10.公爵の謝罪
平民騎士向けの訓練場に再びペータルが訪れたのは、ベンノがブリットに会いに行ってから一か月ほど経った時だった。
「姉さんとイェルド殿が仲良くしていると連絡があった。どちらかと言うと、姉さんの方が積極的で、イェルド殿は照れながらも嬉しそうにしているらしい。イェルド殿が結婚当初に姉さんを避けていたのは、姉さんを気遣っていたからだとわかり、その誠実な人柄もあって、イェルド殿は使用人たちにも領民にも信頼されている。姉さんは本当に幸せそうだって」
少し沈んだ様子のペータルに心配していたが、その内容はフレデリクにとって、とても嬉しいものだった。
「それは良かった」
フレデリクはイェルドとブリットの幸せを誰よりも願っていた。これで一つ肩の荷が下りた気がする。
「でもね、ベンノ殿はかなり失礼な態度だったらしくて、彼を寄越した兄さんは使用人にかなり嫌われているよ。おめおめと顔を見せるようなことがあれば、雑巾の絞り汁で茶を淹れてやると侍女たちは相談しているって。姉さんに会いに行くようなことがあれば気をつけて」
ペータルがそんなことを言うので、イェルドにもブリットにも合わす顔がないと感じているフレデリクは、その茶を飲む機会はないと思いながら、本当に皆に嫌われているなと苦笑するしかなかった。
「それと、姉さんたちの幸せな様子を知って、カルネウス公爵殿が何か仕掛けてくるようなことがあるのならば、今度こそ兄さんの命を差し出して姉さんを守るから覚悟をしておけって、父上からの託だ」
愚かな兄のせいでブリットも母親も辛い思いをしていると思っているペータルだが、それでも、家族なのだ。こんなことを告げるのが辛くないはずもない。
「わかった。逃げも隠れもしないから安心してくれと団長に伝えてくれ」
イェルドには恩義を感じていた公爵なので、ブリットたちが幸せになっても許してくれるのではないかとフレデリクは思う。しかし、フレデリクが苦しむこともなくなるので、その憎しみは直接彼に向かうだろうと覚悟を決める。
いつ公爵から命を求められるかもしれないと思いながら、フレデリクは騎士としての毎日を真摯に送っていた。
最初は反発していた平民騎士たちだったが、伯爵から平民に落とされたのにも拘らず、騎士としての努力を怠らず、嫌がる素振りも見せず他の騎士と同じような生活をしているフレデリクのことを少しずつ仲間と認めるようになっていった。
他の騎士と並んで走り、剣を交え、食事を共にする。そんな毎日はそれなりに楽しいとフレデリクは思う。しかし、それが長く続かないだろうと予想していた。
その予想は当たり、平穏な日々が三か月ほど続いた頃、カルネウス公爵家の執事という男がフレデリクを訪ねてきた。
「旦那様がお会いしたいとのことですので、屋敷までご足労願えますでしょうか?」
執事など寄越さなくても逃げたりしないのにとフレデリクは思いながら、執事の案内に従って素直に馬車に乗った。馬車には公爵家の印が掲げられていて、護衛が三人もついている。
ゆっくりと動き出す馬車の窓から外を眺めたフレデリクは、もうここに帰って来ることはないのだと思っていた。
「フレデリク君、よく来てくれた。とにかく、ここへ座ってくれ」
豪華な応接室へ通されたフレデリクは、公爵の態度に戸惑っていた。しかし、逆らうこともできずにソファに腰を落とす。
招いてくれた礼を言うのも変だと思い、フレデリクは黙って座っていた。公爵は少し困ったような顔をしながら、何通かの手紙を取り出す。
「これは半年以上音沙汰がなかった娘からやっと届いた返事だ。娘は私が送った手紙を読むこともできず、ただ神に祈る毎日を過ごしていたという。ようやく落ち着いてきて、最近になって私が出した手紙を読んで、とても驚いたらしい」
公爵は言い難そうに言葉を切った。フレデリクは公爵が何を言いたいのか理解できず、黙って聞くよりほかなかった。
「フレデリク君、本当に済まない。君は娘を守ろうとしてくれたのだな。それなのに、私は君に理不尽な怒りをぶつけ、君を傷つけるために、ブリット嬢を無理に結婚させてしまった」
公爵が謝罪したことに驚くフレデリクだが、それを受け取ることができないと感じていた。
「閣下。私はセシーリア様を救うことができませんでした。あのようなとても残酷な場面を見せてしまい、どれほどお辛かったか。修道院へ入ってしまうのも無理はないと思います。全て私が至らなかったせいです」
「悪いのは王太子と娘を罪に落とそうとしたドリスだ。君のせいではない。娘は恩人である君の手紙を無視してしまったことをとても悔やんでいる。そして、ブリット嬢に申し訳ないことをしたと嘆いているのだ」
公爵の言葉に驚き、フレデリクは思わず首を横に振る。
「ブリットはイェルドと幸せに暮らしています。セシーリア様が悔やむようなことは何もありません。浅慮にも私が手紙など出してしまったので、セシーリア様に辛い思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
フレデリクが最後に会ったセシーリアは、真っ青な顔をしながら涙を流し続けていた。あの場はそれほど辛かったに違いない。そして、フレデリクのことを恐れていたのは間違いない。
そんな彼女に手紙など書いて、怯えさせたのではないかと彼はずっと心配していた。
「ブリット嬢とイェルド君が幸せになったのは結果論に過ぎない。私が君の大切な妹に望まぬ結婚を強要した事実は消えない。それに、今まで誰にも会いたくないと言っていた娘が、ブリット嬢に直接会って謝罪したいと言っている。そして、できれば君やイェルド君にも謝りたいと。お願いだ。ブリット嬢とイェルド君を連れてアルムグレーン修道院へ行ってもらえないだろうか? 男性である君に会うには一旦還俗しなければならない。もし、娘が君と会うことがあれば、家に帰るように説得してもらえないだろうか?」
いつになく公爵が弱々しく見えた。セシーリアを公爵のもとに戻すのは自分を頼るしかないのだと理解したフレデリクは、公爵の頼みを断ることなどできない。
「わかりました。妹とイェルドを連れアルムグレーン修道院へ向かいます」
「恩に着る。これが娘からブリット嬢に宛てた手紙だ。そして、私がイェルド君に手紙を書いた。渡してほしい」
「了解しました」
セシーリアが修道院へ入ってしまったのは自分のせいだとフレデリクは思っている。そんな自分が会いに行けば更に辛い思いをさせるのではないかと危惧しながらも、娘に会いたいと願う公爵の想いを叶えたいと思っていた。
それからフレデリクはすぐにイェルドが領主を務めるファルンバリ子爵領へ出発することにした。
応接室でブリットとイェルドに手紙を渡したフレデリクは、侍女が淹れた茶を飲むべきか悩んでいた。しかし、茶の一杯で気が晴れるのならばと、思い切って口にする。想像とは違って普通の茶の味だったので、フレデリクは戸惑いながらも安心していた。
実はフレデリクが口にしたのは本当に普通の茶だった。ベンノのことでフレデリクに怒りを感じている侍女だったが、ベンノのお陰でイェルドとブリットの仲が進展したのも事実なので、雑巾絞り汁茶は許してやろうと思ったのだ。
「お兄様、セシーリア様を守るために旦那様を拷問したのですか? なぜ教えてくれなかったのです!」
手紙を読み終えたブリットがフレデリクを睨んでいる。手に持った手紙には、セシーリアの後悔と謝罪の言葉が連なっていた。
「フレデリク? まさか、ブリットに何も伝えていなかったのか?」
公爵の手紙を読んでいたイェルドも顔を上げる。
「公爵殿に睨まれていたからな。女に騙され馬鹿なことをした兄だと思われていた方が、命を望まれた時に辛くないだろうと思って」
フレデリクは責めるようなブリットの眼差しに、思わず俯いてしまった。
「お兄様の馬鹿! どんな愚かな兄だって殺されてしまえば辛いに決まっているではないですか! カルネウス公の誤解を解く努力くらいしてください!」
兄を失うことになっていたかもしれないと思うと、ブリットは泣きそうな顔になっていた。
「本当に馬鹿だな。フレデリクが何も伝えていないせいで、俺はブリットを殺そうとしていると思われていたんだぞ。おまえの大切な妹を傷つけるはずないのに」
ブリットとイェルドに責められ、フレデリクは身の置き所がない。
「本当に済まない。でも、二人は仲が良さそうで良かった」
フレデリクがそう言うと、若い夫婦は顔を見合わせて恥ずかしそうに微笑み合った。
真実を伝えていなかったことはごまかせたが、視線を絡ませ合う二人の様子がいたたまれず、フレデリクは茶でも淹れてもらおうと後ろを向いたが、壁際に控えていた侍女は目を見開いて固まっている。彼女は普通に茶を淹れて本当に良かったと思っていた。
「わかりました。セシーリア様のところへ参ります。ところでベンノをここへ寄越したのはお兄様だと聞いたのですが? いくら何でも、ベンノはわざわざやって来てあんな風に求婚するような愚かな人ではなかったと思うのです。お兄様が何か言ったのですか?」
「おまえたちが上手くいっていないと聞いたので、ブリットもイェルドも辛い思いをしていると思った。爵位や領地のために結婚したいと言っても、おまえがベンノの手を取るのならば、ベンノに託そうと考えてのことだ」
フレデリクの言葉を聞いて、ブリットは頬を膨らませた。
「お兄様は本当に馬鹿だわ。でも、ベンノのお陰で旦那様と仲良くなれたので、許してあげますけどね」
「そうだな。ベンノ殿のお陰だ」
再びブリットとイェルドが微笑み合う。
侍女は雑巾の絞り汁を茶に入れずに本当に良かったと安堵していた。
翌朝、早速アルムグレーン修道院へ向けて出発することになった。往路は四日ほどの行程でさほどの準備は必要ないとはいえ、急遽決まった旅なので、子爵邸は朝から慌ただしく動いていた。
特に旅慣れていないブリットの準備に時間がかかっている。
既に旅装に身を包んだフレデリクとイェルドは、玄関ホールでブリットを待っていた。
「イェルド、本当に済まなかった」
やっと謝ることができるとフレデリクは思った。会えば再び『殺してくれ』とイェルドが願うのではないかと恐れ、フレデリクはイェルドを意図的に避けていたのだ。もうあの拷問の時から半年以上が経っている。
「謝らないでくれ。俺は最愛の妻を得ることができたのだ。腕の一本くらい安いものだと思っている。普通なら、俺との結婚など団長が許してくれなかっただろう? フレデリクだって、大切な妹が俺の腕一本より価値がないなどとは思っていないだろうが」
イェルドの言葉に嘘はないように見える。それでも、フレデリクは自分を許すことができない。イェルドの腕を斬り落とす以外の方法があったのではないかと後悔しない日はなかった。
「それとは話が別だろう。俺はおまえの誇りを奪ったんだ。もっと責めてくれ」
イェルドの言葉は嬉しいとフレデリクは思う。それほどブリットを大切に想っている証だ。しかし、フレデリクが右腕を奪った事実は消えない。
「あのな、俺はフレデリクに感謝しているくらいだ。目を抉らないで残してくれただろう? お陰でブリットの美しい体を隅々まで眺めることができるのだからな」
「そ、そうか?」
生真面目なイェルドがそんなことを言い出すと思わず、フレデリクは返事に困った。
「それに、指も潰さなかったよな。だから、ブリットの肌の柔らかさや温かさを十分に堪能できるしな」
「……」
「おまけに舌も抜かなかった。ブリットの体はどこもかしこも甘いぞ」
「イェルド、もう止めろ! 妹のそんな生々しい話など聞きたくない」
いたたまれなくなったフレデリクは、思わずイェルドの胸倉を掴んだ。
「お兄様! 旦那様に何をしているのです!」
準備が済んで部屋を出たブリットは、フレデリクの様子に驚き階段を駆け下りてきた。
「悪いのはイェルドだ」
イェルドの言葉は自分の罪悪感を減らすためだとわかっていたが、フレデリクはあのような話を聞いた後なので、ブリットの顔をまともに見ることができない。
「嘘を言わないで! 高潔な旦那様が悪いはずないもの」
「高潔って、こいつはな、こんな朝っぱらから女の裸を想像するような奴だからな」
一方的に責めるブリットは理不尽だとフレデリクは感じ、イェルドに嫌がらせの一つでもしてやろうと思った。
「お兄様の不潔! 旦那様に近寄らないで! 不潔がうつったらどうしてくれるのよ」
ブリットはイェルドの左腕を掴んで、フレデリクと引き離そうとする。イェルドは嬉しそうにブリットに向き合った。
「ブリット。俺は他の女に興味はないが、ブリットだけは違う。貴女の体は全てが美しくて、一日中思い浮かべてしまうのだ。俺は不潔な男だな」
ブリットについてきた侍女が驚く。イェルドはブリットを大切にしていると常々態度では示しているが、直接的に甘い言葉を口にしているのを聞いたのは初めてだった。
「旦那様は不潔なんかではありません! 私は旦那様の妻なのですから、一日中想っていただけるのは嬉しいですけれど、恥ずかしいので、そういうことは二人きりの時におっしゃって」
ブリットの顔は真っ赤になっている。それを微笑みながらイェルドが見つめていた。
「わかった。この旅が終わり二人きりになることができた時、存分に口にする」
「旦那様、嬉しいけど、恥ずかしい」
ブリットは片手で頬を押さながら、もう片手で熱を冷ますように頬を扇いでいる。そんな様子がとても可愛らしいと、イェルドの目尻は益々下がるのだった。
「イェルド、性格が変わったな」
フレデリクは思わず呟く。その声を聞いた侍女は黙って頷いていた。
「旦那様、よろしかったらこれを受け取っていただけないでしょうか?」
旅立つ夫の無事を願って、騎士の妻は刺繍を入れたハンカチを渡すのだ。一緒に旅立つとはいえ、ブリットは今がハンカチを渡す好機だと思い、隻腕の黒竜を刺繍したハンカチを広げてみせた。
そのハンカチを目にしたイェルドの様子が明らかに変になった。足を開いて踏ん張り、握りしめた左手は小刻みに震えている。顔は斜め上を向き、目を見開いたまま歯を食いしばっていた。
騎士を思い起こすようなブリットの行いが辛かったのかもしれないが、イェルドを想って刺繍したブリットが可哀想に思えて、フレデリクは礼くらい言えとイェルドを諫めようとした。しかし、その前にブリットは辛そうにハンカチを畳んでしまう。
「旦那様、ごめんなさい。気に入らなかったのですよね」
泣き顔を見せまいとブリットは目をきつく瞑る。
「違う! 俺はあまりの感動に打ち震えて、何も言葉にできなかった。すぐに礼を言えず済まない。本当に嬉しかった。一生肌身離ず大切にする。俺の宝物だ」
まだ感動に浸っているらしく、イェルドは顔を上げたままだ。
「せっかく作ったのだから、ちゃんと使ってくださいね」
イェルドが喜んでいるとわかって、ブリットの涙も引っ込んだ。
「いや、そんなもったいないことはできない」
「でも、いっぱいあるのよ。今は二十枚くらい。まだ作れるしね」
その言葉を聞いて、更にイェルドの感動は増した。
「心配した俺の時間を返してくれ」
そう呟くフレデリクの言葉に、侍女も同意する。