10:ルルルールーのあれ
学期末テストを終え、大学は特別講義期間に入った。補講や資格取得用の特別講義に縁がない学生は、二週間早く春休みに突入する。鈴緒もその一人だ。
それでも彼女の本業は巫女なので、早起きだけは欠かせないけれど。
鈴緒は今朝もいつも通りの時間に目覚め、手早く身支度を整えた。今日はどこかへ遊びに行く予定もないので、顔を洗った後もゆるゆるな部屋着に着替える。裏起毛のパーカーワンピースは一枚でも温かいので、お気に入りの一着だ。ほどほど・それなりな見た目も、実に部屋着らしい。
メモ帳と、土地神へのお供えであるロールケーキを持って祠を訪れ、鈴緒は早速先見を始める。
祝詞を唱えると、周囲が仮想の舞台に変わった。今ではもう、親の顔より見た舞台である。今日描かれているのは、どこかのビルの入り口のようだ。ヤシの木を模したオブジェが自動ドアの両側を彩っている。ハイビスカスの飾りもあって、なんとも南国っぽい。
(最近は、ペットの脱走とかおばあちゃんの転倒とか、平和な先見ばっかりだったから。今日もそうだと――ああ、駄目かぁ……)
鈴緒の儚い願いは、舞台の袖からパトカーが現れたことで呆気なく終わった。パトカーが出動しているということは、事故ではなく事件の可能性が高いだろう。
いや、ひょっとすると木に登って降りられなくなったネコ、あるいはおばあちゃんの救出が目的かもしれないが。
などと考えていると、トロピカルなビルのドアが開いた。警察官に伴われて、うなだれた誰かが出て来る。男性だろうか。
「えっ……お兄ちゃん?」
背中を丸める男性の顔を覗き込んで、鈴緒は絶句した。鈴緒と同じ胡桃色の髪で、いかにも優男な顔面――どう見ても兄である。体型も一緒だ。
しかし兄は、何故か全裸であった。全裸のまま手錠をかけられたらしく、力なく前に掲げる腕には警察官のものらしきジャケットがかけられている。隠すべき箇所は、そこのもうちょっと下だろうに。
鈴緒はむき出しの股間にモザイクがかかった兄の悲しい横顔を、呆然と眺めていた。そしてその時に気付く。舞台上に、アニメ『名探偵コナン』の犯人の自白パートで流れる、物悲しいBGMが流れていることに。
普段の先見は無音なのだが、巫女の身内ということで土地神がサービスしてくれたのだろうか。
「土地神様って、意外とフレキシブル……」
鈴緒は意外にもツルツルだった、兄の美尻がパトカーの後部座席に押し込められるのを見守り、そう感嘆する。つまり現実逃避である。
全裸の兄が乗せられたパトカーが反対側の舞台袖へと走り去ったところで、先見は終了した。
痴漢や露出といった性犯罪は、こんな田舎でもままある。なので事件自体は、悲しいかな見慣れたものだ。
だが主演が兄だったばかりに、鈴緒史上最もシュールな先見になってしまった。BGMがあるのが、余計にいけない。ネタ感が増した。
しばらく椅子に座ったままアホ面になっていた鈴緒も、やがて我に返って祠を出た。
緑郎本人に直接「お兄ちゃん、公然わいせつで逮捕されちゃうみたいよ」と伝えるのは、さすがにためらわれた。何より彼はまだ、起きて来ていないはずである。
そこで鈴緒は、自宅に戻るとキッチンへ直行した。狙い通り、そこにはエプロン姿の銀之介だけがいた。豆皿につぼ漬けを載せていた彼は、ドアの開閉音に気付いてくるりと振り返る。そして鋭い三白眼をぱちくりと開閉させた。
「おはよう、鈴緒ちゃん。何かあったのか?」
鈴緒の変化にだけ聡い彼は、彼女の微妙な困り顔にも気付いたらしい。菜箸を置き、鈴緒の方へと歩み寄る。
鈴緒も困り顔を苦笑いに変えて、華奢な肩をすくめた。
「おはよ……うん、ちょっと、先見がね。重大事件とかじゃないんだけど、ちょっと変わってて」
「変わっている?」
訝しげな銀之介のエプロンを引っ張り、隣のダイニングに行こうと促す。彼も素直に付いてきた。
そしてテーブルに向かい合って座ると、鈴緒は先見の内容を書き留めているメモを、銀之介の方へ押し出した。
「ちょっと口では言いづらくて……とりあえず、読んでみて」
「分かった」
すっかり警察への連絡係になっている銀之介は、何も疑問に思うことなくメモを受け取る。最新のページを開き、静かに読む。
が、メモ内にある緑郎の名前に出くわしたのだろう。途中で彼の眉が跳ね上がる。
次いで一度天井を仰ぎ、テーブルの上で両手を組み、最後にうなだれて深々とため息。
銀之介はそのまま碇ゲンドウポーズになって、険しい表情を浮かべる。向かいの鈴緒をじっと見つめた。鈴緒も表情を引き締め、彼を見つめ返す。
そこから数十秒間、二人は無言だった。
先に口を開いたのは、銀之介だ。
「……実はあいつは昔、酔うと脱ぐ悪癖があったんだ」
「へぇ。知りたくなかったかも」
「だよね」
今度は二人揃って肩を落とし、それぞれため息を吐いた。
銀之介によると、泥酔して脱衣していたのは酒を飲み始めた二十歳そこそこの頃らしい。
ここ二・三年の間は、路上で爆睡することこそあれど脱ぐことは一切なくなっていたので、銀之介や他の昔馴染みも「ようやく飲酒量の加減が分かって来たのか」とホッとしていたようだ。
しかしその実態は己の限界を知ったわけではなく、たまたま偶然、数年ほど脱衣に至っていなかっただけらしい。銀之介がしかめっ面のまま、警察署へ報告を行う。事件性がある先見の情報共有は義務のため、言わないわけにはいかない。コナンのBGMまで流されたのだから。
警察署の担当者からの返答はいつも早いのだが、今朝は即レスであった。
〈なるほど。正直、いつかやると思っていました〉
なるほどと言うな、と鈴緒は言いたかったものの。彼女自身も薄っすら「クソ兄は、いつか何かやらかしそう」と思っていたので文句を言いづらい。
このクイックリーな所感の後、続けて貴重な情報も届けられた。
〈ビルの外観の情報から、犯行現場はおそらくモアトピアだと思われます。念のため写真も送ります〉
銀之介は次いで届いた写真を拡大表示し、鈴緒にスマートフォンを差し出した。
「この建物で合っているか?」
「あ、うん。ばっちり」
素っ気ない彼のスマートフォンを受け取るや否や、鈴緒は即答した。この印象的なヤシの木オブジェは、見間違いようがない。
おまけに鈴緒の事前調査により、施設内にはバーがあることも分かっている。
どうやら彼女に酒を勧められた後、彼は大変な目に遭う――いや、周囲に大変なトラウマを刻んでしまうことが、これでほぼ確実になった。




