11.ブリットの惚気
ブリットを馬車までエスコートしたイェルドは、馬に乗るためにフレデリクの傍まで戻って来た。その左手には隻腕の黒竜を刺繍したハンカチが大切そうに握られている。
「俺が殺してくれと願った時、生きろと言ってくれて本当に感謝する。俺は生きていて良かった」
イェルドはハンカチを見つめながら、噛みしめるように言葉を発した。
「ああ」
この短い返事の中に、フレデリクの万感の思いが込められている。イェルドの命を助けるためにひたすら足掻いてきたが、その結果イェルドに殺してくれと願われたのだ。全てが無駄であったと嘆いていたフレデリクが、ようやく報われた気がした。
皺の一つも作ってなるものかというように、イェルドは時間をかけてハンカチを左の内ポケットに仕舞っている。騎士は最愛の妻から贈られたハンカチを、心臓を守るように左の胸に当てるのだ。
左手でだけでは難しいとフレデリクは思ったが、ようやく満足したらしく、イェルドが顔を上げた。
「俺はな、殿下の気持ちがわかるような気がする」
そんなことを言い出したイェルドに驚き、フレデリクはその顔を見つめた。
「あんな目に遭わされたのにか?」
元の王太子はドリスの言葉だけを信じて、イェルドを拷問せよと命じたのだ。しかも司法局の許可も得ずセシーリアも傷つけようとした。フレデリクには共感するところが微塵もないと感じる。
「もし、ブリットが男に襲われたと告白したのならば、俺は何があってもその男を嬲り殺しにする。真実など必要ない。彼女の言葉だけが全てだ」
鬼気迫る様子のイェルドに、これは本気だと感じたフレデリクは、ブリットが嘘の告白だけはしないよう願い、誰にも襲われることがなく一生を終えることを祈った。
「だが、おまえは女を拷問したりしないだろう?」
「そうかもな」
フレデリクの問いを明確に否定しなかったイェルドに、正直に生きてくれと再度妹に願わざるを得なかった。
「修道院まで三日かかる予定だ。途中の町で二泊するが、ブリットは侍女と同室させるからな。イェルドは俺と御者の男と一緒の部屋だ」
今回の旅には侍女を一人同行させることになっている。侍女を一人にするよりブリットと一緒の部屋にいてもらう方が守りやすい。もちろん、これ以上ブリットとイェルドのイチャイチャを見たくはないフレデリクの思惑も入っていた。
「……、わかった。それでいい」
かなり残念に思いながら、イェルドは了承する。本心ではブリットと片時も離れたくないと思っていた。
馬車がゆっくりと動き出す。フレデリクとイェルドの馬が馬車を守るように並んだ。
三日の行程を終え、一行は威圧感を与えるほど堅牢さを誇るアルムグレーン修道院に着いた。
国で一番厳しいと有名であるこの修道院は、俗世から逃げ出したい女性にとって一番安全な場所でもある。
男性とはたとえ父親や夫であっても面会は許されない。女性と面会する場合でも、他の修道女が立ち合うことになっている。もちろん、本人が希望しない限り面会が叶うことはない。
こうして、虐待されたり、望まぬ結婚を強要されたりした女性を守っているのだ。
セシーリアもまた、外界と明確に隔離されたこの環境で、ゆっくりと心を癒していた。
ここに来た当初はこの世の全てが怖く感じ、家族からの手紙さえ手に取ることができずにいた。修道女としての作業を淡々とこなし、残りの時間をただひたすら神に祈ることにより辛い記憶を消し去ろうとしていたのだ。
セシーリアを苦しめていたのは、イェルドとフレデリクが彼女のためにあれほどの苦痛に耐えたことを理解していたのに、思い出すのも怖くて何も語らず逃げてしまったことだ。セシーリアはその罪を神に懺悔するしか出来なかった。
あの拷問から半年以上の時を経て、セシーリアはようやく溜まった手紙を読む心の余裕ができた。そして、手紙を整理している時にフレデリクの手紙を見つけてしまったのだ。
自分を責める言葉が書かれているのでないかと覚悟しながら読むと、そこに書かれていたのはセシーリアの想定外の事実だった。
彼女を気遣う言葉に埋め尽くされたその手紙には、カルネウス公爵が妹のブリットにイェルドとの結婚を強要しているので、公爵を止めてもらえないかと丁寧な言葉で記されている。その手紙は五カ月も前に出されていた。
父親の手紙を全て確認したセシーリアは、彼女が修道院へ入った後のことをようやく理解した。
ドリスに騙されイェルドを拷問しセシーリアを罪に落とそうとしたとして、カルネウス公爵はフレデリクを憎んでいた。無関係なブリットを巻き込んでしまう程に。
全てが遅かったとセシーリアは後悔する。自分が逃げている間に、更に恩人であるフレデリクを苦しめていたのだ。
セシーリアは慌てて父に手紙を書いた。せめて、ブリットに直接謝りたい。できれば、フレデリクとイェルドにも謝罪を感謝の意を伝えたい。
そして今日、ブリットがやって来た。フレデリクとイェルドの二人は修道院内に立ち入ることができない。彼らは大きな門の外にある宿泊所で待つことになる。
所々に置かれている石の色そのままの色彩を抑えた彫刻は、名工の手によるものだと詳しくないブリットにもわかるくらい見事なものだった。重厚、そんな言葉がぴったりの長い廊下を、年配の修道女に先導され彼女は黙って歩いている。それでも、新しい彫刻が現われる度に、興味深そうに眺めずにはいられない。
そして、大きな木製の扉が開けられると、目を引くほどに美しいセシーリアが席を立った。
修道院での適度な作業は、彼女の美しさを奪うどころか、更に増したようだ。手は少し荒れてはいるが、蒼白だった顔色は血色が良くなり、唇は薔薇色に色づいていた。髪は布に覆われていて確認できないが、輝くような淡い金色だったとブリットは記憶していた。真っ赤な自分の髪が嫌いではないブリットでも、憧れを持つほどセシーリアの髪は美しかったのだ。
女性であるブリットでさえ目を奪われそうになり、セシーリアをイェルドに会わせることが少し不安になる。独身のフレデリクには良い目の保養になるだろうが、絶対に相手にされないだろうなとブリットは思っていた。
部屋の隅に置かれた椅子に中年の修道女が腰をかけ、ブリットもセシーリアの対面に座った。
「本当に申し訳ございません。わたくしがフレデリク様のお手紙を読まなかったばかりに、ブリット様に辛い思いをさせてしまいました。わたくしは何と愚かだったのでしょう」
セシーリアは今にも泣きそうになっている。しかし、泣いて許されるようなことではないと思っていた。
「セシーリア様、どうか、お気になさらないでください。私は素敵な旦那様と結婚できて幸せなのです。夫も私との結婚をとても喜んでいるはずです。旦那様は私をとても大切にしてくれるのですよ」
辛そうだったセシーリアが顔を上げ、柔らかく笑う。あれほどの拷問を受けた傷だらけのイェルドを、ブリットがこうも明るく受け入れているとは、セシーリアも予想できなかった。
「ブリット様がとても強くて優しい方で良かったわ。さすがあのフレデリク様の妹君ですね。よく似ていらっしゃる」
セシーリアのその言葉に、ブリットは少し納得できなかった。
「えっ? 髪の色以外全く似ていないと旦那様は言ってくれるのですが。それに、騎士団長の娘なのに、怪我をしそうだからと剣を持つことを禁じられてしまったので、私は全然強くありません。兄は強いそうですけどね。でも、旦那様の方がもっと強いと思うのです。だって、片腕だけでも護衛に勝ってしまうのですもの」
イェルドのことを思い出したのか、ブリットは誇らしそうにしている。
「本当にイェルド様のことを愛しているのですね。羨ましいです」
夫となるはずの男は他の女性を愛していた。そんな男を愛せるはずもなく、セシーリアにとって、結婚は面倒な義務だけが発生する苦難でしかなかった。
「イェルド様のお体はいかがですか?」
セシーリアを守るためにイェルドはあれほどの拷問に耐えきったのだ。彼の体を確認することは彼女にとって辛いことだが、それでも、知らなければならないとセシーリアは思う。
「夫の爪はもう生えそろって、指より長く伸びるようになったのですよ。だから、私がやすりをかけてあげるのです。爪が伸びていると私の柔肌を傷つけてしまうって旦那様が言うから、あら、やだ!」
セシーリアを安心させたいと思いイェルドの爪を話題にしたブリットだが、気づかぬうちに惚気になっていた。朱に染まる頬を両手で隠しているブリットがとても可愛いくて、セシーリアはついつい微笑んでしまう。
「それから、旦那様の背中は私が流しているのです。片手だと上手く背中が洗えませんものね。最初は恥ずかしがって拒否していた旦那様も、今では私に任せてくれるようになりました。私は大きな旦那様の背中が大好きです。とても格好良いですもの。傷だらけですけれど、それは旦那様の優しさの証ですから」
ブリットが世話を焼いているので、イェルドが片腕になったことを気にすることはないとセシーリアに伝えたかったが、やはり惚気以外の何ものでもなかった。
「本当に素敵ですね」
もちろん、セシーリアは微笑ましい夫婦の様子を褒めたつもりだった。しかし、ブリットの顔は曇っていく。
「旦那様はセシーリア様のため拷問に耐えたかもしれませんが、それは、騎士としての行いであって、セシーリア様に特別な情を持っていたわけではないと思うのです」
もし、セシーリアがイェルドに惹かれているようならば、ブリットに勝ち目はないと思っている。それほど、セシーリアは魅力的な女性だ。
「心配しないでください。誠実なイェルド様が大切な妻である貴女を裏切るようなことは絶対にありません。それに、わたくしだってイェルド様に感謝はしていますが、それ以上の想いはありませんから」
嫉妬するブリットの様子も可愛らしいとセシーリアは思うが、これほど可愛らしくて明るい妻が健気に尽くしているのに、裏切るような夫がいるはずない。心配など無用であると感じていた。