12.セシーリアの言葉
「セシーリア様、申し訳ありません。こんな惚気を言いに来たのではなくて、大切なお話があったのですが」
フレデリクが行ったイェルドへの拷問と、公爵に強要された結婚がセシーリアを苦しめていると知ったブリットは、彼女の罪悪感を減らすためイェルドも自分も幸せだと伝えようとしたが、なぜか全て惚気になってしまっていた。
ブリットがイェルドのことを大好きなのは真実だが、あまりあけすけに話すのは、貴族女性として慎みに欠ける振舞だったとブリットは反省する。そんなブリットを微笑みながら見ていたセシーリアは優雅に首を振った。
「とても楽しい時間でした。お二人は本当に仲が良くて羨ましいわ。もっとそのような逸話をお伺いしたいのだけれど、残念なことに時間も限られていますものね。もしかして、わたくしに家へ帰るよう、父がブリット様に説得をお願いしたのでしょうか?」
「はい。カルネウス公から丁寧な手紙をいただきました。本日は護衛も兼ねて夫と兄も一緒に来ています。もし王都にお戻りになるのなら、我が家の馬車でお送りすることが可能です。でも、兄からは絶対に強要するなと言われているのです。セシーリア様はとても辛い思いをしたので、急いては駄目だと」
セシーリアはフレデリクの気遣いが本当に嬉しく思う。ブリットに会うまでは、修道院の外へ出ることも、イェルドやフレデリクと顔を合わすことも怖いと感じていた。
しかし、ブリットの話を聞いて、イェルドがどれほど辛い思いをして酷い傷を負っていたとしても、その傷を含めた彼の全てがブリットに愛されているのだと思うと、何も怖くないと感じた。
今のイェルドはとても幸せに違いないから。
「イェルド様とフレデリク様に会いたいと存じます。そして、わたくしを王都まで連れて行っていただけますか?」
セシーリアがそう頼むと、ブリットは笑顔で頷いた。
「もちろんです!」
満面の笑みで元気に答えるブリットはとても可愛い。そして、イェルドもそう思っているに違いないとセシーリアは感じていた。
王太子の護衛騎士をしていたイェルドと顔を合わせる機会も多かったセシーリアだが、生真面目な彼の笑顔などめったに見たことがなかった。そんなイェルドが可愛くて健気なブリットを前にしてどのような顔をしているのか、彼女は会うのが楽しみだと思う。そして、妹を助けてほしいという切実な願いを無視してしまったのにも拘わらず、気遣ってくれる真っ赤な髪の大きな騎士とも会いたいと願った。
ずっと逃げていたことで、フレデリクたちにも、家族にも辛い思いをさせた。もう逃げないと、セシーリアはそう思えるようになっていた。
「本日還俗の手続きをいたします。明日の朝、宿泊所までお伺いしますので、よろしくお願いいたします」
セシーリアが立ち上がった。そうと決まればなるべく早く手続きをしたかった。アルムグレーン修道院を朝に出ると夕方には王都に着くことができる距離だが、途中には町どころか村もない。出発が遅くなると、途中で野営するか、夜に移動するしかなくなる。ブリットや護衛する二人のためにもそれは避けたい。
「それなら、明日の朝、門までお迎えに行きますので」
ブリットはそう約束してセシーリアと別れた。
そして、翌朝。
セシーリアが自分を見て恐れるのではないだろうかと、フレデリクはとても緊張していた。
「大丈夫よ。だって、セシーリア様は微笑んでいたもの。お兄様のことも旦那様のことも怖がっていないわよ」
直接セシーリアに会ったブリットはそんな心配は必要ないと思うが、セシーリアが目の前で倒れてしまい、腕の中で目が覚めてからは声も出せずに涙を流し続けていた儚い彼女を見ているフレデリクはそう楽観できなかった。
イェルドも自分の体を見てセシーリアが辛い思いをするのではないかと、門からは馬車の陰になる場所に移動している。
そんな中、公爵令嬢としては随分と質素なドレスでセシーリアは現れた。荷物は小さな鞄一つだけだ。
「フレデリク様。手紙をいただいたのにすぐに読むことができず、お許しください」
セシーリアに恐れの表情がないことに安心しながら、フレデリクは首を振った。
「いいえ。私の方こそ手紙など出してしまい、お辛い思いをさせてしまいました。申し訳ございません。それに、イェルドと妹はとても仲良くしておりますので、そのまま放置してもらって却って良かったと思います。なあ、イェルド」
フレデリクに呼ばれ、イェルドが馬車の陰からゆっくりと出てきた。頬から顎にかけて火傷の痕が走るが、色はかなり薄くなりそれほど目立たなくなっている。ブリットが言うように爪は綺麗に整えられていて、全て剥がされたとはもうわからなかった。右の袖は頼りなく風にそよいでいるが、それでも、セシーリアが想像していた以上にイェルドは元気そうだった。
「俺はブリットと結婚できて本当に幸せです。セシーリア様には感謝したいくらいだ」
「私も、素敵な旦那様ができたので、セシーリア様にお礼を言いたいほどです」
ブリットとイェルドが見つめ合いながら微笑んでる。予想していたとはいえ、イェルドにそんな甘い顔ができるのかと、セシーリアは少し驚いていた。
「それでは、出発いたしましょうか? セシーリア様のことは私とイェルドで必ずお護りいたしますのでご安心ください」
フレデリクが手を差し出すと、セシーリアは洗練された動作でその手をとった。
ブリットとセシーリアは馬車に並んで座っている。最初は緊張していた二人だが、昼前には以前からの親友であったかのように仲良くなっていた。
「騎士の妻はね、最愛の旦那様の無事を祈ってハンカチを贈るの。そのハンカチには旦那様の印象に合った動物や鳥を刺繍するのよ。だから私は隻腕の黒竜を刺繍したの。この旅に出発する朝、旦那様に渡すとね、感動で言葉を失うくらい喜んでくれたのよ」
もちろん、ブリットの話の大半はイェルドのことである。そんなブリットの惚気話をセシーリアは黙って聞いていた。
イェルドとブリットが幸せであることは十分過ぎるほどわかって、それはセシーリアにとっても喜ばしいことであるが、ちょっと羨ましくもある。
いつか、ブリットのように衒いもなく自慢できる男性と結婚できればいいなと彼女は思い始めていた。
馬車はいつしか美しい湖の畔までやって来ていた。ここで馬に水を飲ませるために休憩する予定だ。
ブリットとセシーリアは馬車の中で軽食をとり、座り続けた体の疲れを解すために馬車の外へと出てきた。
「とても美しいですね」
セシーリアは思わず感嘆の声を上げてしまう。透き通った水に湖畔の緑が写り込み、靄が薄っすらとかかりとても神秘的だ。
修道院へ行く時も馬車は止まったはずだが、その時は外を見る余裕もなかった。初めて見る湖は、吸い込まれそうなほどに美しい。
「本当に綺麗。セシーリア様、少し散歩しませんか? ほら、あちらに可愛い花が咲いているわ」
ブリットが無邪気に遠くを指差している。
「わたくしは少し疲れたので、フレデリク様とここで待っております。どうか、イェルド様とお二人で散歩を楽しんできてください」
「はい。じゃあ、旦那様、行きましょう」
セシーリアの言葉に素直に頷いたブリットは、イェルドの左腕をそっと掴んだ。照れながらも、イェルドの眼差しはとても甘い。
「それでは少し歩いてくるので、セシーリア様を頼む」
イェルドはフレデリクにそう頼むと、ゆっくりと歩き出した。ブリットと一緒ならば、どのような場所でも素晴らしいと感じるが、ここは本当に別格だ。
小走りでイェルドの手を引いているブリットがあまりにも愛おしく、イェルドは再び感動を噛みしめていた。
「本当にお二人は仲がよろしいですね」
ブリットとイェルドの姿が段々と遠くなり、小さな花が咲き乱れている場所で止まった頃、少し羨ましそうに二人を見ていたセシーリアが隣に立つフレデリクの方を見上げて微笑んだ。
「嫌になるくらいにね」
二人に散々惚気を聞かされたフレデリクは、少々胸やけを起こしそうになっている。
「本当に羨ましくて、わたくしもお二人のように幸せになりたいと思ってしまいます。こう思えるのもフレデリク様のお陰ですよね。あの時は、助けていただいて本当にありがとうございました。お辛かったでしょう?」
今まで誰も救えなかったと泣くこともできず、自らの無能を嘆きながらただ耐えてきた。そんなフレデリクの頑なだった心をセシーリアの言葉が解していったのだ。
フレデリクの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「済みません。女々しくて」
そう思うものの、彼には涙を止めることができない。
「これまで、お一人で奮闘していらしたのですよね」
イェルドの腕を斬り落とした直後のフレデリクは、泣きそうな顔をしながらも歯を食いしばって耐えていた。おそらく今までずっとそのようにして耐えてきたのだとセシーリアは思う。
絶対にセシーリアより強いはずのフレデリクだが、彼女は泣き続ける真っ赤な髪の大きな騎士のことを守りたいと思ってしまう。
握りしめているフレデリクの右手をセシーリアの両手がそっと包み込んだ。その温かな感触に驚いたフレデリクだが、もちろん振り払えるはずもなく、そのまま動けずにいた。涙は止まりそうにもない。
「フレデリク様も幸せになってくださいね」
どうすればこの強い騎士を守ることができるのか、セシーリアにはわからない。ただ、彼を幸せにしたいと思う。
「俺は幸せになってもいいのでしょうか?」
誰も救えなかった。そう嘆くことしかできず、愚かな自分は幸せになる価値などないとフレデリクは思っていたのだ。
「当たり前です。全ての人がフレデリク様の幸せを許さないと言っても、わたくしだけはフレデリク様の幸せを願います」
フレデリクには、イェルドがブリットの言葉が全てだと言った意味がわかるような気がした。セシーリアが幸せを願う限り、それが全てのように感じている。まるでこの世界にはフレデリクとセシーリアしかいないかのように、もう他の人の言葉に心を揺らすことはないだろう。
そして、燃え上がるような恋をしたいと言ったベンノの気持ちも理解できた。心臓が早鐘のように鼓動して、セシーリアと触れた手は火傷しそうなほどに熱い。足場は全く頼りなく、まるで宙に浮いているような気分だ。自分の体なのにフレデリクは制御ができないでいた。