7:井の中と 同じ狭さの 世間かな
田舎のコミュニティの狭さに、鈴緒がこくりと唾を飲む。次いで両手を胸の前で固く握りしめ、恐々と銀之介に尋ねた。
「ちなみにこの人って、銀之介さんの元カノ――」
「それはない」
食い気味での否定が入った。声は勤続四十年のおじさんの肩並みに硬く、思い切りのしかめっ面である。鈴緒に誤解されてたまるか、と全身で主張していた。
「この女は高校時代から、人一倍自分の恋人に執着する危険人物だった。あまりにも束縛が酷いため一年の秋辺りには、大半の同級生から遠巻きにされていた程だ」
「えぇっと、それっていわゆるメンヘラ……みたいな?」
「みたいなものだろう」
身も蓋もない所感に、鈴緒ならず上井も絶句する。あんぐりと口を開いている上井を、銀之介が烏龍茶を飲みながら眺める。
「そういえば、その頃から線の細い美形が好みだった気はします。ご愁傷様でした」
「マジで殺される一歩前だったから、ごシューショー様の響きが重すぎんだけど……」
そう言って背中を丸める上井を、鈴緒はヒヤリとした予感を抱きながら見つめた。
(線の細い……お兄ちゃんも、好みだったんじゃ?)
あんな美人から言い寄られれば、緑郎なら一発で落ちるだろう。
なにせあまりの扱いやすさから、複数人の元彼女より「イケメン界のクリボーまたはコラッタ」という蔑称を賜ったことがある男だ。そんなメンヘラ同級生だって余裕でゲットできるだろう。
しかしこの話題が地雷であるという予感も、薄々覚えていた。それに今日は鈴緒が感謝され、ついでに上井を励ます会である。このまま兄には一切触れずにおこう、と鈴緒は密かに頷いた。
一方、思いがけず元妻の過去を知った上井は、背中を丸めたまましばらく大人しかった。
が、突然大きく息を吸って顔を跳ね上げる。
「前からヤバかったってコトは、結婚した時点で詰んでたってコトよな! ならオレってか、結婚したのが一番悪かったってコトね! だよねギンちゃん!」
「極論を言えばそうですね。彼女の性格が高校時代のままなら、薬物でも使わないと平穏な結婚生活は送れないと思います」
「オレ、薬は太田胃散ぐらいしか飲まないから、無理ってコトじゃーん! あーっ、なんか諦めついたわ!」
意外にも胃が弱いらしい上井が、今日一番のカラリと清々しい笑顔になった。こちらも性格面で難アリなものの、外見は真っ当な美形のため目の保養にはなる。
そして目の保養は二人へと再度身を乗り出しながら、スーツの内ポケットに片方の手を伸ばした。
「そういやさ、モアトピアってもう行った? まだ?」
モアトピアは先月、ここ佐久芽市と隣接する佐桐市との市境にて開業した屋内複合型プール施設のことだ。
サーフィンも楽しめる波の立つ巨大プールに加え、レストランやアトラクション、そしてショーダンスなども堪能出来るとしてローカル番組でも何度か取り上げられている。
しかし生憎、鈴緒と銀之介はそんなテレビ番組を観ながら
「わー、楽しそうだねぇ。でも人が多いなぁ」
「落ち着いてから行こうか」
と、ブームの最先端に乗ろうとすらしていない怠惰タイプである。二人とも田舎在住のため、人混みが苦手なのだ。
「全然、行く予定すら立ててないです」
なので鈴緒も、素直に首を振った。
この回答に、上井がむしろ嬉しそうに小鼻を膨らませる。
「マジで? じゃあさ、コレもついでにもらってよ! モアトピアのワンデーチケット!」
次いで得意げにモアトピアのチケットを二枚、スーツの内ポケットから取り出した。二人へずいと差し出す。
謝礼の類には敏感な鈴緒が、銀之介が断るよりも早く両手をかざして拒もうとする。
「高かったんじゃないですか、それ? 受け取れませんよ。上井さんが、お友達と行けば――」
だが上井が、拗ねるでもなく困ったような表情を浮かべる。
「や、それが行きづらいってか、行く気なくなる理由があんのよ、ちゃんと……ほらオレの元嫁、ギンちゃんも言ってたけどメンヘラっぽいじゃん?」
「わたしは元嫁さんを知らないけど、そうらしいですね」
「そうなのよ、マジで。だってオレをぶん殴った後もいっつも『芳ちゃんのコトがちゅきちゅきだから、心を鬼にして怒ってるの。芳ちゃんのためだよう!』って言ってくるヤベー女だったからさ」
「わぁ……」
カロリーの高すぎる元嫁情報に、鈴緒が宇宙猫顔でこれだけ呟いた。
しかし「わぁ」以外に適当な返しがあるなら、教えてほしいところである。現に芳ちゃん――もとい上井 芳一も特に気にした様子もなく、いつもの調子で続けた。
「で、まあ、そんな女だったワケだからさ、今もオレの仕事場に突撃してくんのよ……仕事中に、婚姻届持って……これ、マジでヤバくね?」
現代の怪談である。
「ひぇぇっ」
鈴緒もたまらず慄き、銀之介の腕にひしっとしがみついた。
上井によると、美容室へ昼夜を問わずに元妻が突撃してくるため、営業にも大いに悪影響があったらしい。
そこでオーナーに相談し、ほとぼりが冷めるまで配置換えをしてもらうことになった。その新しい職場こそが、モアトピアだったのだという。
「ショーダンサーさんのメイクとかヘアアレンジ担当してんだよね。だからモアトピアが、もうただの職場になっちゃっててさ。休みの日に遊びに行くとかマジムリ! 従業員も顔見知りばっかだし、超気まずいワケ!」
上井はチケットを両手で恭しく差し出したまま、情けない声で訴える。
なおチケットは昨年、事件前に前売り券として購入していたらしい。そして購入直後に事件が起き、一緒に行くはずだった妻が逮捕されたことで色々とご破算になったようだ。
「だからこれもプレゼントってか、要らないけど捨てるのもったいないから貰ってほしいなーってぐらいなワケ。それでも、ダメ?」
「うぅっ……」
鈴緒は方便が下手だし、社会人経験も皆無だ。どう返すのが最善か分からず、しがみついたままの銀之介を仰ぎ見る。
銀之介も細身の眼鏡越しに、じっと彼女を見つめた。そしてふむ、と数秒考える。
「でしたら、俺がチケットを買い取りましょう。そうすれば謝礼ではなく、不用品を売ってもらったと公言出来ますし」
そして口八丁の匠である銀之介が、ちゃっかり貰う方向に舵を切った。途端、上井の顔がぱぁっと明るくなった。
「あざっす! 有効期限も今月末までだし、もう全然買い叩いてよ!」
こうして「いつか行きたいね」程度に夢見ていた、新装開店の巨大プールへのワンデーチケットが棚ぼたで入手できることになった。無論、なにわのマダムもドン引くレベルで買い叩いている。
大学では学期末テストの終了後、春休みまでの間に特別講義期間が設けられている。単位が足りなかった者の救済措置または、学芸員や図書館司書といった資格取得用の講義が開かれるのだ。
その期間中は職員の出勤日数も減るため、二月十三日にモアトピアでデートをすることになった。
初めてのデートらしいデートであり、鈴緒はウキウキで翌日のテストに臨んだ。結果として激励会は、名目以上の役目を果たしたことになる。
しかし鈴緒も銀之介も、ある不穏分子の存在をすっかり忘れていた。
そう、イケメン界のクリボーこと、彼女の兄である。




