第9話 『待て、早まるんじゃねぇっ!』
「この者たちは……」
妖どもにやられたのか——。ジュウベエが問いかけてやめたのは、妖に対する怒りや、亡くなった者たちへの悲しみのためばかりではない。
この人を食ったような飄々とした坊主にも、触れられたくはない事もあるだろうと慮ってのことだった。
あらかた酒を撒き終え、ふたりは剣の墓標に向かって、死者の魂の安息を願い、手を合わせる。
「この者たちは、皆、戦の犠牲者じゃ」
坊主の思いがけない言葉に、彼の横顔をじっと見つめるしかできないジュウベエ。
「この辺りには、昔砦が築かれておっての。ワシも皆も、そこに詰めとったんじゃ」
ぽつりぽつりと、坊主は言葉を紡ぐ。
「ここから北の方には、ワシの同胞たちが多く住んどる。他の民の都もあるしのう。敵をここで食い止めようと必死だったわい」
話を聞いたジュウベエの頭の中を様々なものが駆け巡る。
彼もまた戦っていたのか。ならばあの腕も納得できる。だがここ最近は戦など起きてはおらぬ。先の大戦の頃より、この場に留まって、同胞を弔い続けてきたとでもいうのだろうか。
「其方は戦士だったのか」
いいや——。ジュウベエの問いを否定し、それきり黙り込んでいた坊主だったが、不意に山向こうを指差してた。
「見てみい。今ワシらが狩っとる妖どもはあそこから、やって来るんじゃ」
ジュウベエが、はっと坊主の指差す方を見ると、向かいにある、この山とは双子のような佇まいの山の頂から黒い煙のようなものが立ち昇っている。
「瘴気っちゅうもんはな、妖ばかりでなく人もまた発しとる。煙のように見えるあれは、まさしく瘴気の固まりじゃよ」
坊主が言うには、あの山全体に陣を描き、周辺の瘴気を集めているらしい。風向きのせいか、都から流れ着く瘴気は特に多い。
都そのものは強い力で守られているので、人が心ならずも発してしまった瘴気が、そこ辺りに淀むようなことはないという。
「だからあれは、煙のように空に霧散しとるんじゃなく、逆に吸い込んどるんじゃよ」
それでじゃな——。坊主は続ける。集められた瘴気を浄化しながら、何年かに一度、それを世に戻しているのだと言った。
「それがあのヌエどもだというのか。あの山で浄化しきるなり、伐ってしまうなり、何故しないのだ」
普通であれば、あれ程の量の瘴気をきれいに浄化してしまうのも、また瘴気が自然と妖と化してしまうのも何年もの長い年月が必要だという。
あの山の術士たちには、山の力を借りたとしても力の限界がある。それならば、浄化された弱い瘴気を弱い妖と化して討伐してしまった方が話が早いらしい。
「そうやって、生み出された妖は、妖ともつかぬ弱い奴らじゃ。ワシでも簡単に倒せる」
だからまあ、作業の分担というやつじゃよ——。坊主は髭を撫でながら、にやりと笑った。
「それに向こうの山はワシの縄張りではないからのう。そうそう口出しもできんのじゃ」
○ ● ○ ● ○
「待て、早まるんじゃねぇっ!」
潮の引いた、ハンゾウたちの立つ岩礁の上。今や完全に潮は引き、大岩まで一筋の道のように地続きになっている。
大岩の洞穴も完全に水面から顔を出し、冒険者たちを飲み込もうとするかのように、不気味な黒い口を開けていた。
討伐隊の冒険者のうち血気にはやる何人かが、我こそが先陣を切ろうと洞穴に向かって駆け出していく。
しかしそれは一瞬だった。ハンゾウの制止も虚しく、洞穴近くまで駆け寄った冒険者たちを妖が襲った。
洞穴から飛び出したそれは、大蛇のように岩の上をのたうち、鋭い牙の並んだ顎門を大きく広げ、冒険者たちを一瞬のうちに一吞みにしてしまったのだ。
一度に数人の冒険者たちを喰い荒らした妖は、即座にするすると洞穴に戻ると、暗闇の中から次の獲物を狙うように、その目を妖しく光らせている。
仲間の惨状を目の当たりにし、洞穴に向かいかけていた冒険者たちは、慌てて戻ろうとするものの、滑りやすく、ごつごつとした岩の上での動きは思うに任せない。
岩礁の上で踠く仲間の一人を狙い、妖がずるりと洞穴から這い出てきた。太く長い胴体を気味の悪い粘液に光らせ、うねうねと冒険者に近づいていく。
そしてその大きな顎門を広げ、鋭い牙が露になった瞬間、パンッという何かが弾けるような音と共に白い光の矢が、妖の口中に吸い込まれていった。
途端に苦しそうに、その巨躯を大きくうねらせながら、洞窟にずるずると戻っていく妖。
「今のうちに、あいつらを助け出すんだっ。急げっ!」
何が起きたのか判らないまま、ハンゾウの指示に、弾かれたように仲間の救出に向かう冒険者たち。
生き残った冒険者たちが、こちらに戻ってくるのを見ながら、ハンゾウはひとり呟く。
「あれは、ウミヘビなんかじゃねぇな。ウツボってヤツの化け物だ」
○ ● ○ ● ○
「ふむ、そういうものか」
先ほどの坊主の話に、妙に納得するジュウベエだったが、あのヌエが己にとって、弱いかと問われると些か自信がない。
あのヌエどもが町中に大挙して現れたら、かなり危険な事態になるだろうという事は想像に難くはない。
要するに自分の力が足らぬ、ということか——。向かいの山を睨み、考え込むジュウベエであった。
「まあまあ、そう気に病むでない。あいつとて最初から強かった訳ではない」
そんなジュウベエを慰めるように、坊主が声を掛ける。
「先ほどから、気になっていたのだが、あいつ、というのは、わたしの師のことか」
「おお、そうじゃとも。あいつとは長い付き合いじゃ。この勝負も以前はあいつが来とったもんよ」
ジュウベエは、自分の師匠が、こんな辺鄙な山奥に定期的に妖退治に通っていたことに驚きを禁じ得ない。
彼の師匠は、各所からの妖討伐の依頼に際しては、いつの頃からか自らは出ず、彼を筆頭とした一門の者に任せていたからだ。
あの程度の妖だったらお前らで充分だ——。そう言っては彼らを送り出す、師の呑気そうな顔が思い出され、少々腹が立つ。
「勝負、というよりあいつが一人でやっちまうんでな、ワシはたまに来る友人をもてなしていただけじゃったが」
坊主曰く、ちまちまやるのは性に合わんちゅうて、日に何百匹かづつ送り込ませて、二日三日で全部斬っていきおる。とのことだった。
ジュウベエには、何百匹もの妖の屍の上に仁王立ちとなり、高笑いをする師の姿が目に浮かぶようだった。
お役目で登城する時と、指導で道場にいる時以外は、不真面目で、不謹慎で、不心得な彼の師は、しかし剣の腕だけは本物だ。
師宣わく。人は皆、息をして生きておる。吸って吐いて吸って吐いて……とな。人だけではない。この世のものは全て呼吸しておる。妖でさえもだ。
まず、己の息を整えろ。そして相手の息を見定めよ。吸って吐いて吸って吐いて……、息を吐くときは誰しも緩むもの。
そこをガッといって、スパーンとやれば良いのだ。
ジュウベエは、そんな師が苦手だった。嫌いなのではない。苦手としか言いようがなかった。
またジュウベエには、師の言っていることが良く判らないことがある。ジュウベエだけでなく門下生も多くは理解してはいないのだろう。
しかし、師の美しい剣捌きを真似て、一心不乱に剣を振っているうちに、ほんの一瞬なれど師と同じ境地に立てたと思えることがある。
共に剣を振るう他の門下生も同じなのだろう。ジュウベエを始め、道場を巣立っていった者たちは、達人との呼び声の高い者が多くいた。
今いちど、師匠の教えと演武を思い起こし、心に刻み直すジュウベエ。
さりとて、次の日からのジュウベエの振るう剣捌きが変わった訳ではない。
変わったことと言えば、寝食を坊主と共にすることにしたことくらいだろうか。
山中の古寺に来て以来、ジュウベエは頑として、坊主の申し出を断り、妖退治の後は山で狩りをして腹を満たし、本堂の軒下で眠る生活を送っていた。
坊主と共に風呂を沸かし、質素だが美味い飯を食べ、屋根のある庵で床に着く。
逢魔が時にやって来る妖ども以外には、この山の澄んだ空気を汚すものはない。
たまに、坊主の代わりに山を降り、米や酒を、麓から暫くいった村に買い出しに出掛ける。
初めて山に足を踏み入れた時に襲ってきた獣たちも、彼を山の主のひとりと認めたのか、遭遇した際には道を空け、傍らにかしずくようになった。
ジュウベエにとっては、それは修行とは思えないような、修行の毎日。
その日は、いつになくやって来る妖の数が多かった。ジュウベエを狙う妖の群れも一度に十数匹にも上った。その群れが幾つも襲ってくるのだ。
自らの息を整え、妖のしているかどうかも判らぬ息を読み、刀を振るう。吸った気を腹で練り、瞬時に高めた力を刀と共に振り下ろす。
一心に刀を振り続けていると、妖どもの様子がおかしいことに気がついた。眼前の妖だけでなく、頭上を舞っていた妖までもが地に伏していた。
傍らでいつものように手斧を振るっていた筈の坊主は、いつの間にか庵の縁側で茶などすすっている。
ふと見渡すと、辺りには多くの妖石が散らばり、朽ちかけた妖の亡骸も山積みとなっていた。
ふむ——。ジュウベエは自らの刀とそれを握る拳を見つめる。
あれだけいた妖も残りの僅かな数が、未だ彼を狙うように飛び回っているだけとなっていた。
その内の一匹を見定めた彼は、いつもの基本の構えを取り、いつもの素振りのように自然に刀を振り下ろす。
空を舞っていた妖は真っ二つとなって地面にどさりと落ちた。ジュウベエの振るう刀から、常人には見えざる力が放たれ妖を切り裂いたのだ。
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昔のことに思いを巡らせていたジュウベエは、ふいに山中を登る足を止め、四方八方の気配を、その研ぎすまされた感覚で探る。
考え事をしながら登っていたのがまずかったか——。ジュウベエは己の不用意さを悔やんだ。
しかし決して、彼が、それに気づくのが遅かったという訳ではない。
彼の探知能力を、ほんの一瞬上回るほどの恐ろしい速さのナニモノかが、後を追い掛けてきたのであった。




