13.叶わない恋心
散歩から戻ったブリットは、兄のフレデリクがセシーリアに手を握られながら泣いていることに気がつき、慌てて駆け寄ろうとした。イェルドがそんなブリットの腰にそっと左腕をまわす。
「フレデリクは今までずっと耐えてきたんだ。しばらく泣かせておいてやろう」
イェルドへの拷問、ブリットの結婚。そして、セシーリアが修道院へ入ってしまったこと。それらはフレデリクにかなりの心労を与えたとイェルドは感じていた。しかも、弱音を吐くこともなくフレデリクはひたすら耐えてきたのだ。
「でも、あのままではお兄様がセシーリア様に嫌われてしまいませんか?」
「ブリットは俺が泣いたりすれば、嫌いになるか?」
傷だらけになってしまったイェルドを厭うこともなく、明るく愛を伝えてくれるブリットを前にすると、彼は幸せすぎて泣きそうになる時がある。もしブリットが嫌うようならば、何としても涙を堪えなくてはならない。
「いいえ。旦那様が私に心を預けてくださったようで、とても嬉しいと感じます。でも、それは私が旦那様の妻だからであって、お兄様のようにあまり親しくない女性の前であのように大人げもなく泣いたりすると、セシーリア様に軽蔑されてしまうと思うのです」
どんな経緯があろうと、フレデリクはブリットにとって大切な兄である。セシーリアのような美しい女性に軽蔑されるのは避けたい。格好良い兄でいてほしいというのが本音だった。
「フレデリクがずっと辛い思いをしてきたことをセシーリア様もわかっているはずだ。それに、軽蔑されているのなら、あんな風に穏やかな表情でフレデリクを見ないだろう」
兄の涙に驚いてよく確認しなかったブリットだが、イェルドに言われ改めて見てみると、確かにセシーリアは慈愛に満ちた微笑を浮かべながらフレデリクを見上げていた。
しばらく無言で待っていたブリットとイェルドにフレデリクはようやく気がついた。
「ブリット、もう戻って来たのか? 思ったより早かったな」
手で涙を拭いながら、フレデリクは泣いていたことをごまかすように殊更明るい声を出す。セシーリアも二人に気がつき、慌ててフレデリクの手を放した。
「ブリット様、あちらのお花は綺麗でしたか?」
セシーリアは何ごともなかったかのように笑顔でブリットの方を向く。
「ええ、とても美しく咲いておりました。でも、旦那様は私の方が綺麗だって言ってくれたのですよ。お世辞でも嬉しい」
ブリットもまた、兄が泣いていたことをごまかしたいと思い、惚気を口にしていた。
「俺は本当のことしか口にしない。ブリットの方が綺麗なのは真実だ」
イェルドは自信たっぷりに肯定する。
「おまえら、いい加減にしろよ。セシーリア様も困っているではないか。ブリット、さっさと馬車に乗れ。王都へ向かうぞ」
フレデリクは泣いていたことを知られたのが気恥ずかしく、出発を急がせた。
「情けない兄でごめんなさい。普段はあんな風に泣いたりしないのだけど」
動き出した馬車の中で、ブリットは隣に座っているセシーリアに謝った。大きな騎士に目の前で泣かれてしまったら、さぞ驚いただろうとブリットは心配していた。
向かいの席に座っている侍女もフレデリクの号泣を目撃していたので、セシーリアに嫌われるのではないかと心配するブリットの気持ちが良くわかり、小さく頷いていた。彼女は元々騎士団長の家に勤める侍女だったので、フレデリクのことを小さい時から知っている。感情を露わにすることが殆どなかった彼が女性の前で泣いたのだ。驚くのも無理がない。
「いいえ、フレデリク様は立派な方だと思います。わたくしを助けるためにとても辛い思いをされたのに、わたくしが何も説明せずに逃げてしまったせいで、父がフレデリク様に酷い仕打ちをしてしまいました。それなのに、一言もわたくしを責めませんでした。フレデリク様は本当にお優しい方ですよね」
今朝修道院の門前で出会った時、フレデリクに罵られるのではないかと覚悟していたセシーリアだったが、彼が口にしたのは気遣う言葉だけだった。
「セシーリア様はお心の広い方ですよね」
子どものように号泣するフレデリクを見ても、『立派』だと言えるセシーリアの度量の大きさに、ブリットは感心するしかない。
「お心が広いのはフレデリク様の方だと思いますよ」
その言葉には疑問を感じるブリットだった。女性の前で泣いてしまうのは騎士としてどうかと思うし、兄にはいつでも格好良くいてほしい。それでもブリットはセシーリアに兄を褒められて嬉しく、笑顔になった。
「ブリット様、わたくしは幼い頃から王妃となるように厳しく躾けられてきました。友もわたくしの一存では選べなかったのです。でも、これからは違います。自由に生きることが許されるのです。ですので、わたくしとお友達になっていただけませんか?」
セシーリアは縋るような眼差しでブリットを見ていた。正直、ブリットとの会話の殆どは惚気であったが、セシーリアは幸せそうな彼女の惚気をもっと聞いてみたいと思ってしまう。そして、何よりフレデリクの妹であるブリットを友と呼べるのなら、幸せに近づけるのではないかとセシーリアは感じていた。フレデリクに幸せになると誓ったのだ。できることから始めなければと思う。
「セシーリア様とお友達なんて本当に光栄です。それではセシーリアさんとお呼びしてもよろしいですか?」
ブリットは友となることを快諾した。急に結婚してしまった彼女は、フレデリクが社交界で嫌われていることも相まって、友人と疎遠になってしまっていた。セシーリアのような友人が新たにできてブリットも喜んでいる。
「もちろんです。わたくしもブリットさんと呼ばせていただきますね」
それからも、馬車の中には楽しそうな二人の会話が続いていた。侍女はそんな二人を嬉しそうに見守っている。
「セシーリア様と何があったんだ」
馬車に並走しながら、イェルドがフレデリクに訊いた。辺りは草原で見通しが良いので、雑談をしていても急に襲われる心配はない。
「セシーリア様が幸せになると言ってくれた」
友の右腕を犠牲にしてまでセシーリアへの拷問を阻止したフレデリクにとって、それは何より報われる言葉だった。イェルドの『生きていて良かった』との発言と合わせて、フレデリクの足掻きが無駄でなかった証なのだ。
「そうか。フレデリクの行いが全て報われたんだな。俺とブリットは既に幸せだし」
「おまえたちが幸せなのは十分に理解しているから、これ以上の説明は無用だぞ」
二人の結婚を気に病んでいるフレデリクを気遣ってのことだとわかっているが、フレデリクはもう惚気は聞きたくないと思う。ブリットはフレデリクにとって幼く無垢な妹のままなのだ。
イェルドは信頼できる友であり、妹を託すに値する男だとは思うが、それでもフレデリクの胸中は複雑だ。
「それで、セシーリア様に優しくされて、惚れてしまったのか? 今度は俺たちが惚気を聞く番だな。俺はおまえみたいに狭量ではないから、いくらでも惚気を聞いてやるぞ」
馬車に乗るセシーリアへフレデリクが切なそうな眼差しを向けていたので、イェルドはフレデリクが恋に落ちたのは間違いないと思っていた。辛い思いをしていた友に春が訪れたのなら、それは大変喜ばしいことだとイェルドは思う。しかし、フレデリクの顔が見る見る曇っていった。
「俺は平民の騎士だ。公爵家の令嬢を想うことなど許されない」
どんな理由があろうとも、イェルドの腕を落とした事実は消えるはずもなく、伯爵位を捨てたのは自らに課した罰であった。カルネウス公爵に強要されなくても、家と縁を切り平民として生きていくつもりだったのだ。
「カルネウス公爵閣下の誤解は解けたのだろう? 伯爵に戻ることだって許されるに違いない。そうなれば公爵令嬢との結婚も可能じゃないのか? セシーリア様をこうして王都までお連れするのだから、公爵閣下だって結婚を反対できないと思うけどな」
国の英雄である騎士団長の息子で、既に伯爵位を継いでいたフレデリクだ。元の身分に戻れば結婚に何ら支障がないとイェルドは考えていた。そして、真っ赤な髪の大きな騎士と淡い金髪の美姫、それなりにお似合いではないかと思う。
しかし、イェルドの言葉を否定するようにフレデリクは首を横に振った。
「そのうち、平民の嫁を見つけて、嫌と言う程惚気てやるからな」
諦めたようにフレデリクはそんなことを口にしていた。
「本当にそれでいいのか? 諦めるばかりじゃ、何も得られないぞ」
「俺は騎士だから、最愛の女性を一生守ることができないかもしれない」
父親である騎士団長はブリットを騎士に嫁がせないと言っていた。いつ殉職するかもしれない騎士の妻になれば、ブリットが泣くことになるかもしれないからだ。
あの消えてしまいそうなほど儚いセシーリアを泣かせたくないとフレデリクは思う。