信じない者でも救われる
若い頃、酷く心が病んでいた。
腕を切ったり、薬を大量に飲んだりと、今思えばバカなことを繰り返していた。
苦しみから逃れたい一心でネットの情報を読み漁った。するとスピリチュアルのサイトへと辿り着いた。
さすがに、信じなかった。
いくら追い詰められているとはいえ、神だの何だのといった胡散臭いものを受け入れることはできなかった。
それでも、その世界に惹かれている自分がいた。
確かに現実離れしたブッ飛んだ情報ではあったが、しっくりくる部分もあった。理屈を感じられた。そこに、惹かれた。
脳科学だか心理学だか統計学だかを下地にして書かれているのでは、もしくはそういったものの暗喩として書かれているのでは、そう解釈した。
スピリチュアルの本を何冊か買った。脳科学や心理学の本を買った方が早い気もしたが、病んでる状態の自分には堅苦しく感じ、受け付けなかった。それに比べてスピリチュアルの本はファンタジー作品のようなものなので、堅苦しさなどはほとんど感じなかった。
自分なりに解読しながら、スピリチュアルの本を読み耽った。神話を読み解いているようだった。
他の人はどう解釈するのだろう、と気になった。そこで試しにネット上の知り合いにスピリチュアルの話をしてみた。すると、非現実的なことをぬかす自分に対して、相手は怒りをあらわにした。否定モードに入ってしまったため、理屈で説明しようとしても聞く耳持たずだった。
その知り合いはリアリストだった。だから胡散臭い世界を否定しなくては気が済まなかった。
ただ、自分はそれ以上のリアリストだった。胡散臭い世界の奥に本質があるのなら、それを暴かないと気が済まなかった。それこそが胡散臭さに対する真の否定であり、生きる知恵を獲得ための鍵だと思っていた。
その後もスピリチュアル関連の情報を本やネットで読み漁ったが、自分の頭では全てを理屈で解釈することはできなかった。ただ、生きるのを楽にしてくれる武器はいくつか手に入れることができた。それらは思考と体験で理解し、獲得した、心から信頼できる確かなものだった。
死にたい、が口癖だった自分の口から、次第にネガティブな言葉が消えていった。絶望感に振り回されることも少なくなった。
そして今では、そこそこ楽しく生きていけるようになった。
世の中には、スピリチュアルの上辺だけを信じ切って上手くいく人もいるのだろうが、自分にはそれができなかった。だが、それでも幸せになりたい一心で、胡散臭い情報の山から生きるための武器を発掘した。獲得に深い思考を伴っている分、その武器は自分の手によく馴染んだ。心理学の本などで簡単に手に入っていたら、きっとここまで馴染んではいなかったはずだ。
自分に合わない情報に対しては、突き放して見ないようにするのも選択の一つとして間違ってはいないが、怪しいと思いつつも、興味を持って深く覗き込むことで見つけられるものもあるのだとスピリチュアルを通して学んだ。
この姿勢はきっと、他のあらゆる情報に対しても役に立つはずだ。
〜た
〜だ
で縛りました。