2:だからノックしろって言ってんの!
そこは「シルバー素材のピアスなら、学生の乏しい資金力でもどうにか買えるかも……」程度の価格帯にいる、鈴緒にとっては憧れのブランドなのだ。
「えっと、あ、どうして、これ……」
完全に泡を食っている鈴緒に、銀之介は広い肩を一つすくめて淡々と返す。
「実は俺も、君のお友達に訊いていた」
「うそっ、いつ?」
「事務局に二人が顔を出した時に、それとなく」
あ、と鈴緒が呟いた。そういえばいつかの講義後に二人と合流した時、妙に高そうなチョコ菓子をどちらも持っていたことがあったのだ。二人は先生から貰ったと言っていたのだが――恐らく銀之介からの賄賂だろう。
(でもこれは、気付かなかったことにしよう。うん)
直感だが、その方が「いい恋人」らしいふるまいのような気もする。
「ありがとう。中、見てもいい?」
だから鈴緒は素知らぬふりで、銀之介の了承を得てから箱を開けた。
中に鎮座しているのは、鈴緒がずっと欲しがっている腕時計だった。ベルト部分が淡水パールになっている、見た目は可愛く値段は最高に憎たらしい品だ。
まさかこっそり憧れていた商品を選んでくれているとは思わず、鈴緒の大きな瞳が悲しい訳でもないのについ潤んだ。
「銀之介さん、ありがと……これね、大学卒業したら、絶対に買おうって、ずっと決めてたの」
「そうか。勝手に目標を達成してしまい、迷惑だったか?」
「ううん、嬉しい。毎日着けるね」
長いまつげを濡らして、鈴緒はにっこりと微笑んだ。彼女の笑顔を見下ろしたまま、銀之介が右手を持ち上げる。そして目尻に残る涙を、指先でそっと拭った。
「んっ……」
鈴緒も彼の好きにさせるが、肌を撫でる彼の体温に、むず痒さと気恥ずかしさを覚える。つい媚びるような吐息がこぼれた。銀之介の手が一瞬止まる。
しかし鈴緒が彼の手に追いすがるようにして、頬ずりをしながら上目に見つめると、今度は頬から耳を撫でられる。そのまま輪郭を確かめるように、顎にも指が伝った。
彼の手にそっと押され、鈴緒の顔もわずかに持ち上がる。それに合わせて銀之介も背中を丸めて彼女との距離を縮めた。鈴緒はいつにない至近距離で、銀之介と見つめ合う。眼鏡越しの鋭い眼差しが、今はどこかとろりと甘い。
色恋未経験者の鈴緒でも、この後の流れは分かった。頬を赤らめながらも、楚々と目を伏せたところで――
「スズたまー! パパとママとZoom繋がったよー!」
銀之介の証言通り、緑郎がノックもせずにドアを全開にした。
「ギニャア!」
鈴緒は足を踏まれた猫のような、大変情けない悲鳴を上げた。叫びながら大慌てでのけぞり、銀之介から距離を取る。
しかし不幸なことに、二人が座っている長椅子は背もたれも肘掛けもないシンプルな構造だった。
そのため鈴緒の小さな体は、何の抵抗もなく真後ろへと傾いてしまう。彼女は重力に逆らう術もなく、頭から床へと落ちた。
ゴッツン、と痛そうな音が響く。
なお彼女は最後の力を振り絞り、右手でプレゼントを抱きしめ、左手でめくれ上がる――否、めくれ下がるネグリジェの裾を押さえることだけは忘れなかった。どうにかパンツの秘匿性は死守する。
しかし傍から見れば、完全に映画『犬神家の一族』のスケキヨである。白い素足が、悲しいまでになまめかしい。
「鈴緒ちゃん、大丈夫か!?」
銀之介も生足を拝むどころではなく、大慌てで床にしゃがみ込み、彼女を支え起こした。ノートパソコンを両手で掲げ持っていた緑郎も、それに続く。無人になった長椅子にノートパソコンを置き、床に座ったままの鈴緒を覗き込んだ。
「そんなビックリしなくてもいいじゃん、もーっ。ってか銀之介と二人でさ、ナニするつもりだったの? そんなエロいパジャマ着ちゃってさ、きゃーっ! やーらしー!」
ケラケラ笑いながらのこの問いに、困惑混じりだった鈴緒の顔からごっそり表情が抜け落ちる。突然の真顔に、彼女の背中を支えていた銀之介がビクリと肩を跳ねさせた。
そして緑郎も、地雷に足を置いてしまったことに遅れて気付く。
「あー……スズたま、怒ってる……?」
「――ぶ……」
「ん? ぶ?」
「ブルァァァァァッ!」
鈴緒は常ならぬ巻き舌テイストの雄叫びをあげるや否や、「え、人造人間セル?」と言いかけていた緑郎に飛び掛かる。次いで彼の能天気そうな顔面を、左手で引っ掴んだ。
そのまま鼻っ柱めがけて、ねじ込むように頭突きをかます。
鈴緒は兄が鼻を押さえ、目を白黒させている隙を突いて押し倒し、そのまま馬乗りになった。流れるようにマウントを取ると、カーディガンのポケットに大事なプレゼントをないないした後、両手での連続ビンタも始めた。
グーパンチでない辺りに、優しさの残り香を感じる。
この聖夜どころか、二十四時間・三百六十五日のどこにも相応しくないドメスティックバイオレンスぶりに、銀之介はしばし呆けて二人を見守っていた。
だが途中で我に返り、兄妹の間に割って入る。緑郎を足で強引に押して遠ざけ、鈴緒を優しく抱きしめてなだめる。兄妹格差が酷い。
「鈴緒ちゃん、この辺にしておきなさい。これ以上やると、緑郎が更に馬鹿になる」
鈴緒はしばらく荒い呼吸を続け、さながら猛獣であった。
しかし呼吸音が落ち着くと、今度は大きな目からポロポロと涙をこぼし始める。
「うぐっ……だって……おっ、お兄ちゃんがっ、変なこと、言うからぁ!」
しゃくり上げる彼女の頭を、銀之介が遠慮がちに撫でた。
「そうだな、あいつは配慮に欠ける男だ。後で俺も殴っておく」
「えー、お前のパンチとかヤダ……おれ、死ぬやつじゃん……」
両頬を腫らした緑郎の異議申し立ては、静かに無視された。
だがここで、緑郎以上に捨て置かれていた人間からの豪快な笑い声が乱入する。
〈ファーッ! やるやん、鈴緒! めっちゃええビンタやーん!〉
引き笑い混じりの軽妙な関西弁に、銀之介は片眉を持ち上げて振り返る。彼の視線の先には声の主――が映っているノートパソコンがあった。
笑い声の震源地である鈴緒と緑郎の父は、ディスプレイに大映しのまま笑っている。クリクリと大きな青い瞳は、どことなく鈴緒に似ていた。
のけぞり大笑いする彼の背後に、緑郎に雰囲気の似た女性もチラチラと映っている。こちらは二人の母だ。
〈ってかワイ、鈴緒が激怒してんの初めて見たかもしれへん!〉
金髪碧眼で口髭を蓄えた、北欧紳士が繰り出すコッテコテの関西弁に、銀之介は固まった。三白眼を全開まで見開いて、ゆっくり瞬きをしている。
ちなみに父のソース臭い関西弁に晒されて呆然とする人間は、彼が初ではない。牧音もその一人だったりする。
だがこの父の大爆笑と、クセつよ日本語により兄妹喧嘩はうやむやとなった。喧嘩と呼ぶには、一方的な暴力ではあったが。
そうしてウェブ上でこそあるものの、鈴緒の両親と銀之介の挨拶も無事に終了する。鈴緒と彼の交際もつつがなく報告し終え、そのまま年末へと突入して早一ヶ月――
なんとあれ以来、鈴緒と銀之介の関係は全く進展していなかった。どうしてこうなった。




