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改心した悪役令嬢は婚約者に愛されない。

作者:




「オリヴィア・ベルトレン。俺がお前に愛を囁く日は一生来ないだろう」



この国の麗しき王太子殿下は、私を見下ろしてそう言った。




私たちの婚約が内定した、記念すべき本日。

シリル殿下の機嫌は今までのどの日よりも最低で、冷え切った青瞳の眼差しに辺り一帯が凍りついてしまいそうだった。

仮にも婚約者になった令嬢に対するあんまりな発言と態度に、彼の後ろに控えている側近と護衛騎士の顔色は可哀想なくらいに真っ青である。


私は狼狽えることなく、ベルトレン公爵家の令嬢として相応しい美しい笑みをつくり、シリル殿下を真っ直ぐ見据えた。



「重々承知しておりますわ、シリル殿下」



殿下はピクリと形のいい眉を不機嫌そうに動かし、それ以上何も言わずにこの場を後にしてしまう。

私はしばらく殿下のその広い背中を眺めて姿を見送った。







広大で豊かな領地と王国一の軍事力、莫大な財力。長い歴史を歩んできたベルトレンは、いつのまにか王家に並びかねない地位にいた。


そんな由緒正しきベルトレン公爵家の息女―――――オリヴィア・ベルトレン。

苛烈、我儘、不遜、傲慢、強欲、短気、性悪、高飛車……ベルトレンの名を以てしても補えないほど大変評判の悪い女。

つまり私である。


その格式高い家柄をひけらかし、この世界は自分が中心に回っているとでも言いたげにふんぞり返り、偉そうに周囲を見下し、社交界ではただでさえ派手な容姿を派手に着飾り、湯水のようにお金を使って好き放題。幼い頃から悪い噂は絶えず、騒ぎあるところにオリヴィア・ベルトレンあり、などという格言さえ囁かれている。

何度も言うが、それが私である。



だからシリル殿下が私のような女を愛さない、と断言するのも、それはもう当然の流れなのだ。

私はか弱い少女のようにシリル殿下のあのような態度に傷つく資格はない。なぜならこの状況は私の完全な自業自得であるのだから!





しかし傷つく資格がなくとも、傷つきはする。



「終わった!終わったわ!私の長い片想い人生は今日まさに幕を閉じたわ……!」


私はテラスのテーブルに突っ伏し頭を抱えていた。


王立学院のテラスは通常なら人で溢れているはずの時間帯だが、今は蜘蛛の子を散らすように生徒たちははけ、遠巻きにこちらを観察している。悪女として嫌われているどころかいまや珍獣扱いだ。



「オリヴィア……お前には公爵令嬢としての矜持というものはないのか?」


こんな人前で喚き散らし泣きべそをかくなんて……と、向かいに座り呆れた声を出すのは我が国の第二王子、ヴァージル。シリル殿下の実の弟で、私の幼馴染である。


「ふん、矜持なんかで恋は成就しないし、失恋の傷も癒えないわよ!」


大失恋をした私には、自分の燃えるような赤い髪がボサボサに乱れているのを気にしている余裕もなかった。

ヴァージルが同情するように眉を下げる。可哀想な子を見るような目だ。


「だって!一生!一生よ!?一生愛さないって……つまり一生愛さないってことじゃない!」

「待て待て。兄上は一生愛さないじゃなくて、一生愛を囁かないと言ったんだろ?」

「同じことでしょう!」

「いや……えー、と、うーむ、同じことだなあ」

「ほらあ!」


幼馴染であり親友のヴァージルの下手くそな慰めのせいで余計に傷を抉られた!


ぽろぽろと涙を落とす私を見て、はあ、と目の前の男から重いため息が吐き出される。シリル殿下よりも少し濃い青の瞳が私を映し出し、面倒くさそうに頭をかいた。



「いまさら騒ぎ立てているが、オリヴィア、こうなることはとっくにわかっていただろう。そもそも王太子の婚約がこの歳になること自体異例で、その原因がお前の素行にあるのは火を見るよりも明らかだ」

「……わかっているわよ!そんなにはっきりと口にされなくてもね!」




シリル殿下との婚約は、私が物心つく前から決定事項であったらしい。

高位貴族に生まれたからには両親によって婚約者が勝手に決められることなど珍しくもない。政略結婚は貴族の義務だ。

家格の釣り合いや政治的思惑を加味して、王太子と公爵令嬢の婚約はとても自然な流れだったように思う。



2歳年上のシリル王太子殿下。この国の次期王として玉座が約束された人、尊き血を受け継いだ完璧の権化のような王子様。

そんな彼が幼い頃は私をお姫様のように扱ってくれていたのだから、幼い私が恋に落ちてしまうのも当たり前、そこに何の罪もないだろう。


透き通るような金糸の髪も、晴れ渡った空のような碧い瞳も、天賦の才にあぐらをかかず誰よりも努力家なところも、国と民を心から愛しているところも、冷徹だけど身内には甘いところも、私にだけ見せてくれるちいさな笑みも、宝物に触れるように頭を撫でてくれる手も、リヴィと愛称を呼ぶ甘やかな声も、私の我儘をひとつ残らず掬い上げ叶えてくれるところも、すべてが好きだった。



しかし私が13歳、殿下が15歳になった年、この婚約は一旦保留扱いとなったのだ。殿下本人の申し入れだったと聞いている。

そんなことは前例がなかったが、完全無欠の王太子殿下がそうすると言うのだから関係者は皆揃って首を縦に振ったらしい。

とにかくシリル殿下が王立学院を卒業するまでは、という条件付きで、私の存在は婚約者ではなく婚約者候補に格下げされてしまったのである。


悪評高き私だったが殿下との仲は良好だと思っていたので当時かなりの衝撃を受けた。

だってそれってつまり、私よりも相応しい婚約者を見つけるための期間ってことでしょう。

そんなに私との婚約が嫌だったなんて知らなかったので、驚き、悲しみ、泣き、喚き、憔悴した。当時を振り返り「あのときのオリヴィアも大変だったな……」とヴァージルが遠い目をしている。自分で言うのもなんだが彼は私の一番の被害者だ。



そしてシリル殿下のご卒業を一週間前に控えた本日が、つまりはタイムリミットだったのだ。

シリル王太子殿下とオリヴィア・ベルトレンの婚約は、ついに正式に内定してしまった。



そしてほのかな期待を抱いて朝一で挨拶にいけば、例のあの一生愛さない宣言である。



「新たな婚約者だと言って他の令嬢を紹介される悪夢は何度も見たけど、まさか一生お前を愛さないと宣言されるとはね……!」

「他の婚約者を探している様子はなかったけどなあ。結局オリヴィアになるなら、王太子の婚約者として選ばれるかもしれないと婚約者を定めないままでいた令嬢やその親は不憫だったな」

「そういうのも含めて、あの合理的な殿下らしくないわよね……。でもそれほど私との婚約が嫌でたまらなかったってことでしょう。それでもベルトレンとの繋がりは手放したくない、王太子としての苦渋の選択よ」


自分で言っていてまた傷ついてきた。もうだめ、と再度テーブルに突っ伏すと、ヴァージルがテーブルに広がった私の髪をいじって手遊びしている感覚があった。

この男、他人事だと思ってなんて呑気なの。


王太子である兄が優秀すぎるがあまり、第二王子であるヴァージルは要領の良さにステータスを全振りし、のらりくらりとした男に成長していた。そういう人間だから私の癇癪も気にならず友人として付き合えるのだろうけど。

その美しい顔立ちと王族の証である金髪碧眼はシリル殿下に似ているはずなのに、間抜けで軽薄に見えるのが不思議だ。



「わざわざそういう宣言をしたのは、お前の積年の想いを慮ったある種の優しさなのかもしれない。あるときからお前は十分頑張って改心しようとしていたけど……兄上からすれば遅かったということなのだろう」


仕方がない、兄上は完璧な人だから、と。


ヴァージルの言っていることは正しい。この男は兄であるシリル殿下のことをとても慕っているし、尊敬している。

それは励ましでもなんでもなく、私にとっては追い討ちのような言葉だったけれど、事実そうなのだろうと私は思った。



「つらい……」

「まあ、愛されなくともそばに居られるだけマシじゃないか」

「あなたって前向きね。なんてお馬鹿さん」

「なんだと?」

「でもそうね、たしかに、今日だって不機嫌なお顔もかっこよかったわ。久しぶりにあんなに近くでシリル殿下のお顔を見れたから、思わずうっとりと見惚れてしまうところだったのを必死に我慢したのよ!こちらを射抜く……いえ、射殺すような冷たい視線も素敵だった……残酷な言葉を紡ぐ声も美しかった……」

「はあ。お前の兄上への気持ちはもはや崇拝だな」

「酷いことを言われてもなお恋が冷めないことに自分でも驚きを感じているわ!」

「内面はともかく見た目なら兄上と俺はそっくりだと思うけど、それについては?」

「馬鹿ね!どこがそっくりなの!?内面の重厚感の差が外見にも差をつけているのよ!」

「おいよくわからんけど不敬だろ!」



「オリヴィアさ〜ん!ヴァージル殿下も!」


いつものようにヴァージルと言い争っていると、聞きなれた声が私たちを呼んだ。ふたりで声のするほうを見る。


ふわふわと揺れる薄ピンクの髪と藍色の瞳が印象的な少女が大きく手を振ってこちらへ走ってきていた。

他の生徒から遠巻きに見られているこの空間に、あんなに無邪気に声をかけてこれる胆力はさすがと言える。尻尾がついていないことが逆に不思議なほどの忠犬ぶりに私もヴァージルも感嘆をもらした。



「聖女様は今日もご機嫌だなあ。オリヴィアと違って」


憎たらしいことを言いながらひらひらと手を振り返すヴァージルを睨みつけながら、私はその少女、エイミー・グリフィスに初めて会った日を思い返していた。





3年前の春。ちょうど私とシリル殿下の婚約が保留となる少し前のことである。


その日はヴァージルと共に市井を歩いていた。

その頃の私は日課のように殿下のもとを訪ね殿下の都合を憚らずまとわりついていたが、その日は殿下が公務で王宮を留守にしていたため、暇を持て余した私と呑気な第二王子は王宮を抜け出し護衛を撒き、暇つぶしへと出掛けたのだ。


気まぐれで入った市井の食堂に、エイミーはいた。




私はエイミー・グリフィスに釘付けになった。

前世を思い出したからである。


もう一度言う。前世を思い出したのだ。




前世と言っても、自分がどこの誰だったかはいまいち思い出すことができない。モヤがかかったようにぼんやりとしているのは、13年間をオリヴィア・ベルトレンとして新たに生きてきたからだろうか。


ただひとつ確信できたのは、この世界が前世で読んでいた小説の舞台だということ。

平民育ちで身分の低いヒロインが聖なる力を持つ聖女として見出され、王子様と恋に落ちる、ありふれたロマンス小説だ。

ヒロインはもちろん私ではなくエイミー・グリフィス。相手はもちろんシリル王太子殿下。そして当の私は、物語を盛り上げる邪魔者の性根の曲がった悪役令嬢。



なんて真っ当な配役なの、と私は眩暈がした。




眩暈がし、気を失った。気を失う前、焦るヴァージルと驚いたエイミーの顔が近くにあった。



その後、エイミーにお世話になり介抱され意識を取り戻したが、我が国の第二王子と悪評高きベルトレンの息女がなぜここに、とエイミーの両親は顔を真っ青にして今にも倒れそうだった。

大人たちは大激怒、私もヴァージルもこっぴどく叱られ、さらにはシリル殿下にまで「ほどほどにするように」と釘を刺された。



興奮気味に前世の話をすると、ヴァージルは腹を抱えて笑った。そして一通り笑ったあと、あのとき頭でも打ったのかまだ熱があるのかと本気で心配したような顔で聞いてきた。シリル殿下に報告していないところを見ると、完全に虚言だと思われたに違いない。まったく真に受けていなかったし、きっと今ではその話すら忘れているだろう。




私は思った。とにかくこのままだとまずいわ!と。

なぜなら私は至極真っ当に、物語の悪役令嬢そのままだったからである。


気に入らないことがあれば癇癪を起こし、シリル殿下に近づく者がいれば威嚇し牽制し、見た目も派手な性悪顔、プライドが高く、愛が重く、我儘放題に無理難題を唱え……とにもかくにも悪評通りの女だった。


このまま物語の通りにヒロインとシリル殿下が恋に落ちでもすれば自分が何をしでかすか正直わからなかった。自分に対する信用は皆無だった。物語では悪行という悪行を重ねた結果、断罪されて処刑されていたが、我ながらその未来がありありと想像できた。


そんなの困る。死んだら殿下のこと一生拝めなくなるじゃない!




(……こうなったら、改心するしかないわ!)






私はその日から、シリル殿下に対して態度を改めた。


我が物顔で忙しい殿下の時間を奪い、当たり前のように隣に並びベタベタと腕を組んで、殿下に近づく令嬢を睨みつけて牽制して、欲しいものを際限なく強請って……そういうのをすべてやめた。

そうすれば接し方がまるでわからなくなって殿下を避けているみたいになってしまったけれど、殿下からすれば騒がしい女がいなくなってせいせいするような気分だったかもしれない。

それでも私は殿下のことが好きなままだった。ヒロインと恋に落ちる運命だと知っていても、だ。


白状すれば、処刑を免れたいという気持ちよりも、いい子になればヒロインよりも私を選んでくれるかもしれない、という下心のほうが大きかった。

私は欲しいものは何がなんでも手に入れたい強欲な人間だったし、私に手に入らないものなんてないと本気で信じていたのである。



そんなときに婚約の保留を告げられた。私は絶望した。


ここでいつものように泣き喚き癇癪を起こし殿下を問い詰めるのは悪役令嬢のごとき行いだろうと、殿下には何も言えず、必死に受け入れようとした。

なぜ婚約破棄じゃないのかは疑問だったが、王太子殿下には考えがあるのだろうと両親は言うので、それもそうだと納得した。


しかしまあ、改心したところで私が殿下の婚約者に相応しくないのは明らかだった。苛烈で我儘、それは根を這うように私に染みつき、簡単に変えられるものではなかった。


だから、物語の通り聖女エイミー・グリフィスでも、それとも別の令嬢でも、とにかく私よりも相応しい相手を殿下が見つけ、その方を愛して結婚する――――そういう未来を何度も何度も想像して、想像するたびにしくしく泣いて、めげて、悟って、今日まで覚悟を決めてきた。


けれどもしそうならないのならば。婚約者は私でいいと殿下が妥協してくれるのならば、私はどんな努力でもして殿下に愛してもらえる伴侶になろうと、そういう期待もしていたのだ。私は諦めの悪い女だった。なのだけど。


愛さない、と。一生愛さない、と。


だったら愛される努力なんてしてもきっと無駄だわ。お情け程度の改心だって無駄だったんだわ。

殿下が自分の言葉を覆したことなんて、いままで一度もないんだもの。





「オリヴィアさん!ご婚約おめでとうございます!」


晴れやかな笑顔に意識が引き戻される。

軽快に駆け寄ってきたエイミーが満面の笑みで私の手を取り祝福の言葉を紡いでいるのが、なんだか他人事のように感じた。



ヒロイン、エイミー・グリフィスとは、不思議なことに円満な関係を築いてしまっていた。


本来の物語通りなら、エイミーが聖女となるのは私たちが王立学院へと入学する直前のはずだった。

けれど、彼女が聖なる力を目覚めさせ聖女として見出されることを私は13歳の時点で知っていたし、エイミーが貧困を極めた実家で酷い扱いを受けていることも知っていた。

知ってしまったからには力を貸そうと思った。

エイミーには恩があったが、正直私にとって彼女は邪魔な存在だった。彼女の境遇を放っておくことも、聖女として目覚めさせないことも簡単だった。それでも、私は誇り高きベルトレンの娘で、崇高な王太子殿下の婚約者なのだから、民を助ける義務があった。


聖女は教会に保護された。突然の聖女の出現はあらゆるところで一悶着を起こしたらしいが、そして私が関わっていることがバレて「またオリヴィア・ベルトレンが面倒ごとを持ち込んだのか!」と陰でさらに恨まれたらしいが、彼女の健やかさを私は守ることができた。

この通り、人懐こく大胆で無邪気でご機嫌なわんこのような少女の完成だ。



物語では、力に目覚めた聖女は貴族の令嬢令息しかいない王立学院へと入学し、馴染みのない貴族社会のルールや学院のしきたりなどで大変苦労する。それらを教え、聖女の手助けをする役目は生徒会長で王太子であるシリル殿下の役目だった。ふたりはそうやって仲を深めるはずだった。

殿下はエイミーと接しているうちに、問題の多い自分の婚約者よりも勤勉で心優しく、聖女と祭り上げられながらも素朴で健気で可愛らしい彼女に興味を持ち、それが恋心へと変化していくのだ。


けれど私が物語を変えてしまった。私が学院へ入る前からなにかとエイミーを気に掛けたせいで、殿下とエイミーの接点は驚くほどなくなってしまったのだ。

私とエイミーがとにかく仲良くなり、そしてついでにヴァージルを含めた3人で日々仲良しこよしという意味のわからない現状だ。


殿下と聖女が仲を深めるのを邪魔してやろうという魂胆なんてなかったのに、結果的にそうなってしまっている。



(……だから新たな婚約者に聖女が選ばれず、私のまま内定したのかしら)


物語では1週間後に迫った卒業パーティーで私は断罪され、2人は私という障害を乗り越え絆を深めて結ばれていたのに。



「オリヴィアさん?どうしました?」

「エイミー。オリヴィアは傷心中だ」

「ええ!?あんなに大好きだったシリル殿下とのご婚約がついに決まったのにですか!?」


はっきりと口にしたことはないが、エイミーにも私の気持ちはバレバレだったらしい。そんな大声で言わないで、恥ずかしいから。

心配そうに顔を覗き込まれ、乱れた髪を撫で付けるようにとかれるとまた泣きそうになってくる。エイミーは私と違って心から善良だ。善良な魂。母性もある。


「……殿下はあなたのことが好きなのに、私と婚約しなきゃいけなくなって、私のことを一生愛さないって……」

「え!?なんでわたし!?わたしシリル殿下と2人きりでお話ししたこともないですよ!?これ何が起きてますかヴァージル殿下!」

「オリヴィアの得意技、話の飛躍だ」

「なにを呑気に!」


しっかりしてください!とエイミーに肩を揺さぶられていると、ふと視線を感じた。いやそれまでも珍獣のように生徒たちに観察されていたから視線は今に始まったことではないが、周囲の雰囲気もどことなくおかしいので不思議に思ってそちらに顔を向ける。


「ギャッ!」

「?どうしたオリヴィア――――ギャッ!」


私の悲鳴を聞いて同じ方向を向いたヴァージルも同じように悲鳴を上げた。



まさに噂をすればなんとやら、我が国の王太子シリル殿下が少し離れたところからこちらを見ていたのである。たまたま通りかかったのか、いつもの側近を引き連れて。

もう卒業間近だし単位も他の生徒より早く取り終わっているはずだから、学院で姿を見るのは久しい。


「いいいつからいらっしゃったのかしら、会話は聞かれていないわよね!?」

「さすがに聞こえないだろあの距離では!……いや、あの兄上なら100km離れたところの会話ですら聞こえていてもおかしくは、」

「王太子殿下は超人ですか!?」


べつに今更聞かれてまずいことは言っていないはずだが(それならこんな人通りのあるところで話さないし)、なんとなく気まずい。なんとなく焦る。

私たちの慌てようにつられたのか、エイミーもこの状況になぜか焦り始め、3人ではわはわと手を取り合った。




彼の不機嫌は継続中なようで、離れた距離なのに視線がとても怖い。思えば、こうしてヴァージルとエイミーと騒がしくしているとシリル殿下にいつも睨まれている気がする。愛のない婚約者が弟と仲良くしていることがよく考えれば不快なのかもしれない。


ああ、さきほども近くで見たけど、遠目から見る殿下もやっぱりかっこいいなー、などと思ってしまえば、例の宣言が鮮明に思い起こされてしまった。

じわりとまた涙が滲んでいくのをヴァージルとエイミーがギョッとしたように見て、殿下の視線から隠すように目の前に立ってくれた。


「おい泣くな泣くな泣くな!」

「だって〜〜!!!!」


公爵令嬢が人前で涙を見せるなんてはしたないのは私でもわかっている、でも感情が制御できないのは昔からの私の欠点だった。厳しい淑女教育を終えても直らなかったのだから手に負えない。

いくら改心しようと努めても、幼馴染のヴァージルと仲良しになってしまったエイミーの前では、私は幼い子どものように激しい喜怒哀楽に振り回されるままであった。


シリル殿下の前では、いくらショックを受けてもにこやかに微笑むこともできたし泣くのも我慢できたのに。どうしてこうも成長がないんだと自分が嫌になる。無敵だった幼い頃に戻りたかった。



ヴァージルは大焦りしながら私と殿下を行ったり来たり見て、それから「兄上がこっちに来てる!」と耳打ちしてきた。

また3人ではわはわと大慌てになる。よく考えると何も焦ることはないのだが、私たちはまさに混乱の渦中にいた。


「ど、どうしよう、どうしよう!」

「どうしようも何も、一旦その涙を引っ込めろ!」

「オリヴィアさん!落ち着いて!深呼吸!」

「いま丸腰で殿下のお顔なんて見たら絶対号泣しちゃうわ!傷心真っ只中なのよ私は!」

「あんなにもシリル殿下のお顔が大好きだったオリヴィアさんが!?」

「そんなんでこれからどうするんだお前!」

「おねがいおねがい手繋いで」

「なんで!」



ずっと大好きだった人に結婚してもなお愛さないと言われ、それでも平然と接することができるほど私には度胸がなかった。

ここ数年避けていたこともあってただでさえ接し方がわからないのに、あんな宣言までされて、殿下の目の前で見せた笑顔はほんとうに精一杯の平気なフリだったのだ。







「オリヴィア」




シリル殿下の、低くて落ち着いていて、よく通る美しい声が、その場の喧騒をすべて呑み込んでしまった。


悪評高きオリヴィア・ベルトレン、我が国の第二王子殿下、奇跡の聖女様、そして誇り高き麗しの王太子殿下―――――役者は揃ったと言わんばかりに、ざわついていた周囲はゴクリと息を飲んだ。

人々は殿下の言葉を静かに厳かに待っている。



透き通るような金の髪が日差しに当たりキラキラと反射し、宝石のように輝く青瞳はこちらを真っ直ぐ見据えていた。

私はその瞳を見るたびに、幼い頃殿下にいただいた神秘の宝石を思い出した。絵本に出てきた神秘の宝石だ。本当に存在するかもわからない、青空のように晴れやかで煌びやかなこの世の何よりも美しい宝石を、私は何も考えずに欲しがり、殿下に強請った。殿下は困った顔ひとつせず「わかった」と言って数ヶ月後、私にそれをくれたのだ。

殿下は私の欲しがるものをなんでも叶えてくれた。いちばん恋焦がれた、殿下自身をくれることはなかったけれど。




静寂の中、自分の心臓がありえないほどうるさいので、きっと殿下にも聞こえているのだろうと思って、さらに恥ずかしくなった。

殿下は私のことを好きではないのに、幼い頃から馬鹿みたいにずっとずっとあなたを大好きな自分が恥ずかしかった。


「シリル殿下……」


平然を必死に装い、どうされましたか、と訊ねる前に、殿下の眉間に皺が寄る。

殿下はいつも感情の読み取れない無表情で、それが整った顔をさらに精巧なお人形のように見せるのだけれど、あるときから……いいえ、婚約が保留になってから、私の前では不機嫌に歪むことが多かった。




「……両手に花だな?オリヴィア」



いくら平然を装っても、右腕に真っ青なヴァージルと左腕に苦笑いを浮かべたエミリーを伴っていれば格好はつかない。

ぎゅっとさらに両腕に力を込めると、シリル殿下はその整った眉をさらに不機嫌に顰めた。かっこいい。



不機嫌なオーラを出しつつも優雅な歩みで縮められた距離に戸惑う。



「お前は俺の婚約者になったんじゃなかったか?」

「へっ?あ、は、はい、ナリマシタ、!」

「だったら、他の男の腕を取るのは感心しない」



すう、と細められた瞳にぼんやりと見惚れて、言われている意味がよくわからなかった。


男?男とは、はて、どこに、とあたりを見回して、右腕のヴァージルと目が合う。たしかに男、王族、王子様だ。

頭にハテナを浮かべつつ、けれど咎められていることはわかったのでそっと腕を離す。ヴァージルは私から素早く距離を取り、酷い目にあった、というように憔悴した目でこちらを睨んだ。


これ以上叱られてはたまらないので一応左腕のエミリーも解放すると、ヴァージルとともにそそくさと後ろに下がっていった。野次馬と同化。よくわからないけど裏切られたのはわかる。



「……何もわかっていないようだから言うが」



私が何もわかっていないのがバレている。


正直シリル殿下の言葉に傷心も傷心の真っ只中の今、これ以上傷つくことを言われたら心が持ちそうにないので勘弁してほしかった。けれど愛するシリル殿下の尊い声を途中で遮ることは私にはできなかった。

こくりと頷いて言葉を待つ。



「お前の気持ちはよく知っている、なので十分な猶予もやった、お前を困らせないように配慮もしよう。しかしオリヴィア―――――お前は俺のものになった、そうだろう」



殿下の大きな手が近づき、私の顔にかかった髪を耳にかけ、そして頬を包まれた。流れるような色気のある仕草だった。身に覚えのある、宝物に触れるような優しい手だった。


何を言われているのかさっぱりだったが、断片だけを拾うこの都合のいい耳のせいで、私の顔は真っ赤に染まっていた。それはもう、この燃えるような髪と瞳のごとく。



(まって、つまり、つまりどういうこと……!?たすけてヴァージル!)



助けを求めたいのに大好きな人から目を離せない。高温になった頬をするりと撫でる殿下が、ふと目を細めた。

青空の瞳は仄暗さを覗かし煌めいている。




「返事は。リヴィ」




私の口から思わず出たのは、あまりにも幼く、あまりに甘ったるい声だった。













ーーーーーーーーーーーーーーー




執務室で書類にペンを走らせながら、執務の手伝いをしている側近に向かっておもむろに口を開く。


「最近、オリヴィアの様子がおかしい」

「あなたの婚約者は幼い頃から様子がおかしいです、シリル王太子殿下」


間髪を容れず返ってきた言葉はあまりに失礼なものだったが、優秀な側近へ視線をやると至極真面目に答えているらしかった。

ふむ、とペンを止める。


「たとえばどの辺が」

「あんなに苛烈で我儘な令嬢は他にいません。突飛な行動も多すぎます。あなたも公爵夫妻も甘やかしすぎではないかと」

「残念ながら、オリヴィアは苛烈で我儘なところがかわいい」

「素晴らしいご趣味ですね……」


側近は嫌そうに顔を歪め、わかりやすい嫌味を口にした。







―――――オリヴィア・ベルトレン。格式高いベルトレン公爵家の息女であり、王太子である俺の婚約者。


オリヴィアに初めて会ったのは、いや、オリヴィアを初めて見たのは、彼女が意味のある言葉を喋ることすらままならない赤子の頃だった。

当時2歳の俺は幼いながらにその緋色の大きな瞳から目が離せず、どうしようもなく心惹かれたのだ。世の中にこんなに綺麗でかわいいものが存在するなんて到底信じられない気持ちだった。

後々、そのかわいい子どもは自分の婚約者であると聞かされた。



両親の愛と甘やかしを一心に受けすくすくと成長したオリヴィアは、皆が口にする通り、苛烈で我儘な令嬢に育った。

一度でも欲しいと思ったものは手に入れなければ気が済まない。この世のすべては自分のものであり、この世のすべては自分の思うままになるに決まっている。それがオリヴィアの常識だ。


なるほど、と俺は思った。手に負えなくてかわいいな、と。




幸いなことに、俺は美しく聡明な、なんでも持ち得る王太子だった。オリヴィアの些末な我儘を叶えることなど造作もなかった。

オリヴィアの両親よりもベルトレン家の使用人よりもベルトレンに取り入ろうとする有象無象よりもはるかに、オリヴィアの願いを叶えられるのは俺だった。


オリヴィアの我儘は、「数ヶ月待ちの話題のカフェでスイーツが食べたい」「なかなか予約が取れない人気の観劇を見に行きたい」「有名デザイナーの一点物のドレスが着たい」から始まり、「騎士団の訓練に参加してみたい」「希少な鉱物が取れる鉱山を買いたい」「南の国に咲く幻の花を育てたい」「絵本に出てくる神秘の宝石で首飾りを作りたい」――――など、もう何かを試されているのではないかと疑うほどに意味不明なものも中にはあったが、とにかく、そのオリヴィアの無理難題を俺はすべて叶えた。




「私は大人になったらシリル殿下のお嫁さんになるのよ!」


俺の嫁になるということがどういうことか、王太子妃というものが王妃というものが国にとってどういう存在なのか、この婚約が周囲の大人たちのどういう思惑で成り立っているのか――――そういうことには考えが至らない無垢で愚かな幼い頃のオリヴィアは、いつも自慢げにそう口にしていた。

会う人会う人に言いふらすので、同年代の令嬢令息からは鼻持ちならないと反感を買っていたが、浮かれていただけだということはわかっている。


「リヴィ、それはもう何度も聞いた」

「こんなに嬉しいこと何度言っても言い足りないわ。私と結婚したあかつきにはシリル殿下は世界でいちばんの幸せ者となることでしょう!」

「ああ。でもきっとリヴィのことだから、俺の婚約者など途中で嫌になるだろう」

「まあ!そんなことありえないわ。私、欲しいと思ったものを諦めたことなんて一度もないもの!」



穏やかな春の日、木漏れ日のなかでオリヴィアが花が咲くように笑った記憶が今でも鮮明に思い出せる。



「私、殿下のキラキラ輝く金の髪も、青空みたいな瞳も大好き。だからぜったい私だけのものにするの」



強欲な彼女は意外にも、王妃という立場や国そのものを欲しがることはなく、俺という存在が欲しいらしかった。燃えるような瞳が自分そのものに向いていることが何よりも心地よかった。

オリヴィアがまっすぐに一途に欲しがるすべてが、俺はいつも羨ましかったのだ。俺のことなんて全部全部くれてやる、と俺は思った。


欲しいものを欲しいと言える健やかさをずっと守ってやりたかったし、オリヴィアの欲しがるすべてを与えられる唯一でありたかった。




王太子の婚約者として王妃教育が始まってからは、自分が欲しがっているものの重大さにやっと気付いたのだろう。


現王妃である俺の母親ですら恐れた鬼教師に毎日毎日王妃教育でこっぴどく叱られ、オリヴィアはよく弱音を吐き、ついに癇癪を起こした。


「もうやめる!やめるったらやめるのよ!」

「だから俺は何度も言っただろう。お前は途中で嫌になると」

「うーーーー」

「唸るな」



よく笑いよく泣きよく怒る、喜怒哀楽が激しい、感情の塊。それがオリヴィア・ベルトレンだ。彼女は気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こした。

俺は、なるほど、感情の起伏が少ない自分にぴったりの婚約者だ、逆に、と思っていたが、周囲はそうは考えていなかった。


いくらベルトレンの栄光を使っても、王太子の婚約者としての条件を満たしていると言っても、お互いが婚約を望んでいても、オリヴィア本人に大事な王妃教育を投げ出されてはどうしようもないだろう。

ただでさえオリヴィアの悪評やベルトレン家が権力を持ちすぎている現状、それらを鑑みてこの婚約に難色を示す貴族は年々増えていた。付け入る隙をこれ以上与えてはまずい。



しかしこうなるとは思っていた。


オリヴィアは必要のない剣の特訓に交ざってみたり、使い所のわからない知識が書き記された書物ばかり読んだり、利益にならない鉱山の開発に精を出したり、交易のできない鎖国された小国の文化に興味を持ったり、そういうことには一生懸命な変な女だったが、勉学が嫌いだった。

いやこれには語弊がある。勉学が嫌いなのではなく、人に何かを強要されることが我慢ならない、そういう女だった。




涙をいっぱいに溜めた紅い瞳を見下ろしながら、困ったなと思う。


俺としてはこの苛烈で我儘な女が、そのまますくすくと自分のやりたいことに邁進する姿を見ていたかったが、そして愚かなところもかわいいと愛でていたかったが、そうはいかない。王妃になるのなら。


その格式高い家柄を存分にひけらかすのならば、そのベルトレンの血がどれほどに尊いかを知らなければならない。そのためには歴史を遡って学び、そして他家のことも貴族の力関係も、さらには王家についても知る必要があるだろう。偉そうに周囲を見下すのならば、見上げられ傅かれるような人間にならなければならない。容姿を派手に着飾るのならばそれ相応のセンスがいるし、湯水のように金を使うのならば価値を見極める目がいるだろう。

俺を欲しいと求めるのならば、俺の立場をお前は知る必要がある。そして王太子妃、さらに王妃という立場に求められるものも、知らなければならない。そういうときが来たのだ。


俺の世界の中心にオリヴィアを置くことは簡単だ。愚かなまま飼い慣らすこともできる。

けれど本当の意味で自分を中心に世界が回っていると彼女がこれからも信じていられるために、この愛しい女に俺は賢くなってほしかった。



王妃教育から逃げ出し、いやだ、もうやめる、めんどくさい、ひどい、こわい、なんでわたしが、と喚くオリヴィアを見下ろしてそれらをこんこんと説明すると、オリヴィアは目を見開いた。普段はやかましく動く口が閉ざされ、沈黙が続いた。



「お前、俺のことはもう欲しくないのか」


燃えるような瞳はまさか!と驚愕に瞬き、それから自分の愚かさを思い知ったのか、長いまつ毛は伏せられた。

しばらくして、勢いよく首が横に振られるのを、俺は安堵と優越感をもって見つめた。


「なら努力くらいしてみろ。簡単に手に入るほど俺は安い男か」

「いいえ!シリル殿下は神秘の宝石よりも尊く輝く我が国の太陽ですわ!この世の誰も値打ちなどつけられない特別です!」

「……ああ、まあ、そうだな」


どこで学んできたのかよくわからない口説き文句を口にされて反応が遅れるが、神秘の宝石よりも尊いと言われたのは悪くなかった。あれは手に入れるのに本当に苦労した。



「でもたしかに、手に入れることが難しければ難しいほど、手に入れたときの喜びは何倍にもなるのよね!」


お前は欲しいと口にするだけで、手に入れるのが難しいことで頭を悩ましているのはいつも俺たちだろう、と思ったが、それを口にして彼女の湧き出るやる気に水を差す必要は感じなかった。そうだ、と頷いておく。


「それに、よく考えてみれば愛に試練は必要不可欠だったわ!」


調子と勢いを取り戻したオリヴィアは爛々と目を輝かせ、俺に愛を囁いた。殿下のためならどんなことだって頑張ってみせますわ、などとあのオリヴィアが言う。

かわいいので思わず頭を撫でれば、オリヴィアはまろい頬をその燃えるような赤髪と紅瞳と同じく真っ赤に染めて、困ったように眉を下げたまま大人しくなった。



王妃教育など始めてしまえばなんてことはない、なにより彼女は負けず嫌いなのだ。

その後も幾度もオリヴィアは癇癪を起こし厳しい王妃教育から逃げようとしたが、逃げるたびに俺の元へやってくるのだから欲しがっているものはわかりやすかった。俺のもとに逃げてくるのは甘えているだけだ。頭を撫でて宥めてやれば大人しく教師のもとに戻り勉強を再開した。


王妃教育が始まり数年経ち、オリヴィアはその苛烈さも我儘もそのままに、しかし幼い頃より幾分賢くなった。

俺や身内の前ではともかく、公式の場では公爵令嬢らしくそれなりに振る舞えるようになっていたので、俺も周囲も安心したのだった、が。







「……様子がおかしいとは?」


側近は聞きたくなさそうにしながらも主君の顔を立てるべく渋々そう聞いてきた。

俺は最近のオリヴィアの言動を思い返す。


「最近、執務室に突撃して来なくなっただろう」

「そういえばそうですね。どうりでここのところ静かで落ち着くなあと」

「俺の都合を考えず、構え遊べと執務の邪魔に暇がなかったのに」

「前々から思っていましたけど、私よりあなたのほうが酷いことを言いますよね、殿下」

「それはべつにどうでもよかったんだが」

「よくないですよ婚約者の教育はちゃんとしてくださいよ」


ほんとうに邪魔なときは邪魔だと言えば言うことを聞くのだ、オリヴィアは。だからそれは問題ない。


「茶会に参加して自分は王太子の婚約者だとふんぞりかえり威張ることもしないらしい」

「そんなことしないほうがいいでしょ」

「思えば、夜会で俺の腕に絡みつき、俺に近づく令嬢令息を睨みつけ威嚇することもなくなった」

「そんなことしないほうがいいでしょ」

「北の洞窟に眠る聖剣が欲しいだとか虹色の薔薇を品種改良しろだとか、いつもの無理難題な我儘も言わなくなった」

「いやそれはなに?」


昔からオリヴィアをよく思っていない側近は、そもそもなんだその公爵令嬢は、と今更なことを忌々しげに吐き捨てた。



「様子がおかしいどころか、まともになっただけじゃないですか。どんな人間でも成長はするんですね」


重々しいため息を吐き、聞いて損をしたというように執務に戻ろうするのを眺める。


こいつがオリヴィアをどう言おうがどうでもよかったが、やはり最近のオリヴィアの様子がおかしいのは事実だろう。

素行が完全に良くなったわけではないのだ。この前も護衛を撒いて市井に遊びに行き騒ぎを起こしたと聞いたし―――――


「あ、そういえば」

「なんだ」

「このまえ聖女様が現れたでしょう」


ああ、と頷く。眉唾ものだが、最近教会が保護したという少女には聖なる力があるらしい。聖女など物語のなかだけの存在だと思われていたため、その処遇や立場をどうするかを王家はまだ考えあぐねていた。



「聖女様を連れてきたのはあなたの婚約者らしいですよ。さすがはあのオリヴィア・ベルトレン、面倒ごとを引き寄せる星の元に生まれたんでしょうね……え!?殿下、顔怖っ」

「オリヴィアからは何も聞いていないが」

「……申し訳ありません。私も噂で聞いただけなので、真偽や詳細はなんとも」

「すぐに調べて報告しろ」

「御意に」


聖女どうこうには一切興味がわかなかったが、オリヴィアについて知らないことがあるということが不快だった。


日々の出来事について事細かに報告してくることもなくなったな、と俺はそこで違和感をもうひとつ見つけ、眉を顰めたのだった。





たまには俺から顔を見に行き、そのときに最近の態度の変化について問い詰めよう、と決めていたが、あいにく忙しかった。

オリヴィアよりも二つ年上の俺は一足先に王立学院へ入学していた。日中は学院に通い、それ以外の時間は公務があり、そして聖女に関する諸々の手続きや揉め事で周囲は大変騒がしく、多忙を極めていたのだ。




その日は、オリヴィアが王妃教育で王宮を訪ねてきている日だった。


オリヴィアの様子は逐一俺に報告をするように命じていたが、オリヴィアの泣き言をここしばらく直接聞いていない。笑った顔も怒った顔も喜んだ顔も、見れていない。

ここまで会う時間がとれていないのにオリヴィアが癇癪を起こしていないなんてどういうことだ、と不安に駆られた俺は、側近の小言を無視して無理やり時間を作り、オリヴィアを探して王宮を歩いていた。


そして彼女のお気に入りの王宮の片隅の薔薇園でその姿を見つけ――――――そして見てしまった。




オリヴィアと、ヴァージルの影が重なっている。



自分のいた場所からはヴァージルの背中でオリヴィアの身体は隠れて見えないが、ヴァージルが背を屈めオリヴィアの頬に手を添えているのがわかった。会話は聞こえない。

なにをしているのかは明白だった。



生まれて初めての感情が身体中に巡り、怒りで震え、視界が真っ赤に染まり、胸の奥が焼け爛れ、吐き気がした。

愚かにも感情に身を任せ、その場で実の弟を斬り伏せてしまおうとも思った。


しかし、悲鳴を上げそうになっている側近を一瞥して黙らせながら、俺はどこか冷静だった。




オリヴィアとヴァージルは仲が良い。それは周知の事実だ。幼馴染で、親友だと、2人は言って憚らなかったし、俺からしてもかわいい婚約者とかわいい弟が仲良くしているのは子猫が戯れているのを見ているような感覚だった。


2つ下の弟、ヴァージルは、両親からも周囲の大人たちからも常に俺と比べられてきた。ずっと窮屈な思いをさせていると、俺は知っていた。けれどだからどうというわけでもない。

弟には俺とは違った賢さがあった。俺を憎むでもなく、嫉妬で腐るでもなく、俺に忠誠を誓い、親しみやすく柔らかな振る舞いを身につけ、のらりくらりと要領良く生きることを選んだ。

そういう男であったので、オリヴィアとはとりわけ相性が良かった。


油断すればすぐに足元を掬われる気の抜けない日々の中で、ふたりは、お互いにだけは心を許し合っていた。



オリヴィアの態度が変わったのも、今の光景も、すべてひとつの事実を知らしめてくる。

自分がこの可能性にどうして今まで思い至らなかったのか、まったくもって不思議だった。


オリヴィアはヴァージルのことが好きなのではないか。そしてヴァージルもオリヴィアを。



仕方がないな、と思った。


手に負えない、そんなお前がかわいい――――俺がそうやって甘やかしてきたのだから。

王太子の婚約者でありながら、その弟の第二王子へと思いを寄せる、なんて愚かで滅茶苦茶なんだろう。でもそれこそがオリヴィア・ベルトレンであると、妙に納得する自分がいたのだった。


俺の喜びは、自分の欲するものをこの手におさめることではなく、オリヴィアの欲しがるものを彼女に捧げることだった。

彼女の強請るものがたとえば玉座であったなら、さすがの俺も頭を悩ませ、代替案を持って説得にあたっただろうが、しかし彼女の欲しがっているものはそんなものではないのだ。自分と同い年の、自分と対等に笑い合い喧嘩をし合える、ただの幼馴染のヴァージル。俺の弟だ。

湧き出る激情をひとつ残らず排せば、俺が自分の弟をオリヴィアにやることなんて、なんとも容易いことだった。


そこで問題になってくるのは俺とオリヴィアの婚約関係だったが、こちらも容易い。

聖女を王太子の婚約者に、と教会が馬鹿らしいことを進言してきていた。あまりにも馬鹿らしいので、何を言っているお前たちは馬鹿なのか?という旨を文書にまとめている最中だったが、それを利用しても良い。

とにもかくにも、俺とオリヴィアの婚約関係を一旦白紙に戻せればどんな方法でも良かった。


婚約者というしがらみがなくなればお互いにうまくやるだろう。ふたりの間で話がまとまってからオリヴィアとヴァージルで婚約を結び直せばいい。我儘なオリヴィアのことだからいつものように願いを叶えろと強請ってくるかもしれない、そのときはいつものようにそれに応えてやろう。



戸惑い狼狽している側近に対して今見たことは一切忘れろと脅し、何事もなかったように2人には声をかけず執務室へと踵を返す。


今後の流れを計算しながら、正直、怒りで頭がおかしくなりそうだった。そしてそんな自分に驚いていた。

そもそもあの女が今まで黙っていられたのが不思議なほどだった。なんでも叶えてやれると自惚れていたくせに、言わせなかった自分にも、言わなかったオリヴィアにも苛ついた。


けれど、オリヴィアの我儘を叶えられない自分のほうが許せないと思った。


苛烈で我儘なオリヴィア・ベルトレン。手に負えない彼女を愛した。流れる星のように一直線な、愚かなお前が眩しかった。なんでも叶えてやりたかった。お前に手に入れられないものなどないよと教えたのは俺だった。


そんな俺が、その気持ちを捨てて俺と結婚しろなどと、どうして言えるのだろう。






そして俺が手を回した結果、オリヴィアとの婚約は一旦保留となり、オリヴィアは俺の婚約者ではなく婚約者候補に繰り下げられた。

しかし王太子の婚約者がこのままずっと空席なのはまずかった。俺がさっさと次の婚約者を決めればよかったが、それも簡単な話ではない。俺が学院を卒業するまでという期限付きで、オリヴィアは自由の身になった。


あの様子なら3年もあれば十分だろう。3年、猶予はやる。けれどそれ以上は待たない。お前が誰を好きでもそれは仕方のないことだが、それでももし、3年経って、ふたりが結ばれなければ、俺はオリヴィアを自分のものにすると決めた。俺にもそれくらいの諦めの悪さはあった。



(しかし―――愛しているなどと、もう言えないな)


そんなことを言っても、オリヴィアは困るだけだろう。

もうオリヴィアは、俺のことを欲しくなくなってしまったのだから。








なので、1年経っても2年経っても3年経っても、ただの友人のように仲良く遊んでいるオリヴィアとヴァージルには、ほとほと呆れていた。怒りすら湧いた。

好きな男すら自分の手でものにできない女なのかお前は、と教官のような気分にもなった。


学院へ入学してからは聖女を含めた3人でいるところをよく目にしたが、タイムリミットは刻一刻と迫っているのに一体あいつらは何をしているんだ。呑気すぎる。どうなっている。

テストの結果で賭けをしている場合でも学食の新メニューを勝手に考案している場合でもないだろう。平和すぎる。



そうして悶々とした学院生活が終わりに向かい、ついに俺の卒業が迫っていた。決められた期限の日だ。



「オリヴィア・ベルトレン。俺がお前に愛を囁く日は一生来ないだろう」


お前が好きなのは、弟なのだから。




俺がそう言うと、オリヴィアは微笑んだ。この世の何よりも美しいと思った。そんな表情をいつのまにできるようになったんだろう。

お前は俺の前ではいつも幼く、愚かで、癇癪持ちで、苛烈で、我儘だった。それなのに。


自分の手元にまたオリヴィアが戻ってきたというのに、その日の俺は人生で一番機嫌が悪かった。





そして、もういい、と思った。





「お前の気持ちはよく知っている、なので十分な猶予もやった、お前を困らせないように配慮もしよう。しかしオリヴィア――――お前は俺のものになった、そうだろう」



この期に及んでまだヴァージルに縋るオリヴィアに腹が立ち、後悔してももう遅いのだと残酷な気持ちになった。俺のものになったのだからその立場を自覚しろ、欲しいものなど諦めろ、それなりの態度を取れ、と。


傷つくだろうと思った。傷つけてやろうと思った。かわいくて、憎かった。


しかし何が起こっているのか。



オリヴィアは、幼い頃のように顔を真っ赤に染め、燃えるような紅い瞳を潤ませた。甘ったるく、幼い声で、オリヴィアが言う。





それはたしかに、愛の囁きだった。





オリヴィア・ベルトレン(16)

公爵家の息女

クラスメイト「喋ってみると意外と可愛い人だよな」「はたから見てる分にはおもしろい」「顔が良すぎて様子のおかしさが際立ってる」


シリル殿下(18)

王太子

何においても完璧だが趣味が悪い


ヴァージル(16)

第二王子

ブラコンなので誤解を知って泣く 無実

(目に入ったまつげをとってあげていただけ)


エイミー・グリフィス(16)

聖女

暮らしも良くなり友人もできて幸せ



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仲良し三人組のやり取りが可愛らしいし、転生前からの我儘で傲慢な彼女を愛していたリルの独白がとてもいい…。
好きです。 とても好きです。 文章のリズムがとても良くてスラスラ読めました。 好きです。 王太子殿下と側近の会話が好きです。 軽口で会話しているのに、殿下のピリっとモードに合わせて側近の話し方が一瞬で…
面白かったです!! すっごい好きです。うおー、これいい!!(語彙全損か) 登場人物が全員ものすごくしっくり性に合うという素晴らしい体験をしました。文章のノリとサゲのテンポも最高です。このそこはかとな…
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