記A4.らぶらぶ通
○
「百叩き! おしり百叩きの刑に処す! こら日向に逃げるでない音々!!」
「ぴゃい! おゆるしください神良様!」
悪魔や蝙蝠のような黒い翼を広げて、ちっちゃな神良が襲いかかってくる。
安全地帯となる日向に走って避難した音々はゼェゼェと肩で息をする。
小さくても怒り心頭のご主人さまに睨まれて、音々はたじたじ。
「日当たりよすぎるわ、なんじゃこの縦長ーーーーーい建物は! 住心地最悪じゃ!」
「借り物のオフィスビルですからね、本社屋はまだ建替え工事中で……」
「ぐぬぬ! どこか暗室に案内せい、落ち着いて説教もできぬわ」
「わかりましたから、おしおきは勘弁してくださいね」
「ふんっ、ひめのタライほど広い寛大な心に感謝することじゃな」
「……タライは広いのですか?」
「うむ、タライ一杯分の血で許してやろうという心意気よ」
「致死量では!?」
百叩きをあきらめたちま神良を懐に匿い、音々は自社オフィスを不審者ムーヴで後にする。
夜まで寝る、という選択肢はない。
『ごほうび』
としておあずけにしていた血を捧げる約束を果たせなくては神良は機嫌を直しそうにない。
――これから吸血される為の場所を、自分で選ばないといけないわけで。
ドキドキとした期待感はあるが、音々だって社会生活との折り合いをつけないといけない。
社会生活の維持。
吸血鬼の眷属としての音々はプライベートな夜の時間を、芸能事務所の社長としての音々は昼の時間を、あいまいな境界線上を渡り歩かないといかない。
睡眠時間は確保できている。昨夜のプライベートオーディションは仮眠を繰り返していたし、眷属刻印のおかげか睡眠時間が少し足りないくらいは補強された基礎体力で補える範囲だ。
仕事のスケジュールにも穴は空けるつもりはない。結果として神良のことは二の次三の次になるが、そこは当人もわがままをいわないので仕事上の変化は少ない。
――プライベートの優先順位がつい低くなる。
オフィスから近くて人目を気にせず吸血できる暗所――検索、検討。スマホを触る。
エレベーターがゆっくりと動き出して、高層階から地上一階へと降りていく。
エレベーターの降下する浮遊感が、スマホに触れる指遣いが、過去のワンシーンへ心を誘う。
「音々さ、あたしのこと……もっと重荷そうにしてくれたってよかったんだよ」
二番目の彼女。
仕事の合間を縫い、職場に迎えにきてくれた彼女とこっそりデートに繰り出そうという時、よくこうしてエレベーターの中で行き先を検索することがあった。
仕事と恋愛の両立は音々には無理難題ではない。公私のリズムを守り、潤いある生活をつづける。
持続可能化恋愛社会。
「心配してくれてるの? 重荷なんて全然そんなこと考えてないわよ、ちゃんとやれてる」
「……あたしはスケジュール帳の中にはいないよ、音々」
「え……?」
目前にいる彼女の目を見ず、手を握ることもなく、スマホの画面を見つめている自分に気づく。
音々は彼女より、行動予定表の方に夢中になっている。自分を正しく管理することができている。相手のことを大切だとは思っていても、恋愛という課せられたタスクをこなすような感覚がどこかにあった。仕事と同じく、恋愛をうまくタスク消化できる自分が気に入っていた。
そういう性分を、見透かされてしまった。
「あたしはパズルの問題集代わりでもよかったけど、それならそれでさ」
素敵な彼女だった。
音々はそう記憶している。
「間違わせてみたかったなぁ、音々のこと」
失恋はスケジュールを狂わせることはなかった。
きっと、いずれそうなると“織り込み済み”だったのだろう。
ブックマークされた一覧から近所のラブホテルを再確認する。よく使った場所だ。
エレベーターはまだ地上に辿り着かない。
階数表示とスマホを往復する視界、静寂に支配された鉄の揺り籠が降りていく。
「……ここでよい」
掌に乗るほど小さな神良が、スマホの上に佇んで、上目遣いに音々を見つめる。
「そなたの心血を捧げよ。憂いの面をそう見せられると我慢ならぬのじゃ」
親指を、あんぐりと大きく口を開いて、ちっちゃな神良は牙を立てた。
ちくりと針の痛みが走る。
「んっ」
ちょっぴり痛くて、次第に血が吸われていく快感が微弱に襲ってくる。
心の熱、毒、淀み。善悪の区別もなく、心の欠片を奪われている。
語弊を恐れずに表現すれば、吸血の快感は、排泄の快感に通じる点がある。汗を流す、息を吐く、用を足す。生物は代謝機能を働かせることに快感をおぼえる。呼吸ができねば死ぬのだから代謝ができないことには不快感をおぼえる。そういう仕組になっている。
血液も、感情も、生きる上では必要不可欠なれど過剰に溢れてしまっても困るものだ。
吸血の快感というのは、人が求める排泄欲求――自分の中の要らないものを外へ出してしまいたいという願望を、どこか利用しているのかもしれない。科学的根拠はない。が、献血や採血という医療行為は世に受け入れられているのだから根源的に人間と吸血は矛盾していないのだろう。
刺激のちいさな、ちまっこい神良に血を捧げる間、音々はそんなことを考える余裕があった。
「私の血を、こんなに美味しそうに召し上がってくれて……」
心と体がすっと軽くなる。
失い、奪われる。
獲得ではない。喪失の快楽。危うくて、妖しくて、昂ぶるのに、どこか落ち着く。
光の失われた夜の暗闇の中でこそ、人は安心して眠ることができる。
神良という吸血鬼の漠然とした音々の分析はやがて中断された。
「さぁ、本番といこうかのう」
手を離れて、床を滑るスマホ。
本来の大きさに戻った神良によって、音々は手首を掴まれて、壁面に追いやられる。
少々強引に迫られて、神良のキスに口を塞がれると、もう音々には理屈っぽいことを考えるだけの思考力はどこにも残されず、愛撫を求める従順な飼い猫と化すしかなかった。
背丈の差で、うんと下から求められるキスに応えるために、音々は無意識に屈んでしまっていた。
「音々よ、そなたオーディションの二次審査は面接だと申しておったな」
「はぁ、あ……今は、そんなこと何の関係も……」
早く。
焦らさないでほしい。
ここはオフィスビルのエレベーターの中、誰が不意に扉を開くとも知れぬ、朝早く。
ここまで待たせたのは音々自身なのに、今はもう、音々の方こそ我慢ができそうになかった。
「二次審査の面接では特技を披露するのであろう? ならば、今ここで面接をはじめるのじゃ」
「そ、そういうものでは……!」
「ひめの特技は『吸血』に他ならぬ。そなた、興味津々であろう?」
「ぐっ……!」
血の滾りが止まらない。
これから奪われるための血液を、心臓が喜んで全身へくまなく巡らせる。
音々は理知的思考、信条を捨てたわけではない。今まさに理解させられている。神良には抗いがたい魅力があるという主観的事実を。
「そなたは一夜よく付き合ってくれた。筆記の指導には感謝しておる。音々の血という『ごほうび』はありがたく頂いたが、やはり、ひめは『ごほうび』を与える側でありたいのでな」
吸血という行為は同じ。
貰う。与えられる。言葉遊びにすぎないというのに――。
エレベーターが一階に到着、ゆっくりと扉が開かれる中、音々は懇願を口にするという“間違い”を犯すことをいとわなかった。
「私に『ごほうび』をください、神良様――!」
大事なものを失った気がする。
恐ろしいものを与えられた気がする。
神良の牙が、音々の内腿を穿つ――。
「くゃんっ――!」
エレベーターの扉がまたゆるやかに閉じられていく。
人影。
扉が閉じる寸前、視界の端に人影が見えた気がしたけれど――。今は関係ないことだ。
熱愛はスケジュールを狂わせることになるやもしれない。
それでも構わぬほどに、音々は神良に夢中になってしまった。
第四話までお読みいただきありがとうございました。
以降は不定期掲載、2ヶ月前後での完結を目指して書き進めたいと思います。
応援よろしくお願いします。
もし面白かったと感ずるならば、そなたの血を捧げるのじゃ!
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