記B1.街のぬし釣り
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「刻印よ、ひめに今宵の贄を導き示すがよい! くふふふふ!」
摩天楼より地上を見下ろして、神良は黒翼を拡げる。
月光によって浮かび上がる神良の影が、いくつもの影絵を生み出していく。
鼠。
狼。
鳥。
残る三つの眷属刻印を象徴する影絵の使い魔を何百体と縦横無尽に解き放つ。それぞれはほんの小さな力しか持たない希薄な存在なれど、獲物を探すにはこの上なく便利な使い魔だ。
輪転機が新聞を刷り上がるような勢いで、薄影の獣を発行する。
広大な夜景のどこかに潜む、希少な眷属継承候補者を探し当てられるかはそれでも運次第。
「さて、しばし太公望と洒落込むかのう」
神良は目を閉じて、夜風に心を委ねる。
分散する薄影の使い魔たち、そのひとつひとつがもたらす希薄で無数の感覚に専念する。
吸血の獲物は見境なしには選べない。
性別、年齢、性格、外見、健康状態、周辺状況。一度きりの獲物を得るにも好みだけでなく、無用な騒ぎにならずに済む適切な状況を選ばなくてはならない。多人数がいる場はめんどうな上、近年は防犯カメラなるものにも気をつけねばならない。
そして吸血鬼の弱点のひとつに「招待されねば無断で家に入れない」という制約がある。
この弱点は神良の場合、単なるマナーの問題ではなくて、本当に入ることができない。例外はあるが、家や建物というのは一種の結界の役割を果たし、吸血鬼以外でも魔の類を退ける力がある。
では音々の場合はどうやったかといえば、音々の祖母である元眷属の小春に紹介されて正式にオフィスビルを訪問したので結界効果も働かなかったわけだ。
一夜限りの食事にも難儀する上、さらに眷属刻印を与える相手となれば、長い付き合いを踏まえて厳選せねばならないわけで今夜のうちに見つかるかも運任せ。
さながら気分はそう、ぬし釣りだ。
月光浴も兼ねて、気長に待つこと一時間――。二時間、三時間――。
午前零時をまわろうという頃合い、寝ている人の方が多くなってきてしまった。
「はぁ、ぬし釣りも楽ではないのじゃ」
今夜は手頃な獲物で妥協しようか。いや眷属候補でないにせよ上等な獲物を狙うべきか。
こういった手間を踏まえると、好みの眷属を囲い、順繰りに四眷属の血を得られるベストな状態がいかに快適であることか。
「……この不快感、よもや闇の隣人か」
闇の隣人。
一言でいえば、吸血鬼以外の怪異のこと。
吸血鬼という伝奇の神秘が実在するのだから、神良はそれ以外の実在を否定しない。
闇の隣人は、神良がそうであるように人間との関係性は千差万別である。不快感をおぼえるような闇の隣人とは即ち、人間に対する明確な害意を示すものだ。
神良にとって人間という種族は無条件に無理して守らねばならぬものでこそないが、時には気まぐれに助けてやるだけの理由は――ある。
「余裕があるのに見殺しにするのは寝覚めが悪いしのう、どれ、食前の運動と洒落込むか」
うーんと背伸びすると音々は五十階をゆうに越える高層ビルの縁から、ふらっと身を投げた。
自由落下する。四十、三十、二十階……。
黒翼を傾けて、落下による加速を水平飛行の推力に転換する。
そしてビル街の窓ガラスを超音速の衝撃で砕いてしまわぬように幽体化、神良は己の質量を限りなくゼロにすることで無音にして音速を越える。
神良は霧になれる。それは気体になるだけでなく、幽体になれることも意味する。実態を一時的に消失させるということは幽体化していてはなにかに触れることもできないが、空気抵抗や衝撃波を気にせずに本来のスピードを発揮できるのでとても便利だ。
しかしこれだけの芸当も、現代社会の電気通信網でのやりとりを考えれば、見劣りする。
幽体飛行など使わずとも、電話ひとつで国の端から端へ音声や映像で手軽にいつでもどこでもやりとりできる時代になってしまったことを思えば、かえって神良の異能も気負う必要がない。
現着する。
実体化して見回せば、まさに今、人が襲われているではないか。
高架下の暗がり、けたたましい電車の疾走音。
「グルルルルルルルゥ……」
闇の隣人は獰猛そうに唸り、威圧する。襲われた人間は必死に逃げ惑っていたが、脚がもつれて、買い物袋の中身をアスファルトに転がしてしまった。
闇の隣人は、神良の知るような由緒ある怪異には到底見えなかった。
五つの首が不規則に生えた犬や虎のような肉食獣が、黒い炎を燃え上がらせている。ぽたぽたこぼれる唾液がアスファルトをじゅっと熱で溶かして、あらぬ方向に生えた首がそれぞれに意味不明な人語や呪詛を繰り返している。
単一の思念体というよりは無作為な意志の集合体であるがゆえの支離滅裂さ。
炎上。
聞き及んだことがある。現代社会では、情報網が発達するあまりに特定の事象に対して、迅速かつ膨大な非難が殺到する、と。その是非はさておく。問題は、もし本気で人を呪い殺そうという呪詛の中核がそこにあれば、効率的に増幅し集約されたソレは、凶悪な怪異を産むだけの条件を満たせてしまうということになる。
現代のテレビジョンを目にした時、神良はその中にある美醜を知った。人の尊さ、素晴らしさを美とすれば、哀れさ、愚かさを醜とする。正しさの名の下に、標的を定めて執拗な攻撃を繰り返す醜悪な番組も少なくはなかった。文明の利器は善悪美醜を問わず、人の意志を集約、共有、拡散させる。そういう時代なのだとまざまざ思い知らされる。
――悪意の塊といえる闇の隣人が敵ならば、神良もためらいなく戦えるというものだ。
「そこな人間よ、ひめの後ろに隠れておれ!」
「ひっ」
過ぎ去っていく電車の騒音。引きつった悲鳴、弱々しげな泣き顔、憔悴の色が浮かんだ肌艶――。
少女は弱りきっていた。
無理もない。この五つ首の獣だけでなく、散々に誹謗中傷に晒されてきたのだろう。それが彼女自身の招いたことであれ、何のいわれがないものであれ、怪物に呪い殺される理由にはならない。
「グルァアァァァァア!」
五つ首の獣は吠え狂いつつ、さらに悪意ある言葉を撒き散らす。その大半が直線的な罵詈雑言だが、まぎれて『盗作』『ゴーストライター』といった意味のある単語がこぼれ落ちる。
「こやつ、首は多いが噛みついてはこぬ。“口先だけ”という訳かのう。――言葉だけならば人を傷つけたことにならぬと戯言を抜かすでないぞ!」
「ゴルルルア!」
赤熱した唾を浴びて、白いガードレールが真っ赤になって歪んだ。ぐにゃりと歪んだ。
回避した神良は高架の天井を蹴って、二等辺三角形を描いて五つ首の獣の背骨を狙う――。
黒翼を変形させ、コルク抜きのように背中を蹴り穿つ。
「腐った葡萄酒にテイスティングは要らぬわ!」
黒の螺旋が渦巻き、高速回転、巨体を抉りぬく。一気に、断末魔の叫びごと轟音をあげて貫く。
貫通、四散。
器が砕けて、呪詛の黒いどろどろとした液状になって爆ぜるが、神良はそれを掌に集める。
さながら目に見えぬワイングラスを傾けるように濃縮された呪詛が赤黒い一杯の酒になって――。
神良は悪意の盃を、軽々と飲み干した。
「くぅー……、まずい! 最悪じゃ!」
積極的に呑みたくはないが、形を失った呪詛のかたまりを野放しにもできず、吸血鬼には浄化したりもできないので吸収して消化するのが一番てっとり早い後始末になる。
栄養にはなるがしこたま悪酔いする、しばらく気分も悪くなる。踏んだり蹴ったりだ。
しかしこの襲われていた少女の安全を考えれば、他に手もなかった。
「ひゃわ、こ、来ないで……!」
ゆらりと少女のことを振り返ってみれば、恐怖の対象はすっかり神良に移っていた。
――無理もない。
神良の“正体”が悪意の盃を飲み干した影響で、抑えきれずに、ちらほらと見え隠れしている。
「怖いのじゃな、娘よ。案ずるな、それが自然なことじゃ」
美しく可憐なる吸血鬼、神良。
その袴に隠れた脚先はナイフほどもある脚爪が伸びてしまっている。禍々しい竜の脚だ。
優雅にたゆたう竜の長き尾に、黒き翼もまた竜の特徴に他ならない。
「あ、悪魔……!?」
「否定はせぬ。ドラゴンは悪魔王の象徴だと伝え聞く。しかしひめの本分は吸血鬼じゃ」
「え、え、ドラゴン? 吸血鬼? ど、どちら……?」
「ひめはドラキュラ、竜の令嬢と呼べる吸血鬼の貴種じゃからして、どちらでもある」
吸血鬼にして吸血鬼にあらず。
竜にして竜にあらず。
「ひめのことは神良、そう、神良姫“さま”と呼んで敬うがよい。種族や身分の問題ではなく、命の恩人くらい尊敬を込めて呼ぶべきじゃろうて」
「か、かみら……さま」
あっけにとられている少女に対して、神良は少々、悪戯心を働かせる。
「助けてくれと頼んだ覚えはない、等とつまらぬことを申せば――」
恐怖が醒めやらず、路上にへたり込んだ少女の指先その寸前に向けて、竜脚をガンと踏みしめる。
鋭利な爪先が、アスファルト舗装を軽く抉った。
「ひぃぃぃぃっぃぃぃい!?」
「口直しにそなたも喰らって帰ろうぞ……! なーんてのう、かんらかんら!」
すぐに大げさに冗談だと強調するが、もう遅い。
一時の安堵にゆるんでいた気を、急にまた恐怖という刺激が襲ってしまったがために。
「ん、この匂いは……んん!?」
「ぐす、ぐす……不可抗力! 不可抗力ですからぁ……!」
神良の竜脚にまで及んだ、生暖かい湯気立つ液体。少女の羞恥心、神良の罪悪感。血でも悪意でもないその液体までは、さしもの神良もぐいと呑み干すような趣味はまだなかった。
音々の出番はちょっとおやすみ気味、ここから二人目の眷属にまつわるB章スタートです。
新ヒロインは果たしてどんな人物なのでしょう?
もし面白かったと感ずるならば、そなたの血を捧げるのじゃ!
こほん……、もとい、感想、評価、ブックマーク等お待ちしております。