六 不安。
談話室には先客が一人いた。倉科智美ではなかった。少しくたびれた雰囲気の中年男性。香川頼造だ。頼造は一人がけのソファに座り、コーヒーを飲んでいた。
「あ……、どうも」
コーヒーサーバーへ向かいながら軽く会釈をする勇夫に、頼造は柔らかい笑顔を見せた。
「どうも。……しかし、大変な事になってしまったね、お互い」
「そうですね。俺達、いったいこれからどうなるんでしょう」
勇夫は頼造と同じテーブルへカップを置き、ソファに腰掛けた。頼造が話しかけてくれなければ、別のテーブルに座ることになっていただろう。そう思い、勇夫は密かに頼造に感謝した。
「さあ、全く見当もつかないね。一体何が起きているのか。あの機体はなんなのか……。私達がこれからどうなるのかは、そこにかかっているんだろうとは思うけども」
頼造はコーヒーを一口飲んだ。ミルクの入っていない、真っ黒なコーヒー。勇夫は自分のカップに入っているカフェオレの茶色い水面を眺めた。
「情報が欲しいですよね。せっかく外に出られたのに、全く何にもわかりゃしない」
「まぁ私達は一般人だ。軍としては、明かせない情報もあるんだろうね」
「でも、俺達は当事者ですよ? いや、被害者って言うのかな。それなのに何があったかも教えてもらえないなんておかしいじゃないですか」
我ながら子供じみた論理だな、と勇夫は思った。が、納得できないものは納得できない。今外がどういう状態なのか、あの地震の被害がどうなっているのかすらわからないのだ。
そうだ、家族は……。自分の家は無事なのか。
今まで忘れていたのが不思議だった。家族だって自分の事を心配しているに決まっている。倉科智美の家族もだ。急激に湧き上がってきた焦燥感に息苦しささえ感じ、勇夫はカフェオレを一口飲み込んだ。
熱い液体が喉を通って胸の辺りに留まり、身体を温めていくのがわかる。砂糖とクリームを増量したカフェオレは甘く、勇夫の焦燥をわずかに沈静させる効果があった。
「せめて、家族と連絡を取らせて欲しいですよね。無事を確認したいし、心配してるだろうし……」
至極真っ当な勇夫の言葉が、頼造へ無慈悲に突き刺さる。頼造は力なく寂しげな笑顔で、勇夫にうなずいてみせた。
「やっぱり男子もここに来てたわね」
入って来るなり、二人にそう声をかけたのは伊藤瀬里奈だ。左の二の腕に包帯を巻き、上半身はタンクトップだけといういでたちだ。豊かな胸が強調される背筋を伸ばした姿勢も、彼女の自信の表れだろう。男性に与える印象の効果を熟知していながらも、それをうまくあしらってきたこれまでの生きざまが垣間見えた。もっとも、勇夫にはそんな機微など理解の外にあったし、一瞬激しく目を引き付けられ、あわてて目を逸らしたにとどまった。
瀬里奈は二人の視線を意識しながらコーヒーサーバーでミルクと砂糖入りのアメリカンを入れ、勇夫のはす向かいに座った。
「華夕ちゃんも誘おうと思ったんですけど、部屋にいなかったんですよ」
瀬里奈はそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。
「思ったよりおいしいわね。さすが軍ってとこかな」
さらに一口、口に含む。
「部屋にいなかったって……。行くところなんかないでしょう。こんな基地の中で……」
頼造が心配そうに腕を組み、少し表情をゆがめた。
「もしかしたら、軍のお偉いさんに呼ばれているのかも知れないですね。
……でも、華夕ちゃんがあの天才少女、今野華夕だったなんてね。道理で判断が的確だった訳だわ」
先に教えてくれればよかったのに、という顔で瀬里奈は頼造を見た。彼女にしてみれば華夕と頼造は知り合いだったわけで、そう思うのも無理はない。しかし瀬里奈はそれ以上つっこむ事もなく、頼造から勇夫へ視線を移した。
「でも、智美ちゃんはもうすぐ来るわよ。髪の毛乾かしてから行きますって言ってたから」
瀬里奈は意味ありげに勇夫にウインクした。
「あ、そうですか。倉科は……大丈夫そうでしたか?」
「そうね、大丈夫そうには見えたけど……。正直、あたし達の中に、本当に大丈夫な人なんていないでしょ」
頼造もその言葉にうなずく。
「で、二人はつきあってどれくらいになるの?」
「えっ!?」
突然の質問に、勇夫の声が裏返った。こんな時にこんなところでする話じゃないだろう、と勇夫は思ったが、瀬里奈にしてみれば気分を切り替えようとする思いやりだったかも知れない。
どちらにしても、勇夫にしてみれば返答に窮する質問だった。倉科の気持ちを言葉で確認してはいない。そもそも、告白の言葉すら言えていないのだ。この数時間二人で過ごした濃密な時間はそこいらのカップルの比ではないという自負はあるが、「つきあっている」と胸を張って言える関係ではないのが実際のところだった。
「あ、ええと。俺と倉科は……」
「失礼します……」
勇夫が言いかけたとき、計ったかのように、お約束のように、倉科智美が談話室のドアを開けた。
「瀬里奈さん、さっきはありがとうございました。あ、速水くん」
智美は勇夫に気付いて小さく手を振ると、瀬里奈の隣、勇夫の正面のソファに腰掛けた。
湯上りで制服姿ではない智美の姿は新鮮だった。小学校の時、盆踊りでクラスメートと出会い、いつもと違う雰囲気の女子達にドキッとした、そんな淡い感情を伴った心の疼き。勇夫はカフェオレを口に含んだ。喉がカラカラになっていた。
「で? 勇夫君と智美ちゃんは……」
「あ、倉科、コーヒー飲む?」
瀬里奈が言いかけるのをさえぎって立ち上がる。一旦智美と距離を取り、頭をクールダウンさせる必要があった。
「あ、いいよ速水君、自分で行くから」
立ち上がりかける智美を勇夫は制した。
「いや、俺もお代わりするからさ、ついでにいくよ」
「そうそう、勇夫君にやらせてあげなさい」
瀬里奈が智美の肩に手をかけてそう言うと、智美もソファに座りなおした。
「じゃあ、速水君、砂糖抜きのカフェラテがあったら……」
「りょーかい」
勇夫は智美のカフェラテを淹れ、自分のカップを見つめた。砂糖とクリーム増量のカフェオレ。勇夫は少し悩んで、クリームだけ増量して、カフェオレを淹れた。砂糖抜きには、出来なかった。
「で、智美ちゃんと勇夫君はつきあってどれくらいなの?」
「瀬里奈さん! 俺達は……」
両手に持ったコーヒーをこぼさぬようゆっくりと歩きながら、勇夫は少し非難めいた声を出した。
「別につきあってないですよ? ね、速水君」
智美は事も無げに言って勇夫に笑顔を向けた。
「お、おう。……ほら、カフェラテ」
勇夫は胸にかすかな痛みを感じながら、智美の前にカップを置く。見下ろす角度で瀬里奈の胸元が目に入り、その素肌の陰影に目を惹きつけられた。そしてかすかに智美から香るシャンプーの香り。軍の支給品で同じはずなのに、なんでこんなにいい匂いなんだろう。勇夫は二人からもたらされる、視覚と嗅覚の刺激にうろたえながら、とにかくソファに座った。
「ふぅん、そう言う事かぁ」
二人を見比べながら、瀬里奈は意味ありげに笑い、少し肩を上げて腕組みをした。それは彼女が好んで使う、胸を強調するポーズの一つだった。