9.ベンノに頼み事
結局誰も救えず、妹まで犠牲にしてしまった。そのことがフレデリクを打ちのめしていた。
まるで自分を痛めるようにひたすら訓練に励む彼を見て、平民騎士たちも何も言えず、遠巻きにして距離をおいている。
話す相手もなく孤独ではあったが、フレデリクにそのようなことを気にする余裕もない。ただ自分を責め続けることしかできないでいた。
「兄さん、ちょっといい?」
ひたすら剣を振っているフレデリクに声をかける者がいた。
「ペータル?」
剣を鞘に収めながらフレデリクが振り向く。予想通り、そこには弟の姿があった。
ペータルも騎士であるが、貴族出身の者と平民では訓練場が違うため、フレデリクが家を出て以来、二人は顔を合わせていない。
フレデリクは久し振りに会ったペータルを休憩室に誘った。平民向けの休憩室は貴族用とは大きく違い、木製の硬い椅子と机がいくつかあるだけの簡素な造りだった。壁際の机の上には水が入った桶と杓、木のコップが置いてあり、自由に汲んで飲めるようになっている。
フレデリクは二つのコップに水を入れ、一つをペータルに渡した。少し躊躇った後、ペータルはコップに口をつける。井戸から汲みたてだったらしく、少しひんやりとした水は喉越しがとても良い。
「生水なんて、初めて飲んだかも」
「いい経験になっただろう? ここでは一々腹を下していては生きてはいけないからな」
フレデリクは三か月以上ここで訓練を重ねているが、まだ病気になったことはない。体だけは随分と丈夫にできている。
「姉さんが結婚してもうすぐ三か月になるけど、イェルド殿とまだ一度も寝室を共にしていないらしい。それに、イェルド殿は姉さんを無視していて、言葉さえほとんど交わさないそうだ。母上は姉さんが蔑ろにされていると泣き暮らしている」
ペータルの話を聞いて、フレデリクは大きなため息をついた。そして、辛そうに首を振る。
「俺のせいだな」
「そうだよ。兄さんがあんな女に騙されたりするから、姉さんが辛い思いをするんだ! 母さんはね、ベンノ殿に再婚を頼んでみたらどうかと言っている。だから、こうして兄さんに相談しに来たんだ」
フレデリクは弟の言葉に驚き、飲んでいた水を吹き出しそうになった。
「馬鹿な! ベンノはブリットを裏切った男だぞ。そんな男と再婚させるなんて、いくら何でもあり得ないだろう?」
フレデリクがそう言っても、ペータルは真剣な顔で首を横に振る。冗談ではないのかと、訝しそうにフレデリクの目は細められた。
「カルネウス公爵閣下は、姉さんの結婚相手として最初はベンノ殿を考えていたらしい。でも、ベンノ殿はイェルド殿が断れば結婚を受けるので、先にイェルド殿に話をしてほしいと申し出たんだって。だから、ベンノ殿が姉さんとの結婚を望めば、公爵閣下も許してくれると思うんだ」
「さすが公爵殿、微妙に嫌な相手を探してくるな」
フレデリクが騎士の誇りである右腕を斬り落としたイェルド。ドリスの色香に迷い、ブリットを裏切ったベンノ。普通ならば結婚させることはないだろう。
「母さんはね、見捨てられた妻として過ごすより、ベンノと再婚した方が姉さんが幸せになると言っている。僕もそう思うんだ。だって、去年まで姉さんとベンノ殿は結構仲が良くて、姉さんは結婚を楽しみにしていただろう?」
「確かに、結婚式で美しいドレスを着るのが楽しみだと言っていたな。ベンノは菓子が好きだから、結婚後はたくさん作ってあげたいとも」
それはドリスが社交界に現れる前の話。確かに燃え上がるような恋ではなかったかもしれないが、二人の仲は悪くなかったとフレデリクも記憶している。
「なあ、おまえがイェルドの立場なら、どうする? ブリットを蔑ろにするか?」
フレデリクはそこに違和感を覚えていた。いくら憎んでいる男の妹だったとしても、あのイェルドが何もしていないブリットに辛く当たるだろうか?
「姉さんは兄さんの犠牲者じゃないか! いくら兄さんを憎んでいても、罪のないその妹まで辛い思いをさせたりしない。僕なら絶対に大切にするよ」
ペータルもブリットが蔑ろにされてることに憤っているが、その怒りは全て兄のフレデリクに向かっていた。酷い拷問を受けたイェルドを憎むことに抵抗を感じているのかもしれない。
「そうだよな。イェルドだってそれは同じだと思う。いくら俺の妹だったとしても、あいつがブリットを無視するとは思えない。だから、ブリットがイェルドを拒否してるのに違いない。イェルドの体は傷だらけなので、若い女性が恐れるのも無理もないからな」
イェルドの体は、傷だらけなどという生易しいものではないとフレデリクは知っている。
そして、イェルドがブリットを気に入っていることも彼は知っていた。
「イェルド殿が傷だらけになったのは兄さんのせいじゃないか! 結局、全部兄さんが悪い」
「それは重々わかっている。全て俺のせいだ。とにかく、一度ベンノに会ってみる。今の状態は、ブリットだけではなく、イェルドも辛いだろうから」
その人柄を知れば、ブリットはイェルドを気に入るのではないかと思っていた。始まりは公爵の強制だったとしても、それなりに幸せになってくれるのではないかと期待していたが、それはフレデリクの甘い考えだったようだ。
フレデリクは再び大きなため息をついた。
ベンノは王都の富裕層が住む地域に小さな家を構えて、代書を請け負ったり、本の写本を作ったりして生活をしていた。中年の女性が彼の世話をしているらしく、彼女がフレデリクを家に入れてくれた。
「思った以上に元気そうだな。生活は成り立っているのか?」
書斎に通されたフレデリクが声をかけると、ベンノが驚いて顔を上げる。
「実家から最低の生活費は補助してもらっているし、僕の乳母がこの家までついてきてくれたしね。生活はできているよ。ところで、僕に何か用か?」
ブリットを裏切ったと怒っていたはずのフレデリクが現れて、ベンノは心底驚いていた。
「妹とイェルドが結婚したのを知っているか?」
「もちろん知っているよ。僕だって、ブリットが幸せになることを願っているからね」
ドリスが一部の令嬢たちに虐められていたのは本当だったが、ブリットが関わっていないことは確認されていた。確かめもせずに虐めをしたとブリットを責めて婚約破棄したことを、ベンノは心から反省している。そして、かつて妹のように大切に思っていたブリットの幸せを願っているのも嘘ではない。
「イェルドと妹は白い結婚らしい。おそらく、ブリットが拒否している」
こんなことがなければ、二人は夫婦として上手くいったのではないかと思うと、今更ながらにイェルドを罪に落とそうとしたドリスが憎い。そして、フレデリクは自分自身が許せない。
「ブリットは幸せではないのか?」
ベンノは心配そうに眉を寄せた。
「悔しいことにそのようだ。それより、カルネウス公爵閣下からブリットとの結婚を勧められたと聞いたが、それは本当か?」
「ああ、本当だ。ブリットと結婚すれば子爵を継ぐことも認めるって。でも、自分から婚約を破棄しておいて、またブリットと結婚するなんて虫が良すぎるだろう? それに、エーギルとナータンは死んでしまったのに、僕だけ幸せになることも気が引けたから」
ベンノはそれほど悪い奴ではないとフレデリクは思う。ブリットの婚約者として、それなりに長い付き合いだ。
「ブリットに求婚してみてくれないか? ただし、謝ることも、甘い言葉をかけることも許さない。一度ブリットを裏切ったおまえにそんな資格はないからな。求婚するのは爵位と領地のためだと言え」
ベンノがそんなことを口にすれば、ブリットは傷つくかもしれないとフレデリクは思ったが、甘い言葉に誘われて、妹が選択を誤るのは避けたかった。
「そんなことを言って、求婚を受ける女性がいるはずないだろう? 馬鹿にされたと怒るはずだよ」
ベンノはフレデリクの言葉に呆れていた。求婚しろと言いながら、絶対に断られるような言動を求めているのだから。
「それでも、おまえの手を取るくらいに今の状態が辛いと思っているのならば、ブリットを救い出してやってほしい」
フレデリクはベンノの目を真剣な顔で見つめている。
「わかった。それほどブリットが辛い思いをしているのなら、僕も黙ってはいられない。公爵閣下にブリットとの結婚をお願いして、今度こそ幸せにするよ」
「よろしく頼む。だが、愛しているとか絶対に言うなよ」
そこは何度も念を押すフレデリクだった。
それから半月ほどして、ベンノから手紙が来たので、フレデリクは再び彼の家を訪ねることにした。
「領地まで会いに行ってきたけど、やっぱりブリットに追い返された。彼女はかなり怒っていたよ。それから、イェルド殿とブリットの仲が悪いようには見えなかった。心配はいらないよ」
「そうか。それなら、もうおまえはブリットと関係ないからな。今後一切呼び捨ては止めろ」
「そうだね。これからはブリットさんと呼ぶよ。それから、フレデリクに頼まれて領地まで行ったとブリットさんに伝えておいたからね。彼女、馬鹿兄と随分と怒っていたよ」
ベンノは嬉しそうに笑っている。馬鹿な役目をさせられたと、少しフレデリクを恨んでいた彼は、意趣返しの積りらしい。
フレデリクは今更だと苦笑で返した。