三 二人の女。
「何か、聞こえませんか? 人の声みたいな……」
壁に沿って歩き始めてから間もなく、彼女が立ち止まりました。
耳をすますと、確かに女性のうめき声のような声が聞こえます。怪我をしているのか、気を失っていたところから目覚めようとしているのか……。
「大丈夫ですか? 怪我はないですか?」
少し大きめの声で呼びかけて反応を待っていると、少し離れたところでごそごそと何かが動く物音がしました。
「え……? なに……?」
恐怖に引きつったようなつぶやき声。気がついて、自分の置かれている状況がわからず、軽いパニックを起こしているのでしょう。
「怪我はありませんか?」
もう一度呼びかけてみると、ワントーン上がった声で返事が返ってきました。
「何も見えない……! なんなの? なんなのよここ! 眼が……。私、眼が見えない……!」
女性は完全にパニックを起こしていました。うわずった声と悲鳴混じりの激しい息遣い。自分の置かれている状況を理解するどころか把握する時間さえなく、混乱しきっているのでしょう。このような時、女性をどのようにして落ち着かせてあげればいいか、私には皆目検討がつきませんでした。
「見えない……! ここはどこなの? ねぇ、誰かいるんでしょ? 返事してよ!!」
声音の攻撃的な色合いが濃くなってきていました。暗闇の中で唯一確認できている、意思疎通の出来る存在である私は、彼女にとって、恐怖と苛立ちの格好のはけ口なのでしょう。
さて、どうするべきか。
困り果てている私の手をぎゅっと握り、少女は私の隣で大きく息を吸い込みました。
「私たち、この暗闇から出られるところを探しているんです。おねえさんも、一緒に行きませんか?」
少し幼さを残した口調でそう言うと、少女は相手の反応を伺うように黙りました。
パニックにとらわれ、激しくなっていた女性の呼吸が落ち着いていくのがわかりました。
「……そっか……。私の眼が見えなくなったわけじゃないのね。さっきの男の人の声は、あなたのお父さん?」
女性は落ち着いた声でそう問いかけてきました。同じ女性、しかも幼い少女からの言葉であったこと、眼が見えなくなったわけではなく暗闇の中にいるのだとわかったこと、さらにそこから脱出しようとしている仲間がいること。それらが彼女に落ち着きを取り戻させたのでしょう。少女の対応は完璧で、絶妙でした。意識してそうしていたとすれば、相当に頭の切れる子に違いありません。
「お父さんじゃないけど、知り合いの人です。すごく暗くて全然見えないですけど、おねえさん、私の声の方向わかりますか?」
少女は落ち着いてそう答えました。その落ち着きぶり、対応の見事さに、私は心の中で舌を巻いていました。
女性が身体を動かす音が聞こえて来ました。距離は意外と近かったようで、彼女もこちらの声の方向がわかったようでした。
「おじさん、こっち」
少女は、つないでいた私の左手を引っ張り、壁面に触れさせました。そして私の背後を回って右側に回ると、私の右手首をしっかりと掴んで、女性の声のした方向にぐっと手を伸ばしているようでした。
「おねえさん、私の声の方に来てください。足元、気をつけて下さいね」
女性の動く音、息遣いが聞こえてきました。両手で地面を探りながら這うように進んでいるのでしょう。時折悲鳴を押し殺すような声を交えながら、彼女の息遣いが低い位置で、少しずつ近づいてきました。
岩のかけらに混じって散乱しているやわらかい物体。手で触って押しのけている彼女には、その正体がわかっているに違いありません。それでも取り乱さない気丈さは、たいしたものでした。
しかしそれ以上に、私の右手をしっかり掴んでいる少女の冷静さや聡明さは感嘆に値しました。一番年若い彼女が、大人二人よりも的確な判断を下しているのです。
「……あ!」
少しはしゃぐような少女の声が響きました。女性の安堵のため息が聞こえ、続いて彼女が立ち上がる息遣いが聞こえました。
「……ふう。ありがとうね、ええと……なんて呼べばいいかな?」
女性はつい先ほどパニックに捕らわれていたことなどなかったように、すっかり落ち着いた声で言いました。そういえば、私とこの少女はお互い名乗りもしていませんでした。1対1では、お互いの名前など知らなくてもコミュニケーション相手が明白だったので、聞く必要もなかったのです。
「私、華夕って言います。おねえさんは?」
少女――華夕ちゃんはそう言い、同時に私の右手首をぎゅっと握りました。私は華夕ちゃんのその合図の意味を理解し、その機転に再度感心してしまいました。
「あたしは……」
「私は香川頼造と申します」
女性が私を警戒しているから先に名乗って、というのが華夕ちゃんからの合図の意味でした。タイミングを逃せば、華夕ちゃんが「知り合い」である私の名前を知らないという不自然さが露呈することになるからです。状況が落ち着くまで、女性に無用な不信感を抱かせる訳にはいきませんでした。
「あたしは伊藤瀬里奈。仕事は……今は関係ない、か」
伊藤瀬里奈と名乗るその女性の声や話し方に、彼女のプライドの高さが見え隠れしていました。私としては、最も苦手とするタイプの女性です。
「じゃあ、いこっか、おじさん」
華夕ちゃんは幼い口調でそういうと、私の背後に回りました。
「三人とも壁に沿って歩こう。私が先に邪魔なものをどかせるから、華夕ちゃんは私の服を掴んでついてきなさい。伊藤さん……には、殿をお任せしてもよろしいですか?」
「ええ、それはかまいませんけど……でもこんな、状況も場所もわからないところでは、闇雲に動き回るより、動かずに救助を待ったほうが良いんじゃないですか? より深いところに迷い込んでしまうかもしれないし、疲労してしまうのは危険ですよ?」
伊藤さんが反論してくる事は予想できましたが、私はこういった状況がとても苦手でした。今までの経験上、こういう場合相手は必ず自説を曲げることがなく、どれだけ論理的に説明しても、最後は「反論のための反論」というレベルまでエスカレートしていくことがとても多かったからです。しかし、意見の対立を極度に恐れて周りに合わせてしまうこの弱さが、私をこの世から不要のものにさせた大きな原因なのでしょう。
「うーん、でも、こんなところにいるのは、私怖い……」
華夕ちゃんが心細そうな声を出しました。
「そうだね……」
私は困り果てて言葉を切りました。私自身は、なんとか脱出方法を探すべきという考えです。しかし、伊藤さんをうまく説得できる自信はありませんでした。華夕ちゃんの言葉で、一旦伊藤さんに同意するという逃げ道もなくなった私は、情けない事にただ途方にくれていたのです。
その時、背後で華夕ちゃんが、合図をするように私の服を引っ張りました。華夕ちゃんの意図は何なのか。もしや……。
「でも、伊藤さんの言う事ももっともだよ、華夕ちゃん。私たちはここに落ちてきた。そしてここまで真っ暗と言う事は、つまりここは間違いなく地下深いところってことになる。出口がないという可能性も考えると、動き回って体力を減らすのは避けたほうがいいかも知れないよ」
私は、思い切って伊藤さんの意見に乗って見せました。華夕ちゃんの合図は、一旦彼女の意見に乗って欲しいという意味だと思えたのです。
「だいじょうぶだよ、おじさん。だってここ、人が作った建物だよ? 出口がないはずないと思う」
「ここが……建物? あ……」
華夕ちゃんが当たり前のように言った言葉で、伊藤さんも気付いたようでした。
「うん、だって、地面だってちゃんと床になってるし、壁もちゃんとしてるもん。建物なら出口がないはずないよね?」
「なるほど……。華夕ちゃんの言う通りかも知れないなぁ」
そう言いながら、私は華夕ちゃんの意図を正しく汲んでいた事と、この少女がまぎれもなく大人以上の思慮を持っていることを確信していました。
私にわざと伊藤さんの意見に同調させ、私VS伊藤さんではなく、華夕ちゃんVS私の構図にする、これが華夕ちゃんの作戦でした。伊藤さんが対立軸の一方になってしまうことで、後に引けなくなってしまうのを回避し、伊藤さんに「華夕ちゃんに賛成する」という形で意見を変えるチャンスを与えたわけです。
「華夕ちゃんの判断が正しいと思います、私は」
私の想像通り、そして多分華夕ちゃんの思惑通り、伊藤さんは私達とともに出口を探す道を選んだのでした。