二 闇の中の出会い。
意識が戻った時、まず襲ってきたのは痛み、間歇的に聞こえる轟音、そして恐怖でした。眼を開けたはずなのに眼が開いていないような感覚。半覚醒状態の、意識は起きているのに身体が眠っていて、力いっぱい眼を開けようとしても眼が開かない、どれだけ懸命に身体を動かそうとしても言う事を聞いてくれないあの恐怖が、より明確に、私を縛り付けるように捕らえていました。
でも、あの半覚醒状態とは明らかに違う、右脇腹の痛み。そして眼を開いても開けないあの感覚とは違い、眼を開いた感覚はあるのに何も見えない状況。悪夢などではなく、実際に起こっていることなのだとわかってきました。
失明したのか、もしくは全く光のない世界に閉じ込められたのか……。
一体、何が起こったのか。
そんな疑問が、この時になってやっと浮かんできました。
轟音と地震。そして大地の崩壊。
目の前でコンクリートの巨塊に潰されてしまったあの若い警察官。
ほんの1メートル足らずの距離が、私と彼の運命を分けたのです。あの素晴らしい警官か死に、命を絶とうとしていた私が生き残る、なぜそんなことになってしまったのか、その理由が私にはどうしても理解できませんでした。
死ぬべきは、私のはずでした。そもそも私は死ぬつもりだったのだから。そして生き残るべきは、あの警官のはずでした。彼には未来もあり、たくさんの人を守る事ができたはずなのだから。
そう思うと胸が苦しくなって、全身から力が抜けていきました。
両親は無事だろうか……。ここ数年、年に一回会うだけになってしまった両親の顔が浮かんできました。私には厳しかったが孫娘の愛梨には甘々だった両親でした。
「子供を育てるのは責任があるけど、孫には責任がないから純粋に無制限にかわいがれるのよ」と、とろけそうな笑顔で言った母親。おばあちゃんばかりに甘えて自分にはあんまり甘えてくれないと拗ねる父親。
地方に住んでいる両親には、この災害の影響は少ないでしょう。もちろん、自然災害だったとすれば、ですが。
愛梨は無事だろうか……。そして妻は。
二人が都内にから離れて、そう、妻の実家にでも行っていてくれたらいい、そう思いました。この災厄に巻き込まれていてくれるな、と神に祈るような気持ちでした。私の心にとどめをさした妻への憎しみなどなく、むしろ最後の給料日に即出て行ってくれて良かった、そうでなければあの家で二人ともこの災厄に巻き込まれていただろうと考える程だったのです。
未練なのでしょうか。
暗闇の中で妻や愛梨が次々と浮かんで来ました。
笑顔で送り出してくれた今朝の妻。あの時はすでに、離婚届は用意していたのでしょうか。高校に入った頃からあまり口を聞いてくれなくなった愛梨。それでも私は君たちを愛していたんだよ。苦労なんかかけたくなかったのに、不甲斐ない大黒柱で本当にすまなかったね。
浮かんでくる妻の顔は全部笑顔でした。愛梨は本当にいろんな表情を見せてくれました。笑った顔、怒った顔、拗ねた顔、泣いている顔……。
もしかしたら、妻の表情が笑顔だけだった事も、離婚に繋がる一つの要素だったのかも知れません。だがそれも、今更気がついても、もう遅すぎました。
妻の笑顔を押しのけて、愛梨の顔が私の意識を埋め尽くしていきました。まだ幼かった頃、ママに嫉妬してパパを独り占めしたがったように。
昨夜の愛梨、幼い愛梨、初めて私に反抗した時の愛梨、産まれたばかりの愛梨が、色々な表情で私を包んでいました。
愛梨はどんな気持ちで妻について行ったのでしょう。どんな気持ちで私の下を去って行ったのでしょう。
社会にも家族にも捨てられ、死ぬ事すら出来なかった私。このまま人生が尽きるのを待つ事だけが、私に残された全てでした。未来を失った私には、思い出の他には、もう何も残されていなかったのです。
「パパ、助けて!」
突然愛梨の声が聞こえ、全ての愛梨の表情が恐怖に凍りつきました。その全てが、私に助けを求めて必死に叫んでいました。
「助けて……。パパ!」
娘が危ない。私の大切な娘が。
何としても、私がどうなろうと、愛梨だけは助けなければ。
すぐにでも愛梨のそばへ飛んでいきたい、そう思っても、私の体は全く動きませんでした。
救いを求める愛梨の顔が絶望に変わり、すすり泣くような声で泣きだしました。助けてくれない父親の裏切りを責めるような、絶望に満ちたまなざしで私を見つめながら、愛梨は消え入りそうな声で泣いていました。私を取り巻いていた愛梨の顔は、恨めしそうな表情で涙を流し続けながら私から遠ざかって行き……、堪えきれず、喉の奥からかすかにうめき声が漏れました。その自分の声で我に帰ると、私は相変わらず暗黒の闇の中、一人で横たわっていたのでした。
幻覚を見ていたようです。
地鳴りのような、雷のような轟音は終息に向かっているようでしたが、右脇腹の痛みは未だ強く、否応無く私に現実を突きつけていました。
現実に戻り、愛梨の顔が消え去っても、耳に愛梨の泣き声が残っているようでした。いや、実際に泣き声は聞こえていました。かすかにすすり泣くような声。
でもそれは愛梨の声ではありませんでした。もっと幼い、高く澄んだ声が、絶望に震えながらすすり泣いているのでした。
私は右脇腹の痛みを堪えながら身体を起こしました。見回したところで何も見えないことには変わりませんが、声がどの方向から聞こえてくるのかを探ろうと、あらゆる方向に耳を向けたのです。
声の印象から、小学生くらいの女の子だろうと思いました。一人でさぞ怖いだろうと思った瞬間、私は声を出していました。
「もう泣かなくて大丈夫。安心して」
出来る限り刺激を与えないようゆっくりとそう言ったのですが、彼女はやはり驚いた様子で、音を立てて息を飲むのがわかりました。
「驚かせてしまってごめんね。私もあれに巻き込まれてしまったんだ。
怪我はしていないかな? 必ずここから出られるから、安心してね」
彼女を安心させてあげたい。こんなに心を込めて話したのはどれくらいぶりでしょう。内容以上に「気持ち」を伝えようとして話すのは、もう忘れてしまっていた感覚でした。
「あ、ありがとう、ございます……」
涙声でしゃくりあげながら、必死に答える声が聞こえてきました。とても心細かったのでしょう。不安と緊張が緩んで、また涙があふれてきたようでした。
「あのっ、私がどこにいるかわかりますか……? 私、おじさんがどこにいるかわからないんです……」
彼女も周囲が全く見えないのでしょう。つまりこの暗闇は本物で、私の眼が見えなくなっているわけではないという事です。
「私にも全く周りが見えないんだ。でも大丈夫。声のする方に向かうからね」
この空間がどれほどの広さなのかはわかりませんが、お互いの声が反響して方向がわからないということはありませんでした。二人とも最低限の声で話しているので、反射した声が返ってくるほどではないのでしょう。
「はい、ありがとうございます……」
声は幼いのに、言葉がしっかりしているのが印象的でした。もしかすると、高校生だった愛梨よりも大人なのかも知れません。
障害物の多い足元を注意深くつま先で探りながら、彼女の声に近づいていきました。固い瓦礫片に混じって、やわらかいモノが転がっています。そして埃と血の混じった匂い。その意味を理解していたとしたら、彼女が感じていた恐怖はどれほどのものだったでしょう。早くこんな場所から連れ出してあげなければ。
彼女の声は少しずつ近づいてきていました。より慎重に、丁寧に障害物をどけ、少しずつ近づいていくと、不意にひざに何かが触れ、そしてか弱い力が私のスラックスを掴みました。彼女が私の声の方向に手を伸ばし、近づいてくるのを待っていたのです。
私が左手で彼女の手をそっと握ると、彼女はすがるように、両手でしっかりと私の手を握り返してきました。
「もう大丈夫。一緒にここを出よう」
「はい」
彼女はそう答えると、私の手を引っ張るようにして立ち上がりました。その体重の軽さからして、やはり彼女はまだ子供なのでしょう。私の中の使命感がさらに強くなってくるのがわかりました。
「まず、壁を探そう。壁沿いに歩けば、出口だって見つかるはずだからね」
私はそう言うと、彼女の手を引いてゆっくりと歩き始めました。