七 スタンバイ。
重力分布にも、そして大穴内部にも変化はない。異常は全く見られない。
ハユはモニタに表示されるデータを精査しながら、やはり記録デバイスの事が気になっていた。
中に入っているデータのコピーは何度も確認した。分析班が発見した情報も、改めてデータ上から発見できた。これ以上の情報は入っていないはずなのだ。
だが、ハユの心に何かどうしても消えない引っ掛かりが存在していた。
「見える物理……見えない物理……」
無意識につぶやくその言葉。
見える物に囚われていては、見えない真理を解き明かすことは出来ない。見えない事物も、見える事物と同じように扱わなければならない。それはハユが鷹城の本から学んだ基本的な姿勢だ。だが、それだけではない何かがハユの心をざわつかせていた。
「見える物理……見えない物理……」
呪文のように繰り返すその言葉。ハユには、やはりこの言葉にカギが隠されているように思えてならなかった。
「ぶつぶつうるせえぞ、ハユ」
舌打ちと共に聞こえたイツキの声に、ハユは身をすくませた。
「迷惑なんだよ。黙ってろ。黙ってられねえなら、そのおもちゃでおとなしく遊んでろ」
イツキは振り向いて、ハユの胸ポケットから顔を出している記録デバイスをあごで指した。
「イツキさん……!」
「データ見るんなら、集中力のねえお前より俺の方が何倍もマシだ。気が済むまで遊んだらこき使ってやるからな」
ハユは慌ててポケットから記録デバイスを取り出し、機密性ポリエチレン袋を引き裂くように開いた。
「ありがとうございます!」
「もう見えねえ所まで洗いざらい調べてんだ。どんなに調べたって無駄だと思うけどな」
イツキは冷たくそう言い放つと、モニタに向き直った。
――どんなに調べたって無駄。
イツキのその言葉は、ハユの心に突き刺さった。ハユとしてもそう判断せざるを得ないから尚更だった。
でも、それでも……!
ハユは必死でその思いにすがろうとした。鷹城を信じたかった。
――感情が真実を見つける原動力になることもある、という事でしょう。
伴の言葉が脳裏に蘇る。彼は自分にデバイスを託した。彼もまだ何かがあると信じたかったのだ。
見える物理、見えない物理。
見えないからといって、存在しないわけではない。見える物と同じに扱わなければならない。
そう、見える物も見えない物も同じに……。
その時、ハユの頭に、天啓のように一つの考えが生まれた。
そうだ。なら、見える物だって、見えない物と同じに扱わなければならないんじゃないだろうか。
ハユの血液が勢いよく巡りだすようだった。
もしかしたら、見えない何かを探す事に囚われすぎて、見える物をちゃんと見ていなかったんじゃないだろうか。
ハユは記録デバイスを取り上げ、隅々まで眺め始めた。
ハユのその手は、興奮で震えていた。
リフトの乗り心地は最悪だった。
無論、彼が物理的な「乗り心地」を感じることはない。「これくらいの距離なら、自分の機動力を使えばもっと早いのに」という苛立ちが彼に「乗り心地の悪さ」として認識されているだけだ。
だが、悪魔どもに察知されないためには、この方法が一番理にかなっているのだ。彼に否やはない。
――そろそろですね。
彼の心の中で鳴り響くリマインダーアラーム。作戦が第二段階に入った知らせだ。
徐々に減速していくリフトの上で、彼は立ち上がった。
リフトが止まり、静寂が支配する。
そして、第二のアラームが鳴った。
ハユは持ってきていたデータのコピーをモニタ上に展開し、もう一度分析をかけていた。記録デバイスの表面に、気になる記述を発見したのである。
【KEY 3】
この言葉が何らかのヒントになっている事は間違いないとハユは確信していた。そして、このキーワードから、データの再分析を行っていたのである。
しかし、それでもデータは意味を成さない数字の羅列でしかなかった。
わからない。このキーワードの意味はなんなのだ。
ハユの心に焦りと閉塞感が生じ始めたその時、コクピット内の沈黙が破られた。
「これは……!」
イツキの声にハユははっと顔を上げた。
イツキのモニタ上に、小さな異変が生じていたのである。
――機種不明機。
それ自体、この戦いにおいて珍しくはない。しかし、モニタに映るその大きさは、前回戦った紅翼の敵機に引けを取らない大きさだ。つまり、最悪、紅翼の敵機以上の力を持つ新型機の可能性もあるということだ。
そしてそれは、大穴の最深部から上昇して来始めていた。
「壱尉! 機種不明機だ! 近づいてる!」
イツキの声に、大榊の声が即応する。ハユもモニタを切り替え、現状分析を始めた。
「ツヴァイ! 戦闘態勢で待機! ドライは引き続き敵機の分析! 推定遭遇時間は!」
「三十分ほどと予測されます!」
ハユの答えに、イツキは舌打ちをした。
「おい、お前がやる事はそれじゃねえだろ」
イツキは振り返りもせず、苛立った声を出す。
「何でもてめえが一番出来るとか思ってんじゃねえだろうな。俺はお前よりよっぽどドライを使えるんだよ。お前はおとなしく、そのおもちゃの分析でもしてろ」
「ごめんなさ……」
言いかけるハユの声に、追い討ちをかけるようにイツキの舌打ちが響いた。
「壱尉! 敵機の上昇速度が上がってる。機動力は前のヤツと同等だ。タイプが違うのか、新型なのかはわかんねえけど、前のより強いと見た方が良さそうだ」
イツキがモニタを見ながら報告する。
「了解した。イサオ、油断は禁物だが、こちらも戦闘力は上がっている。必要以上に固くなるなよ!」
「わかっています!」
イサオの気合のこもった声。
「それから壱尉、こっちはハユを例のデバイスの分析に当たらせている。これは俺の判断だ。一応報告だけしとくが、口出しは無用だ」
イツキの言葉にハユは驚いた。
「了解だ」
短く大榊の言葉が返ってくる。ハユはその事にも驚きを禁じ得なかった。
戦闘中に、別のことにかかりきりになる事など、通常許されるはずはない。これは、ハユに対する大榊の期待の現われではないのか。そしてもちろん、イツキの期待も。
「ごめ……ありがとうございます!」
ハユの声に力が戻った。何としても、謎を解いてみせる。