天性の人たらしだよね」
としみじみ言えば、兄はドヤ顔で胸を反らしている。
「お前のコミュニケーション能力だけは凄いよ」
銀之介も呆れの混じった声で、ぽつりと呟いた。
絵画教室は幸い、モアトピアよりも自宅寄りの位置にあった。五階建ての少し古びたビルの前で緑郎を下ろし、その背中を見守る。
彼が逃げずに両開きのガラス扉をくぐったのを見届けてから、車は再発進した。そこから更に五分ほど大通りを進むと、モアトピアに到着だ。
平日の午前中ということもあり、モアトピアの駐車場やエントランスの混み具合は予想を下回っている。
二人はロビーでチケットを見せると、アロハシャツにハーフパンツ姿の従業員によってエントランス奥の入場ゲートへ案内された。そこから更衣室を経由し、屋内プールへと向かう。
モアトピアはハワイをモチーフとしているらしく、プールへ向かう廊下にもヤシの木のオブジェが飾られている。壁面には、プルメリアやカメのレリーフもあった。いかにも、である。
(こんな川しかない内陸地で、取って付けたハワイ感を出されても……)
と鈴緒が若干呆れていたのもつかの間――最奥のド派手な自動ドアを潜り抜け、カラリとした熱風に煽られた瞬間にそんな気持ちも吹き飛んだ。
天井には青々とした空の映像が投影され、視界の中央には白い砂浜を伴った大きな海が広がっていた。海では穏やかな波が寄せては返しており、浮き輪を着けた子供たちがキャッキャとたゆたっている。
海型巨大プールの右側には、ゴツゴツとした岩肌の山がそびえたっている。山頂部からは赤い光と煙を漂っており、どうやらこれは火山のモニュメントらしい。その山中からは急スピードで何かが滑り落ちる音や、多数の人間の歓声・悲鳴も漏れ聞こえてくる。
おそらく火山は急流すべりや屋内ジェットコースター等がある、アトラクションエリアなのだろう。
プールの左側は溶岩で作った宮殿のような作りになっており、ところどころにテラスや広場も設けられ、火山側よりも開けた印象がある。極彩色の屋根をしたテナントも見え隠れするので、あちらはレストランエリアか。
若干のナメくさった予想を軽く覆す本気のハワイアンぶりに、鈴緒はしばし呆けていた。
棒立ち状態の彼女に、佐久芽市民らしき母娘が呑気に声をかけて来た。
「巫女さんも、今日は遊びに来たんですか?」
母親らしき女性が、鈴緒へ飛びつこうとする娘の、水着の肩紐を握りながら笑顔で尋ねる。三・四歳と思しき娘は、ムチムチの腕を伸ばして必死の形相だ。
鈴緒はその光景にぶしつけながら、散歩中にはしゃぎまくる子犬を想像してしまった。
「はい。大学のテストも終わったので、息抜きに来ました」
「ああ、そっか。学期末ですよね。お疲れ様でした」
鈴緒が子犬っぽい娘の頭を撫でながら答えると、母親も昔を懐かしむように大きく頷く。その後、二言・三言ほど言葉を交わして二人と別れた。鈴緒は屋内マップを見ようと歩き出しながら、その後も何組かの市民と挨拶を交わす。
しかし彼女がそつなく笑顔で対応できたのは、そこまでだった。屋内マップで、あらかじめ待ち合わせ場所に決めていた屋台の位置を確認し、そちらへ向かおうと動き出したところで、若い男性二人組の一人にぶつかったのだ。完全なる鈴緒の前方不注意である。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて彼女が謝るも、ぶつかられた色黒の男性は何故か笑顔だ。
「え、お姉さんひょっとしてナンパ? おれのこと誘ってくれてたり?」
黒光りする男に、やや食い気味に尋ねられた。鈴緒を「巫女さん」と呼ばないということは、市外の住人だろうか。
「すみません。よそ見してただけなので。それに、あの……デートで来てるので」
よそ行き笑顔で無感情のまま微笑み、鈴緒が彼らの横を通り抜けようとする。だが今度は、金髪の男に前を遮られた。愛想よく笑いながらも、男の視線は鈴緒の顔と胸の谷間を高速で往復している。露骨すぎるし、必死すぎるだろう。
「えー、でも一人じゃん。フラれちゃったんじゃね?」
「いえ、待ってるところです」
「またまた、無理してない? おれらも女の子にフラれちゃってさ、暇なのよ。どう?」
(どうもこうも、フラれたなら二人で傷のなめ合いしてなよ)
と罵りながら、脛でも蹴れたらどれだけよかったか。
しかし残念ながら今は、善良な市民の目もある。巫女である鈴緒がおいそれと暴言や暴力に打って出るわけにはいかないのだ。
(うう、面倒……『メン・イン・ブラック』のピカッて光るヤツがあれば、どうとでも出来たのにぃ)
苛立ちとじれったさで歯噛みする鈴緒の肩に、誰かが優しく触れた。体温の高い大きな手だ。
振り返ると、眼鏡をコンタクトに替えたヤクザ――否、鈴緒の恋人が立っていた。慌てて駆けつけてくれたのか、息が少し上がっている。
フィクションの世界では「眼鏡を外すと美女/美男」というギャップは鉄板ネタとして存在しているが。背後にそびえ立つ銀之介は、眼鏡というフィルターを外したことで眼力が五割増しになっている。
彼はその五割増し面で、静かに怒っていた。ご近所のマダムにもご好評な筋肉質ボディも、威圧感に要らん花を添えている。
何が言いたいかというと、見慣れた鈴緒もそのイカつさにちょっと引いていた。彼女をグイグイ誘っていたナンパ達に至っては、か細い悲鳴をこぼしている。
「俺の彼女に、何か御用でも?」
トロピカルなテーマパークに全く似つかわしくない極寒の声で詰問され、二人組が及び腰になった。じりじりと後退もしている。
「あっ、いえっ、別に……」
「あ、はい、だいじょぶっす……うっす」
モニョモニョとそれだけ言うと、二人は露骨に視線を反らしながら速足で立ち去った。鈴緒の聞き間違えでなければ、「ヤクザが女連れで来るとか聞いてないぞ」とボヤいていた気がする。とんだ名誉棄損である。
銀之介はへっぴり腰で逃げる二人を忌々しげにねめつけながら、荒く息を吐いた。
「鈴緒ちゃんに気安く声をかけやがって」
いつになく乱暴な口調だったので、鈴緒もつい笑った。
「佐久芽市の人じゃないっぽいから、仕方ないよ」
どうどう、と両手を掲げてなだめる鈴緒の手を、怖い顔の銀之介が少し強く握った。完全に人さらいの絵面である。
「そうじゃない。人の恋人をナンパした事に怒っているんだ」
「えっ?」
「しかもジロジロと、鈴緒ちゃんの水着も拝みくさって」
「おが……?」
拝まれていただろうか、拝観料を取るべきだったか、と鈴緒が混乱していると。
銀之介が腰を落とし、彼女と目線を合わせる。眼鏡のない彼の顔は、やっぱり強面度が増している。
「水着、よく似合ってる。可愛いよ」
それでも真顔で賞賛されると途方もなく嬉しいのだから、恋心とは奇妙なものである。鈴緒はつい、視線を斜め下に下げた。
水玉模様の赤い水着は、ホルターネックのビキニなので肌の露出も多い。胸元まで赤くなっているのが丸分かりだった。
「ん、ありがと……」
鈴緒はか細い声で礼を言いながら、あることを思い出した。銀之介とつないでいない方の手をそわそわと動かしながら、再び彼と目を合わせる。
「可愛いの、水着……だけ?」
彼にしか聞こえない小声で、ぽそりと尋ねる。さっきまで着ていた服もお気に入りなんだけど、という圧を言葉の裏に忍ばせた。
銀之介は鋭い目を丸くして、しばしキョトンと固まる。
「いや、君は常時可愛いだろ?」
そうして返された言葉は、鈴緒の期待したものとは少し違ったが。
「あー、うん……ありがと」
これ以上言葉を引き出そうと奮闘すれば、その前に己の羞恥心が限界を迎えて死にそうである。現に周囲の視線がちょっと生温かい。
まあいいか、と鈴緒ははにかんで彼の腕を引いた。




