《ネネカ・フェ・ネージュという女》
時々香ってくるコーヒーの匂い、ケーキの甘い香り。それらをふと意識すると、不思議と落ち着くもので。趣味嗜好、娯楽の類を無駄と切り捨てる者も少なくないが、こういった効果をもたらすと考えると、やはり人生とは切っても切り離せない。
そんな中、周囲に聞かれない程度のトーンで、不意にルーカスが切り出す。
「で、どうだ?」
「どうだ、とは?」
隣を歩く銀髪の少女、ティアラもつられて控えめの応答をする。
周囲の雑音に紛れて少し聞き取りにくいが、内緒話には勝手が良い。
「暗殺者の件だ。候補で言えば、ユンさんも該当するだろ? どこか怪しい部分があったとか、企んでそうとか……とにかく何か、感じたことはなかったか?」
「暗殺者って。間違ってはないんですが、なんとなくしっくりこない表現ですねー。……んー、ユンさんからそんな素振りは現状、特に感じられませんでしたけど。いつもどおり、柔和で母性溢れてました」
人柄の良さに着目すると、ユン・ユユン以上の人物は存在していない。少なくとも、二人の交友関係内では。
メモワールなんて小さなギルドに、大変そうだから手伝ってあげると加入してくれた親切心。休んで、と頼んでもほぼ無休でギルドを切り盛りしてくれる彼女には、感謝してもしきれない。
まるで母親のような包容力からは到底、ルーカスの命を狙うなんて気配は感じられなかった。
「ぶっちゃけ俺も、ユンさんはなさそうな気がするんだよなぁ。いや、全員なさそうだしでもなさそうだからありそうというか……」
「ややこしい言い方……とりあえず保留にしません? いずれ死にそうな時が来たらわたしが守りますよ」
「やだ、男らしい。これが胸キュンか」
「惚れます?」
「保留にしとく」
「……もう」
不覚にもトキメク感覚はともかく、ティアラの言葉も確かである。
疑心暗鬼になりすぎるのも、かえって目を曇らせるだけ。そもそも、信憑性の薄い話なのであまり引っ張りすぎるのもよくはないか。
ティアラは除外。ユンは現状、それっぽくない。その程度の認識で構わない。警戒が相手に伝われば、むしろ問題解決が難航する可能性すらある。
あくまで平常。日常を過ごす中で、頭の片隅にだけ置いて自然体で観察する。就寝中くらいは、要警戒せねばなるまいが……
「今朝の夢……」
「夢?」
「ほら、話しただろ? やたらでっかい剣を背負った少女と血塗れの青年の話」
「……まさかその青年が自分だと?」
「無関係と思えないってのは感じてた部分だしな。もしそうだとしたら、そんな大剣を使っている奴が怪しいってことにはなるが……」
武器は汎用的なものからオーダーメイドまで千差万別。
オーダーメイドのものは自分好みにカスタマイズしていることが多く、強力だが高価で、専門の技師しかメンテナンスが出来ない。
ルーカスとティアラはオーダーメイドの武器を所持しているが、少人数でやっていくには少しでも実力の底上げが必要だと判断したためだ。
正直、痛い出費であったものの、道具はいいものを使うに越したことはない。
「でもそんなバカでかい大剣を使うような女なんて……」
いるわけない。元より、大きい武器がイコール強いわけではない。むしろ行動が制限されてしまうゆえに、よっぽどの使い手でない限りは足枷にしかならなず、扱いの難しさは想像を遥かに越えている。
言葉を続けようとしたルーカスだったが、不意に、背中に声がかかる。
「あ、ルーカスじゃない。どうしたのこんなところで。ティアちゃんとデート?」
「いやがった!! バカでかい武器振り回す常識はずれなやつ!!」
ルーカスが興奮気味に指差した先には、1人の女性の姿があった。その背には成人男性の身の丈ほどもある巨大な剣が携えられており、低身長ではないが華奢な女性を押し潰さんばかりの威圧感を放っている。
そんな巨大な剣を揺らしつつ、声の主は不思議そうに首を傾げた。
「え? なにが? え、罵倒されてる?」
「ネネカさん……なら確かに、先輩よりも実力があってなおかつ特殊大剣使い……条件は合ってますが……」
「え、だから何が? え、なんで私、睨まれてるのかな?」
二人が怪しげに睨む女性は、ここ王都アトランティカに属する最大ギルド【自由の十字架】の最前線を務める最強の剣士。
ネネカ・フェ・ネージュ。
自由の十字架の長い歴史の中でも最優秀とすら謳われる女剣士であり、その知名度は大陸を越えて轟いている。見た目に相反する巨大な剣を振るう豪腕が特徴的で、どちらが魔物かわからない……なんて言ったら、首が飛びそうだからそっと胸にしまっておく。
その瞳は、ティアラの真紅の双眸と対立するかのように深く蒼く光り、腰まである長髪は綺麗な濃い赤色に染まっている。
実力もさることながら、その美貌に目を奪われる人は少なくない。なにを履き違えているのか、アイドルのように持ち上げてファンクラブまで設立される始末だ。
「いや、お前が俺を暗さ……」
「先輩! 呆気なく口を滑らそうとしないでください!」
ルーカスの迂闊な口を、ティアラが慌てて塞ぐ。
が、時既に遅し。
「口を滑らせる……?」
いやむしろ、ティアラのその行動がさらに怪しさを助長させたとも取れる。
というか止めたからこそ『止めるべき言動』であったことを相手に知らしめたのであって。
全ての責任はティアラにある。
うん、俺は悪くない。
内心で責任逃れしようとするギルドマスターだったが、そんなことはどちらでもよいとばかりにネネカ。
「詳しく、話を聞かせてもらえるかな?」
あくまで物腰柔らかく。
敵意の薄く優しい微笑みに、恐怖の糸が張り詰める。
「あー、あれだ。お前が俺の好みの女性の条件にマッチしているって話だ。超好み。めっちゃ好み。許されるなら俺のギルドに来てほしいくらい」
「へっ!?」
「先輩!!?」
咄嗟に出た嘘に、ネネカだけでなくティアラまでもが頬を真っ赤に染めて反応する。
無論、ルーカスも同じだ。考えた末の発言だったわけではないがために、動揺が脳みそを揺さぶるが必死に堪えて平然に見せる。
「かかか、からかうのはやめてよね。もー、そうやってルーカスはいっつも何気なく変なこと言うんだから……」
「そうですよ! 口説くならまずわたしからにしてください! というか私まだ口説かれたことないんですから、この機会に1回口説いてみてください!」
「いや、順を追って口説くようなチャラ男なつもりないんだが!?」
「わ、私だって嫌だとは思わないけど……いやいやいや、でもダメだよ! 私、ギルドの役目で忙しいもの!」
「わたしが子供体型だからですか? 子供体型だから悪いんですか?? 待っててください、将来的にナイスバディになる予定なんです!」
「ティアの年齢を考えると、これ以上の成長は……」
「そんな殺生な!!」
普段は厄介なティアラの軽口だが、今回ばかりは助け舟だ。
話題が逸れることで、ネネカの関心も引っ張られるはず。
などと希望的観測は打ち砕かれ。
「ふぅ……それで、本当はどういうことなの?」
「……ちっ、ダメか」
「そんなちょろっとごまかされません! すなわち、ちょろまかされません! ちゃんと話してくれないなら……実力行使、するよ?」
「やめろやめろ。ネネカの実力で行使されたら俺なんて骨も残らん」
「私、そんな凶暴なイメージなのかな!?」
その自分の巨大な武器を見てから言え。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。成人男性ですら持てるかどうか怪しいような、巨大な剣を軽々と振るうその細腕にはなにが仕込まれているんだろう。と、何度疑ったことか。
「だがすまん。俺たちはこれからクエストを受注し、きっと遠出するんだ。つまりネネカとこれ以上、世間話に花を咲かせている時間がなく、引いては事情がどうとかちょっとよくわからないことも説明するだけの――」
「あ、私もギルド協会に用事あるし、道中で話してくれたらそれでいいよ? ものすごく長くなる話ってわけでもないでしょう?」
「ちくしょうそれなら断れねぇ!!」
八方塞がりだった。
もはや万事休す。諦めて話すしかないのか。元はと言えば、迂闊な発言をした自分の責任でもあるし、仕方がない。
……ないんだろうなぁ。どうやら見逃してくれそうにないし。ティアラとの目配せで、彼女も観念したことを察知する。
だがよく考えてみると、占い師いわく「ギルド内部からの犯行」であるため、そもそもネネカは対象外なのだ。特徴こそ一致するものの、大前提が間違っている。
なら、ギルド内に巨大な剣を扱う人間なんていないので、それすらも勘違いなのでは?
もうわからなくなってきた。占い師の虚言だと切って捨てるのがより現実味を帯びたと納得しておくことにする。
ともかく、こうなってしまえば協力者としてうってつけなのでは?
視点を変えると、逆に希望に変わってくる。
ネネカ・フェ・ネージュは人当たりがいい。
驚くくらいに献身的で親切。八方美人と揶揄する者もいて本人の耳にも届いているが、彼女は言った。
『万人に好かれるのは難しいけど、嫌いって言ってくれたら直せるから嬉しい。』
と。
どこまでお人好しなのか。流石に偽善でしかないだろう。
なんて当時のルーカスも密かに勘ぐっていたが、付き合いが長くなるにつれて、彼女の人となりが理解できた。
真っ白なのだ。
まるでキャンバスのように。
そこに、淡い色で絵を描く。それがネネカの人生なのだ。生き様なのだ。偽善と思えた彼女の言葉も、行動も、全て本人なりの善だった。最善だった。
それを実感してからだろう。ルミエ・ルーカスという男が信頼できる人間だと判断したのは。叶うことなら、ネネカをメモワールに勧誘したいといった先の発言は、なまじ嘘ではないのだ。
ともかく、信頼できる人間は多いに越したことはない。
観念したと同時に、期待を込めて事の顛末を説明する。
「――――と、いうわけなんだ。疑ってすまなかった。そもそもネネカは条件を満たしていないのに、少々疑心暗鬼になりすぎていたのかもしれない」
「なるほど。私が疑われたのはともかく、信じがたい話ってのはちょっと同意だね」
「ちょっとどころか、激しく嘘っぽくないですかぁ?」
「んー、ルーカスの言うことだし、意外と信憑性もあるかなって」
「聖母だ……」
「なんですかこの人。神ですか。この人のどこに信憑性があるって言うんですか。嘘みたいな顔面してるのに」
「嘘みたいな顔面!!? え、顔面!!?」
ティアラの失礼な発言はさておき。
二つの羨望の眼差しが突き刺さり、やや居心地の悪そうに目線を逸らすネネカ。
やめて、その照れる視線やめて、と両手をぶんぶんと振り回す。愛嬌のある美人とはこのことか、最強じゃないか。まさに聖母、女神、世界が有する宝だ。全人類が滅びる日が来たとしても、ネネカだけは守り通さなければならない。
「と、とにかく! これは提案なんだけど。そういう事情なら、しばらく私も同行させてくれないかな?」
「は?」
女神の唐突な提案に、思わず素っ頓狂な声を上げる一般市民。
隣のティアラも同様に、驚きの表情を見せていた。
つまりそれはあれか。一時的にパーティを組んで行動を共にするということか。
あんなことやこんなこと、助け合い笑い合いたまに泣いて、多くの時間を過ごすことで絆が深まり、ある日自分の本当の気持ちに気がつく。
そんな甘酸っぱくほろ苦い、無数の経験を得られるということか。
……ふむ、満更でもない。ニヤケ顔のルーカスを諌めるように、ティアラが脇腹を小突いた。
「もしも本当にルーカスの命が狙われてるってことなら、放っておけないし。クロワ・リベルテとしても、君の友人としてもね」
「いや……でも、いいのか? リベルテのエース様が俺たちなんかに構ってて。アイドルって恋愛禁止なんだろ?」
「アイドルって……実力を評価されるのは嬉しいけど、特別扱いされたいわけじゃないんだよねー。私だってやりたいようにしたいし。自由の名に賭けて、きっと何も言われないかな」
どこまでも親切。どこまでもお人好し。
彼女とて、決して暇な立場ではないはずだ。王都……いや、大陸内でも一、二を争うほどの規模で実力と人気を兼ね備えたギルド【クロワ・リベルテ】の看板娘。
加えて最強の冒険者の一角としての重圧、責任はルーカスの想像に及ぶものでは到底ない。
それに、マスターの方がずっと強いし。彼女は言うと一瞬、どこか愁いを帯びた表情に切り替わった。謙遜か、事実か。クロワ・リベルテのマスターは謎が多い人物とされているがゆえに、その実力をルーカスは知らないが。
しかし、いつも柔らかな笑みを浮かべているネネカに差した影。それが意味するところを理解するには、まだ彼女のプライベートを知らなさすぎた。