記A1.悪魔嬢ドラキュライブ
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生後二百年が過ぎようという頃、神良は初めてブラウン管テレビを目にした。
真っ暗闇の中、黒塗りの棺から這い出しもせず、明滅する情報媒体を見つめた。
――つまらなかった。
白黒の、堅苦しい口調のアナウンサーが読み上げる世間の関心事にはすぐに飽きてしまった。
精細に欠くのはモノクロだから仕方ない。
白黒の映像でも当時の人間が満足できたのは、着彩された光景を心に描くことができる経験と想像力が備わっていたからだろう。神良にはそれがなかった。
白黒のリンゴを眺めて、赤い林檎に唇を寄せるさまを艶やかに空想することができない。
神良の唇は、牙は、生き血を啜るためにある。
林檎の赤を数える程度に目にしたことがあっても、血の赤を思い起こしてしまう。
白黒のリンゴ。
血染めの林檎。
それが神良の古き世界だった。
――現代。
長き休眠期を経て、数十年ぶりに目覚めた神良の寝室には薄っぺらいテレビが置かれていた。
不可思議なことに、このテレビにはアンテナがない。ダイヤルもない。
「……これは何なのじゃ?」
神良はぺたぺたと手で触れてもダイヤルの突起を見つけられず、真っ暗闇に閉ざされた寝室に穏やかな月明かりを招き入れようとカーテンを開く。
吸血鬼とて、闇を好むといっても、わずかにでも光がなくては視覚は役目を果たさない。
陽光に身を焼かれる宿命を背負いつつ、その反射である月光に安らぐ。なんと因果なことか。
神良はテレビの側面にある小さな電源ボタンを見つけ、押してみる。
どうせつまらない。
しかし数十年の時を埋めるには、まず世間の雑然とした情報が欲しい。休眠期には必ず、次の目覚めの準備にこうした情報媒体を用意させてきた。ずっと昔は瓦版、前々回は新聞、前回はテレビ。今回はまたテレビなので神良は少々落胆していた。
映像が映る――。
高精細な、色のついた映像であった。音も鮮明である。
経験や想像力に頼るまでもなく、ありありと、いや、現実以上に克明な映像が映し出される。
はじめて活動写真を目にした時の興奮に匹敵する、驚くべきことだった。
しかし神良を襲った最大の衝撃は、技術の進歩ではなかった。
「……まばゆいのう」
二百七十年の時を経て、神良が出逢った極彩色の“憧れ”は――。
アイドル、そう呼ばれていた。
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「のう社長、いや音々《ねね》よ。ひめをアイドルとしてデビューさせてはくれまいか?」
真夜中のオフィスビルに一棟、薄明かりが灯っている。
几帳面さの伺える書棚の整った社長室に似つかわしくない乱れた背広、そして吐息。ソファーの上に組み敷かれた女社長――音々の肌蹴た胸元に、神良は細く白い指先を這わされてやる。
撫ぜられて示す、音々の「くぅん」という子犬めいた従順な反応に、神良は己の“魅了”は十全であることを再確認する。
親子とは言うまいが、外見基準にして十歳以上は離れてみえる大人の音々。神良は小さな体躯でやんわりと押さえつけているが、音々はその気にさえなれば力任せに振りほどくことができるだろう。魅了の魔眼に心奪われてしまっては、大人の腕力も才女の知力も神良の刃向かう術たりえない。
恍惚とした眼差し。
音々の瞳に映る自分自身の鏡像を、神良はじっくりと堪能する。鏡に映らぬ吸血鬼が己の姿を確かめるには、こうした不便な迂回手段が欠かせない。
十代前半の、子供と大人の境目にある妖艶さと幼さの同居した姿を、どっちつかずながらも神良は気に入っている。どちらでもなく、どちらでもある。
吸血鬼然とした黒の、和洋折衷の大正浪漫もかくやという袴着は前々回の頃に袖通していたものを“眷属”に仕立て直してもらった。とびっきりの一張羅だけあって神良をより愛らしく飾っている。
「音々、聴こえておらぬのか。ひめの願い、聞こえぬとは言わせぬぞ?」
白磁器のような掌をゆるみきったボトムスの下に滑り込ませ、豊かな太ももに這わせてやる。
フォーマルな通勤服の女を脱がせてイジメる少女という構図は、なかなか屈辱的と神良はみる。
「んっ、あ、や……っ! やめ、なさい……」
「ひめの指先にこれだけ弄ばれておいて、今更なにを拒む。先ほどまではあれほどひめの愛撫をねだっていたというのに、ことアイドルの一件には“魅了”が通じぬだけの信念があるのかのう?」
右の内腿、吸血の噛み跡をなぞる。
電流が走ったように音々は身を震わせた。
「はうっ、あ……か、神良姫様……!」
「音々、そなたの祖母はかつて若かりし頃に我が眷属として求愛を受け、今また目覚めたひめの忠実な下僕として尽くしている。しかし眷属は老化が遅くなるといっても、限度はある。あやつの任を解くためにも、ひめに仕える【猫の眷属】としての使命はそなたが受け継ぐのじゃ」
「んくっ、勝手なことを……いわ、ないで……っ!」
左の内腿、まだ噛み跡のない方をなぞってやる。神良は吸血の際、太腿を好む。太い血管があり、首筋より噛み跡を見られづらいという合理性と、単に太くて美味しそうだからだ。
すると物理的な刺激はより小さいはずなのに、あからさまに音々の鼓動が早くなった。
「あっ……」
「“期待しとる”のじゃろう、浅ましくも愛いやつめ」
音々の心が、人の尊厳が甘く蕩けて、ぐずぐずに煮溶けていく。
幾度、柔肌を重ねても、神良はこの瞬間がたまらなく大好きでしょうがなかった。愛欲、快楽、支配欲。吸血鬼としての愉悦、醍醐味がここにある。
神良は人の血を啜ること、その味わいよりも深く、人の心を啜ることに甘美さを見出していた。
「……従います。わたしは神良姫様に……お仕え致します」
苦渋の決断を下すように声を震わせているが、しかし音々は吸血の快楽に負けたのである。
だが音々は負けて失うものが少ないと知っているはずだ。彼女の祖母がそうであったように、眷属の刻印を与えられても人生が決定的に狂ってしまう訳ではない。
これまで音々が健やかな日向の道を歩いてこれたことが何よりの証拠である。
「うんと痛いぞ、ゆえに喜ぶがよい」
片脚を肩に担いで、音々のふっくらとして少々汗ばんだ内腿に神良は牙を立ててやる。
言葉にならない声を押し殺して吸血に耐える音々の、なんと健気で可愛いことか。
吸血は物質としての血を啜るだけでない。心の力を奪うのだ。その埋め合わせに、快楽を与える。吸血は少量ならば一時的に疲労感を伴うが、節度を守れば害はない。酒の酩酊や性の官能に近しくも異なり、一度味わえば恋しくなるだけの魔性がある。
しかし吸血は多量になれば危険だ。失血死の恐れだけでなく心の器を壊すことになりかねない。一日に二度三度の吸血に耐えうるのは若くて素質のある者だけ、音々がまさにそうである。
音々の喘ぎ、悶える声や仕草の艶やかさに、神良は興がそそられすぎて“あやまち”を犯さぬよう欲望と理性をせめぎ合わせながらも事を終える。
左の内腿に噛み跡を中心として、常人には目にすることのできない秘密の刻印が施される。
【猫の眷属刻印】
吸血鬼の眷属として数えられる【猫】【狼】【鳥】【鼠】この四つを神良は通常、従える。
音々に与えた【猫】を除く三眷属はなるべく早いうちに継承者を探さねばなるまい。
「気分はどうじゃ、音々よ。ひめの愛しき飼い猫よ」
「はぁはぁ……ダメです、私……ん、んにゃ」
眷属刻印が薄っすらと光り、身悶える音々の臀部から猫の尻尾を、頭頂部に猫の尻尾を一時的に生やす。猫の使い魔としての姿形や能力を、当人の望んだ必要範囲で付与するのが眷属刻印の利点のひとつ。不要なときは元通りになるし、吸血鬼より便利なくらいだ。
「な、にゃ、にゃ! こ、これは……なんてことをしてくれるんですか三十路の女に!」
音々は三十数歳、先代【猫】の祖母がひ孫の顔が早くみたいとぼやく年頃だ。
コンパクトミラーを開いては「ね、ネコミミOL……!」と嘆く音々の首筋に、神良はするりと腕をまわして耳元でささやく。
「かわいいではないか。そなたによく似合っておる」
「か、神良姫様、こんなの私……」
「さぁ、愛猫はたんと可愛がってやらねばのう。吸血の快楽を施せるのは日に限りがある。それだけではそなたの昂りは収まるまいて」
トントンとボトムスに半分収まった猫尻を神良が叩いてやれば、音々は猫撫で声を漏らした。
かぁ、と大人としての限界まで追い詰められた羞恥心と隠しきれない被虐心が音々の顔にありありと現れている。何ともはや、正直なおなごであることか。
「ひめに身も心もゆだねよ。高貴なる者の薫陶を受け、寵愛を知るのじゃ」
「ああ、もう、血は争えないのね……」
「そなた、女は初めてか?」
神良に背後から押し倒された音々は、尻尾をそわそわさせながら顔をソファーに伏せて答える。
「……二人」
「くふふふふ、猫を被りおってからに!」
神良は丁寧に、時には手荒に音々と戯れて夜を明かす――。
何十年ぶりの愛の交わりの仔細については絶筆する。
――夢中になるうちに疲れて寝てしまった神良は小鳥のさえずりに黎明を知る。
いわゆる朝チュンである。
神良は朝が嫌いだ。いつまでもまどろんでいたい。
「まさか自分の会社のオフィスで、こんな小さな吸血鬼のお姫様と夜を明かすだなんて」
薄暗い社長室。缶コーヒーを片手に窓辺に立って、ボタンを二箇所も閉じ忘れたワイシャツ姿の音々はなにやらひとり、感傷に浸っている。
「いつかこうなる運命だったとは覚悟してたけど、でも、アイドルだなんてなぜまた……」
音々はこれから起きる数奇な出来事への予感を思い描いて。
そしてアイドルデビューという明日の訪れを予期させるように、カーテンを開いた。
いずれは銀幕のスターになろうという神良の夢を汲むように。
「ぬわぁあああああああああああああーーーーーーー!?」
そして神良は灰になった――。
朝チュン、それは吸血鬼にとって即死トラップである。
第一話、お読みいただきありがとうございました。
第四話までは同日更新予定です。
もし面白かったと感ずるならば、そなたの血を捧げるのじゃ!
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