第3話 『ナニか良い匂いが……』
ジュウベエ本人に聞けば、おそらくは何と言うこともなかったと答えるであろう、その修行。
道場内では、彼の師匠以外には勝てる者はなく、師範代にも取り立てられ、免許皆伝も目前かと思われたある日。彼は師匠に呼ばれ、奇妙な修行を命ぜられた。
それは木刀を一振り授けられ、ある山に登り、山頂付近にある古寺へと赴き、そこの主と勝負して来る。という言葉にすると至って簡単なものであった。
師匠からは、無駄な殺生はしないようにと申し渡される。そのお陰で、例え道中で獣に襲われたとしても、相手を昏倒させるに留めなければならない。
但し、山頂にて現れるモノとは命懸けで仕合え——。とのことだった。何が現れるのかまでは教えては貰えなかったことも、奇妙たる所以の一つである。
道場から一日歩き、夕刻に辿り着いたのは鋸の歯のように険しく連なる山々。その山裾の竹林には、山に入るもの者を拒むかのように虎が生息していた。
山の力を得て、強くなった獣。人の動きとは違う獣の挙動に苦しむも、幾度か遣り合ううちに、ジュウベエは、夜明け前までには獣を倒せるようになる。
その勢いで山頂に突き進むも、山中の道のりで出てくるのは、猿に猪に狼に……。一つの山で出会うのは、有り得ない獣たち。
当然、一日二日では、登りきれる筈もなく、野宿を余儀なくされるのだが、寝ている間も獣たちは彼に襲いかかる。
もともと、幼少のみぎりより刀を握り、道場での修練中は、就寝時の敵の来襲に備えた訓練までしていた彼である。
気配を察すれば目を覚まし、その都度追い返す。それを一晩に何度も繰り返すことで、少しずつ眠って体力を回復した。
腹が減ったら、食用の野草と共に小動物を狩り、皮を剝いで焼いて、手を合わせてから後、有り難くいただいた。
襲って来る獣たちを叩き伏せながら、毎日僅かずつではあるが山中を登り、日が暮れたら眠る。
遂には、獣たちもジュウベエが寝ていても、遠巻きに眺めるだけで去っていくようにすらなった。
しかし、この命懸けの登山は前哨戦に過ぎず、本当の修行は山寺に辿り着いてからだったのである。
それからが長かったのだ——。
ジュウベエは、そう思い起こして、ほんの微かに片眉だけ上げる。
ハンゾウは、いそいそと食事の後片付けをしていた。
ミトは元気よく、ごちそうさまでした、と席を立つ。
その声を切っ掛けに、ジュウベエも立ち上がった。
良く晴れた、気持ちの良い朝だった。
町は活気に溢れ、盛んに旅人や商人が行き来している。
町中で囁かれる噂話が、聞くともなしに耳に入ってきた。どうやら、一夜にして隣の合宿の町から、ガラの悪い連中が消えてしまったらしい。
ゴロツキどもを束ねていた若旦那は捕縛後、急に痩せ衰えて大人しく番所へしょっぴかれていき、手代は終始何かに怯えている様子だったという。
話に聞いていた私設関所らしきものも見当たらず、無事にこの町に到着できたと、皆嬉し気に話している。
まずはめでたし——。
安堵の表情を浮かべるジュウベエとハンゾウであった。
昨日と同じように脇道を歩く一行。
雑木林を抜けると、昨日までは荒れていた農地から、抜かれた雑草が山と積まれているのがあちこちに見える。
暫く道を行けば、その両脇に茶屋を始め、小さな旅籠などの建物が増え始め、やがて件の合宿の町に入った。
町のどこにも、昨日までたむろしていたゴロツキたちの姿は見えず、代わりに威勢の良い若者たちが働いている。
その中で、一件の茶屋の前に差し掛かった時のこと、店先で団子を焼いていた少年から一行に呼び込みの声が掛かった。
「焼き団子、いかがっすかー!やきだんごー」
さっそく店に向かおうとするミトを、引き止めるふたり。
さっき食べたばかりだろう——。
名残惜しそうに振り返ったミトは、団子売りの少年と目が合う。
その顔には見覚えはあったものの、どこで会ったかは思い出せないのだった。
さて、このまま裏道を行くか街道へ戻るか、思案するハンゾウ。
進めるのならば、どちらでも良いだろうと言うジュウベエ。
「ちゃんと街道を歩こうよ。裏道ばっかりじゃなくて」
どうやらミトは、街道を進みたい派らしい。
「だって、この辺りから街道は海の側に通ってるんでしょ。海のそばっ」
海沿い、というのが問題なんだが……。何かを心配そうなハンゾウ。
「ワタシ、海って見たことないのよね。見たいな〜、海」
ミトのこの一言に、ジュウベエも推され、街道を行くことになった。
「う〜みっ、う〜みっ」
はしゃぐミトの後ろを歩くハンゾウに、ジュウベエがひそひそと耳打ちする。
「街道を歩くと何かまずいことがあるのか」
「いや、街道自体は問題じゃねぇ。海の側を歩くってのがなぁ」
「海がまずいのか」
「いやぁ、海沿いの町ってのは……」
それまで、飛び跳ねるように歩いていたミトが、クルッと振り向いた。
「あれ〜、ハンゾウったら、もしかしておよげないの〜?」
にしし——。と、何故か勝ち誇った笑いを浮かべ、後ろ向きにミトは歩く。
「ハンゾウが海に落っこちても、ワタシが助けてあげる。こう見えて泳ぐのは得意なんだから」
泳法だか何なのか、両手で良く判らない動きをするミト。
「君は泳げるのか」
殊の外、驚いているジュウベエに、ミトは得意気な笑顔を見せる。
「毎年、夏には里帰りして、近所の川や泉で泳いでるわ。あれ、もしかしてジュウベエも泳げない?」
ジュウベエの目は、心なしか伏せられ、しかし言葉だけは力強い。
「そんなことはある筈なかろう。これでも都のトビウオと呼ばれたわたしだ」
まぁ、次の宿場に行けば判るか——。
ふたりのやりとりを、遠巻きに眺めるハンゾウの下駄が、からんと鳴った。
一行は、合宿の町中を通り抜け、街道に入った。
途中、遠目に見た手代の屋敷が方が騒がしかったのは、おそらくお上の御調べが入っているのだろう。
ジュウベエとハンゾウが壊してしまったた長屋も、どうやら修繕が始まっているようだ。
暫くすれば、新しい手代が任命されて、この町も無事に息を吹き返すに違いない。
「海なんてドコにあるのよ〜」
街道に出た途端、ミトが騒ぎ出した。
「街道に入ってすぐ海には出ねぇよ。もう暫く行かねぇと」
すかさず、ハンゾウが嗜める。
「ええっ、そうなの。……でも……」
目を閉じ、鼻をクンクンとひくつかせるミト。
「何か嗅いだことのない臭いがするよ。コレが潮の香りってやつかしら」
そんなミトの様子に、ふたりは苦笑いする。
「そんな訳ねぇだろ。海はまだまだずうっと先だ」
「ふむ。森の民は、我々にはない感覚を持ち合わせているのかもしれん」
ともかく先を急ごう——。一行は、再び歩き始めた。
次の宿場が近づいてくるに連れ、次第に鼻をひくつかせるミト。
くんくん、くんくんくんくん……。
「海っぽい香りが強くなってきてる。後は、ナニか良い匂いが……」
彼女は、匂いに釣られるように、ふらふらと歩き出す。
「ああ、なんか悪い予感しかしねぇ」
「うむ、同感だ」
ふたりは、ミトが街道を外れ、匂いのする方へ駆け出して行ってしまうのを心配している。
しかし、意外にも彼女は真っすぐに歩み、無事宿場に到着した。匂いは宿場の中から香っていたのだ。
ほっとしたのも束の間。ミトは宿場に入るなり、どこかへ走り出す。
ふたりが慌てて追いかけると、ミトは良い匂いの出所、即ちサザエが焼かれるいくつもの七輪の前に立っていた。
暫くじっと網の上でサザエが焼かれる様を見つめていたミトであったが、やにわに懐に手を突っ込むと、兄様から預かったという『大切な旅の手帖』を取り出し、勢いも凄く捲り始める。
そしてある頁で手を止めたかと思うと、その頁とサザエとを順繰りに見比べた。
じゅわりじゅわりと、美味しそうな貝の汁が貝蓋の周りから吹き出し始める。
遂に少しだけ持ち上がった貝蓋の隙間に、醤油がたらりと垂らされた瞬間。
ミトだけでなく、ハンゾウまでもが、その店の暖簾をくぐっていた。
その様子を眺めていたジュウベエは、軽い溜息と共にふたりに続いた。その目元にはうっすらとした微笑みを浮かべながら。




