4:ウェーイ店長、再び
ゆるやかティータイムがゆるやかに終わり、その後は黙々とレポート作成やノートのまとめに時間と労力を費やした。
ふと気が付けば日は暮れ、空は群青色から闇色に変わりつつある。鈴緒はスマートフォンの画面を見ながら、二人に声をかけた。
「遅くなっちゃったし、夕飯食べてく? お兄ちゃんにも食材、多めに買ってきてって伝えてるし」
「鈴緒ん家、何食っても美味いからありがてー」
「私も一人暮らしだから助かるー」
二人が両手を挙げて喜んだ。
この歓声に被さるようにして、階下から「ただいまー」と間延びした声と、ドアを開閉する音がした。鈴緒が先頭に立って玄関に向かうと、両手にエコバッグを持った緑郎がニコニコ笑顔で靴を脱いでいるところだった。ナイロン生地のエコバッグは、どちらもパンパンに膨れている。担当編集との打ち合わせ終わりに、買って帰る量ではない。
緑郎は鈴緒たちに気付くと、締まりのない美形ヅラを更に緩めた。
「わー。可愛い女の子が増えるといいね、家の中も華やかだねー」
そして絶妙に失礼な台詞を、いけしゃあしゃあと吐く。この顔面力だからこそ、ギリギリ許されている発言だろう。
実際、友人二人も冷めた目をして鼻で笑っていた。
兄のノンデリ発言に慣れている鈴緒は聞き流し、ミチミチに食材が詰め込まれたエコバッグの一つを受け取る。
「おかえり。いっぱい買ってきてくれ――ん? お菓子?」
てっきり夕飯のメニューであるシチューの材料が詰め込まれているのかと思いきや、中から出てくるのはほとんどがお菓子とジュースだった。その下には、更に酒もいた。
鈴緒たちは未成年で、銀之介も下戸である。独りで飲む酒量としては多めだろう。鈴緒は首を傾げた。
「お兄ちゃん、締め切りが近いって言ってなかった?」
締め切り前の進捗の確認と発破をかけがてら、わざわざ担当編集がこんなド田舎まで来てくれているのだ。酒を飲んでスナック菓子を貪っている場合ではないはずである。
しかし緑郎は鶏肉やブロッコリーの入った買い物袋を両手で抱え直し、アハハと笑う。
「それがさ、今回全然ネタがなくてさー。もう飲むしかないのよ、ね?」
つまりはヤケクソでの暴飲暴食らしい。鈴緒は灰青色の大きな目を細め、蔑むように兄を見上げた。
「ね?って、言われても。困るのは、お兄ちゃんだよ?」
「大丈夫。今日も担当さんにむっちゃ怒られて、もういっぱい困ったから! これ以上、困りようないし!」
「そういうのって、たぶん底なしだよ」
一応たしなめながらも、これまでもどうにか生き延びてきた兄のことである。まあ何とかなるのだろう、と鈴緒も楽観的に考えることにした。
緑郎からエコバッグを両方受け取り、彼に手洗いとうがいをするよう伝えてからキッチンへ向かう。
夕食は豆乳を使ったシチューとバゲット、それからスモークサーモンとクリームチーズのサラダの予定だ。
バゲットはシチューに浸す要員であるものの、味変で楽しむための卵フィリングと、茹でエビとアボカドのオーロラソース和えもおまけで用意することにした。
また二人からの
「待ってるだけじゃ暇だし、食材費分ぐらい働かせてよ」
という申し出をありがたく受け取り、牧音と倫子にはゆで卵の殻剥きや、冷凍むきえびの背わた取りを手伝ってもらうことにした。
鈴緒はシチューとサラダ作りに集中できるうえ、気が付けば調理器具も洗ってもらえているので、効率が段違いだ。
彼女が友人コンビの存在に感謝しながらジャガイモの皮を剥いていると、倫子が意外そうに言った。
「鈴緒って、料理はほんとに得意なんだ。もっと手つきが危うくて、指先削りまくってると思ってた」
包丁さばきが危ういと思われた原因は、おそらく普段の行い――何もないところで転倒したり曲がり角で壁にぶつかるような、生き方不器用っぷりにあるだろう。鈴緒自身も、体の操縦が下手だという自覚はある。
また実際に料理を始めた当初は、よく包丁を手にぶっ刺していた。倫子の予想もいい線を行っているのだ。
しかし今ではリンゴの皮を、ウサギやお花型に剥くことだって造作もない。鈴緒は大きな胸を反らして偉ぶった。
「高校の頃から料理してるお陰で、危うい時代は卒業できたの」
「なるほど。ちなみに……生まれて二十年近いはずなのに、今も動くのが下手なのはなんで?」
「ぐぅっ」
そんなのは、むしろ鈴緒本人こそ理由を知りたいところだ。思わぬ角度からの致命打に、彼女は歯噛みした。
落ち込む彼女の耳に、敷地内に入って来る車のエンジン音がかすかに届いた。今ではすっかり聞き慣れた音に、一瞬だけ手が止まる。しかし友人たちの存在をすぐに思い出し、素知らぬ顔のまま調理を再開した。
だが意識は完全に外へ向いており、車が駐車場に停まり、運転席のドアが開閉され、そして“誰か”が砂利を踏みしめて玄関へ近づいているのをつぶさに聴き取っていた。
それからまもなく、玄関ドアを開けて「ただいま」と言う低い声がする。
この頃には鈴緒の手は完全に止まっており、ソワソワとキッチンの出入り口へ視線を向けている。落ち着かない様子に、友人コンビもニヤニヤと彼女を眺めた。
鈴緒が彼女たちの生暖かい眼差しに気付くよりも先に、キッチンの白いドアがノックと共に開かれる。
「ただいま、鈴緒ちゃん。二人もいらっしゃい」
「あ、うん……おかえり、なさい」
「お邪魔してまーす」
黒いピーコートを腕にかけた銀之介と目が合い、鈴緒は頬を赤らめながらへどもどと言葉を返す。そして牧音と倫子は、なんとも満足げに笑って銀之介へ手を振った。
鈴緒は人の目がある場所では、まずデレない。代わりに思い切り恥ずかしがるのだ。銀之介もそのことは承知しているので、挙動不審な彼女の反応には一切触れなかった。
代わりに、鈴緒へ手招きをする。
「料理中にすまないが、少しだけ良いか? 相談したい事がある」
「えっ、あっ、わたし? えっと……」
まさか帰宅早々に謎のご指名を受けるとは思っておらず、鈴緒は銀之介と、手にしたままのブロッコリーと、そして友人たちへと視線をさまよわせた。
牧音は思い切り戸惑う彼女につい笑いつつ、ブロッコリーと包丁を引き取る。
「野菜切っとくぐらい、アタシらでやっとくから。ちょっと行って来なよ」
「ごめん、ありがと……」
鈴緒は勝ち気そうな眉をへにょりと下げ、手を洗ってから銀之介と共にキッチンを出た。彼が向かったのは、現在無人のリビングだった。緑郎も自室で作業中らしい。
(わざわざ二人きりで相談って、なんだろう……ひょっとして、デートのお誘い、とか?)
銀之介の広い背中をぼんやり見上げ、ふと桃色な甘ったるい予想が爆誕した。同居生活中にお付き合いを開始したため、これまでデートらしいデートに行ったことがないのだ。
二人で出かける際には緑郎に乱入されることもしばしばあり、運よく二人きりの状況を死守できても、行き先がスーパーやホームセンターといった生活臭ムンムンな場所になりがちである。成り行き任せに、生計を共にしていることの弊害だろう。
鈴緒が精一杯の澄まし顔で甘いお誘いを待っていると、ソファに座った銀之介が隣に座るよう、身振りで鈴緒を促した。鈴緒は再度頬を赤らめながらも、大人しく真横に座る。
銀之介はその間も無味無臭な真顔のまま、自身のレザーバッグに手を伸ばした。そして取り出したのは、スマートフォンだった。
銀之介は何の面白みもない、透明なカバーに入ったスマートフォンをかざして鈴緒に尋ねる。
「鈴緒ちゃん、上井さんを覚えているか?」
「え? うん、あの美容室のチャラっとした店長さん、だよね」
大きな目をパチクリさせながら、鈴緒は一つ頷いた。
以前に会食でウザ絡みをされるという、まあまあクソな部類の出会いをした上井は、嫌でも記憶に残っている。なにせその数週間後に、先見で妻に殺される姿も拝んでいたのだ。
ちなみに殺人事件は、無事に未然に防いでいる。
「実は彼から、鈴緒ちゃんに是非とも御礼がしたいと電話が入っている」
「え? どうして? 別にお礼なんて――わぁぁっ……」
鈴緒は「必要ないのに」と続けかけて、間抜けな悲鳴をこぼした。
銀之介のスマートフォンに映る着信履歴が、上井からの着信で埋め尽くされていたのだ。軽くホラーである。




