1.妹の婚約破棄
王宮の最深部、王太子の住まう宮へ向かう途中で、王太子付きの近衛騎士イェルドは、同僚のフレデリクとすれ違った。
「妹のブリット嬢がベンノから婚約を破棄されたと聞いたが、大丈夫なのか?」
イェルドは心配そうにフレデリクに声をかける。フレデリクは辛そうに振り返った。
フレデリクの父親は騎士団長であり、侯爵位を筆頭にいくつもの爵位を持つ国の英雄でもあった。フレデリクは既にその爵位の一つである伯爵位を継いでいる。将来の騎士団長が約束されている選ばれた男だ。
一方、イェルドは子爵家の三男。継ぐ家もなく騎士として身を立てる以外ない。しかし、フレデリクはそんなイェルドと気さくに付き合っていた。二十一歳のイェルドとは年も近く、剣の好敵手でもある。
「ああ。変に揉めると、殿下の不興を買う恐れがあるので、父に代わって俺が婚約破棄を受け入れた。だが、妹は少々行動的でな。放っておくとあの女に突撃しかねない。だから、今は部屋に閉じ込めてある。もしあの女を責めるような手紙を友に出せば面倒なことになると思い、手紙も禁じた。揉め事を起こしそうな母も弟も領地に追いやった。これでおとなしくしていてくれたらいいのだが」
一年程前から王太子と親しくしているドリスという女が、王太子の威光を笠に着てまるで女王のように振舞っている。
王太子の側近であるベンノはドリスに誑かされ、フレデリクの妹ブリットとの婚約を一方的に破棄した。
「ブリット嬢は元気で明るい女性なのに、部屋に閉じ込められているとは、本当に気の毒だな。あの女を諫めることができずやりたい放題させて、俺の力不足だ。本当に申し訳ない」
イェルドは何度もドリスを諫めようとしたが、王太子がその度に庇うので、彼の言葉など全く気にも留めていないようだった。
「イェルドのせいではない。殿下を説得できない俺の責任だ」
「本当に毒婦と呼ぶに相応しい女だよな」
こんなことを誰かに聞かれ王太子に報告されると首が飛ぶかもしれない。そう思うと、豪胆なイェルドでもつい小声になる。
「本当だ」
二人は揃って大きなため息をついた。
「ところで、ブリットが元気で明るい女性だって、なぜ知っているんだ?」
妹をとても可愛がっているフレデリクは、信頼する同僚と雖も妹に近づくならば警戒を怠ることはできない。
「ブリット嬢はよく団長に差し入れに来ているではないか。偶に団長の執務室まで案内するぞ」
「そうなんだよ。ブリットはね、自ら焼き菓子を作ってくれるんだぞ。それは本当に美味しくてな。父も大好物なんだ。じゃあ、イェルドは妹に会ったことがあるんだな。ブリットは俺によく似てとっても可愛いだろう?」
騎士団でも兄馬鹿と少々有名になっているフレデリクは、こうして妹の自慢をイェルドに度々しているので、彼女と数回しか会ったことはないイェルドも、まるで妹のように親しみを抱いていた。
「いや、全く似ていないだろう。似ているのはその赤い髪くらいだ。ブリット嬢が可愛いのは同意するが」
イェルドはお世辞を言えるような器用な男ではない。だから、本心だろうとフレデリクは感じる。妹を褒められて嬉しい気持ちもあるが、彼は少し複雑だった。
「父はいつ死ぬかわからない騎士とブリットを結婚させないと言っている。だから、ベンノと早々に婚約させたんだ。ベンノとの婚約がなくなっても、イェルドとの結婚は許さないと思う」
「お、俺はそんなつもりは全くないから。ただ、可愛らしいお嬢さんだと思っただけで」
イェルドはわかり易く動揺していた。耳も赤くなっている。
『俺は騎士が結婚相手でもいいと思うけどな』
フレデリクはそう思うものの声に出せなかった。この生真面目な同僚に下手に希望を与えるのは残酷だと感じたのだ。
「それでは引き続き、これまで通りの役割でいいか?」
フレデリクは王太子とドリスに近づき仲良くして、二人が暴走しないように見張っている。一方、イェルドは二人と距離を置き、好ましくない行いを諫める役を担っていた。
「変な役をさせて済まないな。子爵の三男の俺だと、気位の高いドリスは仲良くしてくれそうにもなくて」
「イェルドこそ、大変ではないのか? あの女を怒らせると面倒だぞ」
ドリスはそれほどの美女ではないが、男へ媚を売る手管は上手い。王太子は手玉に取られている状態だ。
「セシーリア様をこれ以上蔑ろにさせるわけにはいかないからな。何とか説得してみるよ」
王太子には婚約者がいる。カルネウス公爵令嬢のセシーリアで、美しく聡明だと社交界でも有名な女性だ。そんなセシーリアを放っておいて、王太子は男爵の娘ドリスと交際していた。
国王と国の財務を担っているカルネウス公爵、そして、護衛として騎士団長が関税についての会談のために他国を訪れている今、王太子とドリスはセシーリアを蔑ろにして、見せつけるように仲良くしている。
「そうだよな。早く陛下に帰国してもらわないと、本当に国が荒れそうだ。イェルドとセシーリア嬢との変な噂もあるようだし、とにかく十分に気をつけてくれ」
「あのセシーリア様が俺なんかを相手にするはずないのに。あの女ときたら、俺がセシーリア様に懸想しているから、文句を言うと思っているんだ」
品行方正のイェルドにしては珍しく舌打ちした。
「まあ、生真面目なイェルドが殿下の婚約者に懸想するはずないよな」
からかうようにフレデリクが言うと、不満そうにイェルドが目を細める。
「当然だろう。将来国母になられる方だぞ。恐れ多いのにも程がある」
「イェルドに女を誘う度胸がないって、皆知っているから、そんな噂を誰も信じないと思うから安心しろ」
「婚約者のいない女性なら、普通に誘えるぞ。そこまで朴念仁ではない」
「どうだか」
不安を拭い去りたいとでもいうように、フレデリクは明るい笑い声を上げた。イェルドは少し顔を顰めて、黙ってその場を後にする。