記A5.ブラッドハンター:ライズ
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「飽きたのじゃ」
深夜のオフィス、社長室の椅子に座らせた音々のむっちりとしたふとももに噛み跡ひとつ。
神良は今夜一度目の吸血を終えた余韻も束の間、そうつぶやく。
微熱を帯びて、乱れた呼吸を浅く繰り返している音々は蕩けきっていて聞こえた様子がない。
「あ、はぁ……神良様ぁ……」
不満ありの神良は、快楽に煮溶けた音々の様に苛立ち、むすっとする。
「ひめは飽きた! 飽ーきーたーのーじゃー!」
「は、はい?」
ぽこすかとやんわり神良がおなかを叩くと、音々が困惑しつつ我に返る。
音々の両脚に顔を挟んだまま、神良は文句を述べる
「ひめは五日間そなた以外に血を吸えておらぬ! 不満じゃ! 大いに欲求不満じゃ!」
「そ、そんな……!」
ガーン!と擬音が目に見えそうなほどショックを受け、音々はちょっぴり泣きそうな表情を示す。
はじめはイヤイヤだったクセに、早くも吸血と寵愛の虜とは。
少々罪悪感をおぼえるが、音々のことは気に入っているが、しかし神良にも事情がある。
「もしや、晩酌にうっかりおろしにんにく醤油で馬刺しを食べてしまったことがバレて……?」
「んなこと隠しておったのか! 言っておくが、にんにくはひめの弱点にあらず。苦手なれども死にはせぬからな。ゆえに咎めはせぬが……今夜はとにかく抱かぬぞ」
「ば、馬刺しのせいで……」
ハートの砕ける音がする。
哀れに思えるが、人間の感覚でいえば、デート前に餃子なり激辛料理なりたらふく食ってくるようなものと考えれば自業自得だろう。
「よいか、問題は馬刺しにあらず! そなたの血に飽きたということじゃ!」
「ま、まだ出逢って五日なのに早すぎないかしら! かしら!」
「想像せよ! 寿司屋に赴き、そなたの大好物の寿司ネタが食えたとする! 美味いに決まっておるが、それが五日間ずっと寿司屋にしか通えず、同じ寿司ネタしか頼めぬならばどうなる!?」
「……三十秒、考えさせて」
音々は目を閉じて、真剣そうに黙考する。
神良にしてみれば人間の食事は縁遠いので的確な表現であるかいささか不安だが、それにしたって三十秒は熟慮しすぎでは。
「……そうね、贅沢な悩みで我慢はできるけれど、他のあれこれが恋しくはなる、かしら」
苦渋の決断と言わんばかりに音々は答えを示す。
わかりやすくて助かるが、寿司と刺し身にこだわり強すぎないだろうか。
「そなたのことは気に入っておる! しかし吸血は食事じゃ! 食欲じゃ! 吸血鬼の本能として同じ血を摂取しつづけることには一種のブレーキがかかる! 栄養に偏りが出る、といった感じで飢えはせずとも調子が悪くなってくるのじゃ」
「飽きる――。要点はわかりました。つまりその、ですね、他の……」
音々はもじもじと所在なげに視線をそらして、ぷいと顔を背ける。
音々にも葛藤が多いのだろう。
人間の尺度でいえば、不誠実にみえるのはやむをえない。
「これはそなたの為でもある。眷属への吸血は日に二度までが限度と申したが、連日となれば体と心の回復が追いつかぬ。吸血は余剰した心血を捧げるに留めねば、危険なのじゃ。そなたとて、夕方に貧血でふらついておったではないか」
神良の説得に、音々は意気消沈しつつ「……わかりました」と首肯する。
「そう残念がるでない、音々よ」
社長椅子に座る音々の膝上にちょこんと乗っかり、体格差のある神良は少女らしい華奢な体を惜しげなく絡ませては犬猫でも可愛がるようにわしゃわしゃ撫でてやる。
「何も愛情が尽きたわけではない。そなたは飢餓と渇望の素晴らしさを知ることじゃ。潤いを一番に感じるのは乾いている時よ」
「か、乾き……」
神良は細やかな指先をゆっくりと音々の口許に這わせ、中に挿れる。舌先にちょんと触れて、犬歯を先端から根本に掛けて何度もさすってやると、吐息はより生暖かさを増した。
「飢え乾き。体の疲れ、心の淀み。そなたの血に宿った闇がどろりと濃くなるのを待つことじゃ。空腹と満腹では同じ馳走でも天地の差がある。なあ音々よ、わかるであろう……?」
「は、はひ」
“い”を発音しようとした音々の歯先が、ぐにっと神良の指先を噛む。ほどよい痛みだ。
音々の犬歯は人の鋭さ。神良の牙とは違い、尖っていてもなだらかで愛らしい丸みを帯びている。
神良はちゅっと挨拶のような軽いキスをして離れる。
「オーディションの三次審査はまた後にする。今夜はぐっすりと家で寝るとよい」
窓辺に立って、夜風を招き入れる。
銀の髪を躍らせ、黒の翼を拡げて、神良は都会の夜闇を見やった。
「くふふ! ちゃんといい子にしておれよ、音々」
「ああ……もう。いってらっしゃいませ、神良姫様」
名残惜しそうな音々のいじらしいことよ。
天の星より地の星が輝かしい不夜城へと飛び立てば、神良の黒翼は月明かりを浴びて艶めく。
一時の戯れを求めるもよし、運命の眷属を探し当てるもよし。
孤高のグルメのはじまりだ。
「さあて――、狩りの時間じゃ!」