記F6.F-NENE AX
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テレビ局の地下駐車場に留めてある音々の愛車がスマートキーに反応してライトを明滅させる。
何百台と駐車された薄暗い地下空間で、チカチカと目が光る。
ロックを解除して運転席へ。時刻は午後六時過ぎ、ライブの開演時刻が迫っている。
「こうも長引くなんて、余裕をもってスケジュール調整しておいて助かったわ」
テレビ局と会場のドームへの移動時間は、それでも翼の出番である7時30分にはちゃんと間に合うはずだが、楽屋で声かけするような余裕はないだろう。
少々ドライに、最悪居合わせなくてもあとで配信の録画を見ればいいかと音々は割り切る。
焦らず落ち着いて、安全第一に運転しよう。そう自分に言い聞かせながら自動車を発車しようとするが、エンジンが掛からない。
電子制御のパワーボタンが、何度か押しても反応しない。
「あ、あれ、キーの電池切れ? でも今……あ、動いた」
違和感をおぼえるが、無事に発進できたのでよしとして音々は地下駐車場を後にする。
夕暮れの陽も沈み、外は薄暮に差し掛かっていた。
カーナビの指示に従い、目的地へと向かって安全運転を心がける。ドームへ急ぐために首都高速道路を使おうとした時、不意にひとりでに動いたハンドルが別の道へと強引に車線変更した。
「なに、これ」
音々の愛車は、完全自動運転車だ。最新鋭の、技術革新と法整備によりまだ高級ながら一般に販売されるAIカーだ。そのありふれた技術の産物が、突如、手動操作で動かしていたはずなのに、音々の運転を受けつけずに走行をはじめたのだ。
(なにが起きているの……!?)
走行中のAI自動車が暴走する等、どう対処すればいいかマニュアルがない。手動操作への切り替えもできず、愛車は、時速数十キロで走り続ける鉄の檻と化してしまった。
(法定速度や交通ルールは守ってる。どこかへ穏便に、私を運ぼうとしている……?)
正体不明の怪奇現象だというのに、周囲へ一切、異常を示さないということが何より異常だった。
この怪現象は、あきらかな意図がある。
心当たりを悩むうちに、音々はある警告を思い出した。
『吸血鬼もどきに気をつけろよな』
以前、ふらりとオフィスに来客として訪ねてきた光流はそう言って“対策”を施していった。
お清めの塩だとか、魔除けだとか、パソコンやスマホに妙なステッカーを張ったり。そしてけっこうお高い代金も請求してきた。
『詐欺じゃない! ま、僕の生活のために利益は出る価格設定だけどもケチケチすんなよ!』
光流曰く、アクシアという仮想世界の吸血鬼――ヴァーチャルヴァンパイアが潜んでいる。神出鬼没のアクシアが近づけないよう、侵入経路の通信機器にまじないが必要だ、というのだ。
『二十万円な!』
『……ええ』
眷属化によって音々にも霊視のような力が備わっている。音々は翼や勝利は感度は鈍いらしいが、うっすらとそれらの霊感商法商材が本物だとわかってしまう。
わかっていても、得体のしれないアレコレにポンと二十万円請求されるのは社長でもきつい。あやしい。効力ではなく相場が適正かがあやしい。光流のことを翼がたびたび「害獣」「アライグマ」と酷評するのは、ひとつに言い値でお金を請求してくるせいもある。
しかし実際、効力はあった。
この一ヶ月間アクシアなる吸血鬼っぽいものに遭遇しないで済んだ上、ついでに――。
『音々やーい、遊びにき……ぎゃうわあああ!?』
と、ふらっと社長室にやってきた神良が地雷原や罠地獄につっこんだようなダメージを受ける。
結果的に、神良の悲鳴(死んでない)で魔除けの効果を実証することになった。
しかし今、それら対策の盲点となる自動車を、心霊現象が操っている。
巧妙狡猾なアクシアの魔手は的確に罠をかわして、今まさに、音々を手中に収めつつある。
(まさか、20万円が神良の爆殺ドッキリにしかならないなんて……)
光流に文句のひとつも言いたくなるが、猟師が罠を仕掛けても賢い獲物はかいくぐるものだ。それだけアクシアは単なる害獣と同列でない怪物だということになる。
(闇の隣人――、助けを呼ぶしかなさそうね)
試してみるがスマホは操作不能、赤信号の停車時にもドアロックが外れず降車できない。
電子制御のものは何一つ無駄だ。
そう確かめて、音々は【猫の眷属刻印】を活性化させ、闇の領域の力を試すことにする。
自らの影から這い出してきた黒猫電話を膝に載せて、神良へ通話しようとする。
一瞬、迷う。
今ここで連絡すれば、神良は、デビューライブどころではなくなるはずだ。
(……合理的に判断すべきよ、高木音々)
もし、連絡せず、迷惑をかけずにトラブルを切り抜けられたとする。
無事だとしても、きっと、神良は「なぜ連絡しようとしなかったのじゃ!」と叱りつけてくる。神良の夢は、叶わずとも生きていける呪いなき夢だ。
人生において第一に優先される絶対の夢を有していた母親を思い返してしまう。あの人は、夢のためには親兄弟や伴侶、そして子供である音々を二の次にできる人だった。それもひとつの強さだ。
芸能者として真の頂点に立つ代償に、多くを省みず、最後は命まで犠牲にする。
――そういった呪いじみた夢を持たず、あきらめてもいい夢を神良は抱いている。
儚い夢だ。
大多数の人間は、ひとつの夢に人生を捧げる選択をしない。妥協する。現状に自分を最適化する。
その点において、神良という吸血鬼は、とても平凡で小市民的な夢追い人なのだ。
もし、他のより大事なものに支障をきたすのであれば、どれだけ憧れていても夢を捨て去ることができてしまう。その強さを、その弱さを、音々はよく理解していた。
神良の優先順位がわかっているからこそ、音々は、電話を掛けられずにいた。
「どうして。でんわ、すればいいのに」
カーナビの画面に、吸血鬼もどき――アクシアは映っていた。
情報通りの、神良に似て非なる童女。電脳空間上を根城にする、仮想吸血鬼。ヴァーチャルヴァンパイア。それは飾り気も自己演出もなく、普通に話しかけてきた。
この誘拐事件の実行犯だという自覚すらあるのか怪しいアクシアに戸惑いつつ、音々は問う。
「あなた、何が目的なの? 一体何者なの?」
「かんがえる」
即答せず、考える人みたいにポーズをとって黙考するアクシア。
勝利の言っていた通り、どうにも不思議だ。自動車をジャックする手法の狡猾さに比べて、あきらかに幼稚な言動にみえる。
やはり伯爵という吸血鬼の入れ知恵で、その指示に従ってアクシアが行動しているということか。
「もくてき、吸血鬼になる。わたし、アクシア。つぎ、アクシアのしつもん、こたえて」
「……電話しない理由のひとつは、貴方に監視されているからよ」
否、情報が筒抜けになるとしても連絡する価値はある。ただ今ここで本心を説明しても、その複雑な機微は到底、アクシアに理解できるとは音々には思えなかった。
「じゃあ、でんわ、アクシアがする」
そう宣言したアクシアは忽然と、助手席に実体化してスマホを手にしようとする。
「シートベルト、だいじ」
未着用の警告ランプに気づいて、アクシアは律儀にパチンとシートベルトを締める。
(交通安全を守ろうとしてる……!)
やや座席が大きいのか、軽く宙に浮いた両足をぷらぷらさせながらアクシアは見つめてくる。
神良を彷彿とさせる、吸血鬼の魅了の魔眼を、何の暗示や指向性もなく向けてくる。
「かみら、でんわ、ばんごうみつからない」
スマホに貼られたステッカーをぺりっと剥がして物理的にフリック操作したアクシアは困ったようにたずねてくるので、音々は素直に教えてあげる。
「神良は携帯電話を持ってないのよ、だから電話番号がないの」
「せいてんのへきれき」
意外だ、と言いたげに口をまんまる開けてアクシアは驚く。
「サイキョーのせきゅりてぃー、そーてーがい。それが、みつからなかった、りゆう……」
そして目を輝かせて、一言。
「かみら、天才」とアクシアは物凄い買いかぶりを披露する。
単なる時代遅れなだけなのに――。
アクシアはまた悩む仕草をすると、今度は子供がお菓子やおもちゃをねだるような眼差しで。
「ねねしゃん、おねがい。アクシア、よいこだから、てつだって」
そう訴えてくるのだが、そこに吸血鬼の魅了の魔声や美貌が明確に発揮されていた。
一瞬で、ぐらっと意識が霞むような、強制力。
神良と初めて出逢った夜もまた、こんな風に強烈な魅了に音々は心を奪われてしまった。
けれどそれは、音々の愛されたい願望をくすぐる巧みな神良の求愛や、あらかじめ祖母の小春に人となりを言い聞かされて育っていたことで、さしたる抵抗の理由がなかったこともある。
つまり、今、音々は明確な「これはダメだ」という拒絶の意志を抱いている。アクシアの強大な魅了の力を、理性でどうにか耐えることができたのだ。
「無駄よ! わたしは神良を裏切ったりしない!」
「――わかった。じゃあ、ごめんね」
少し、アクシアは申し訳なさそうな表情を、そう、苦悩のかけらをにじませた。
次の瞬間、“おねがい”の魅了は一変した。
純粋な、強制力のかたまり。心に訴えかける誘惑の類ではなくて、麻酔や睡眠薬のように意志の力の問題ではない手段によって、音々の意識が暗転する。奪われる。
精神の消えかける寸前、音々は黒猫電話を使ってしまった。
「たす……けて、かみら……さま」
もう、こうするしかない。
神良のデビューライブを自ら台無しにしてしまう無念に歯噛みし、涙を浮かべながら、音々は。
深い闇、心の檻に閉ざされていった――。
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