たった一つ、時空すらも超越するもの。考察
人の想いは全てを超える。
ありとあらゆる創作で扱われまくったがために、これほど陳腐な表現になった言葉ってあんまり無いと思う。
腐るくらいに酷使されまくってる言葉でもあるけど、それと同時に人間を表す上で必要不可欠な言葉でもあるんじゃなかろうか。
ともかく。
『君の名は。』に登場する、三葉と瀧くんは劇中に互いのことを忘れてしまいます。
カクリヨと呼ばれるあの世を出た代償として。さらに、唯一二人との入れ替わりを証明していたスマホのメモすらも、世界の修正力で消されてしまう(突きつけられた世界の現実と瀧くんが思っていた現実がバトった結果、瀧くんの思ってた現実が負けたからこうなったのかなって。基本的に、一人の人間が抱える現実と世界が抱える現実では重みが違いすぎる)。
人間の認識というのは自分達が思う以上に、曖昧であやふやで脆いものなんでしょうね。悲しいことに。
いかなる人間でも、死からは逃れられません。
そして。菅原は新たに人間である以上、逃れられないものにもう一つを追加したい。
忘却です。
死、忘却。
これらこそ、人がどれほど足掻いてもいずれ辿り着いてしまう境地だと思います。
先延ばしにはできます。しかし、これらを克服した存在はもう人間とは呼べません。なんなら生物ですらない。
人間は忘れることが出来る存在です。というか、嫌でも何かを忘れてしまう存在です。
我々は生きている以上、常に何かを忘れ続けています。
『君の名は。』が前代未聞の大ヒットを記録したのは、瀧くんと三葉が互いに忘れたくないものを忘れていく様が視聴者の心に深く響いたから、というのは確かな要因の一つなのではないでしょうか。
劇中の二人は互いの記憶を忘れてしまいます。
しかし。だからといって、全てを失った訳ではありません。
そう、想いは失っていないのです。
何もかもを失って、それでも想いだけは消えずに残った。
これだけ書くと、ものすごいファンタジーぽくなるというか。結局ご都合主義か? と思う人も出てくると思うんですよ。少なくとも菅原は思いました。我ながら捻くれた人間なんでしょうね。ホント。
でも、調べれば調べるほど馬鹿に出来ないんですよ。
相対理論という理論の名前は、誰しも一回は確実にあるでしょう。かの有名なアインシュタインが発表した理論です。
くっそ省略しまくって、この話に必要な部分を抜き出すとですね、
【重力は時間と空間をねじ曲げる】
だそうです。
要するに、重力は我々が住む世界の物理法則をねじ曲げるというトンデモ理論なんですよ。
最近重力波がマジで観測されたらしいんで、んなわけねーわと笑い飛ばすことは出来ません。
こんな理論を持ってきて、菅原が何を言いたいのかと言うと。
重力は想いです。
重力=想い。
大事なことなので、二度言いました。
二人の入れ替わりを示す証拠品であるメモは消され、互いの記憶はあの世を出て行った対価に奪われてしまいました。
だけど、好きだという想いだけは何者にも奪われることは無かったのです。奪うことすら、消すことすら出来なかった。
会えないはずの二人がカタワレ時に会えたのは、境界が曖昧になる時間帯だったという理由だけでなく。互いに対する想いが世界の理を超越したからこそ、奇跡の逢瀬が叶ったのかもしれません。
本来、過去の存在が未来の存在に触れ合うことなど出来ません。時間は一方向に進むように定められているからです。
だからこそ、未来の存在が過去の存在に想いを伝えるというシチュエーションは本来ならばありえません。ありえてはいけません。
結局そのシチュエーションは、記憶を奪われるという形で事実上失われました。
でも、伝えられた想いは。時間や空間をねじ曲げる超パワーだけは奪えなかった。消えることもなかった。
そういうことなのではないでしょうか。
もう一つ。初見だと、三葉が瀧くんに自分の名前を書こうとしたように見えるんですけども。
これ、三葉もすきって書こうとしたんじゃないでしょうか。
一本線が長すぎると思うんです。みつは、と書くには。「三葉」って書こうとした説もあるとは思うけど、お前は誰だのアンサーとして、「みつは」って書いてるシーンと文字の形が違うように見えるので。
多分確定だと思います。
強いてもう一つ根拠を上げるなら。3年後の時間軸に瀧くんが戻った後にも、右手の手のひらのペンの文字が残ってるんですよ。長い一本線が。
それだけじゃなくて。三葉の名前を書き記すため、瀧くんは左手にもペンで文字を書こうとしていました。結局こちらは一の半分のような形になりましたが。
時間軸が戻って、俺何してるんだと呟いている時の瀧くん、右手の手のひらの文字に反応するけど、左手の手のひらを確認しないんですよね。
左手の手のひらに書こうとしたのは、みつはという名前。
右手の手のひらに書かれた文字は想いを示すものだったからこそ、残りました。
しかし。左手の手のひらに書いたのは、名前の書きかけ。
あれ、実はなかったことに修正されたんじゃないでしょうか。
この作品って、改めて深いですね(何度言うんだ)。
社会人瀧くんと社会人三葉が、自分の右手の手のひらを見つめるのは、無意識にかつての互いの想いの残滓を辿ろうとしていたのかもしれない。
そして、作中に登場する想いはこれだけじゃないんです。
一つ目。
これはあくまで菅原の推測なんですが、ティアマト彗星そのものが確たる想いを持っていたのではないでしょうか。
本来、あの彗星が地球に落ちる道理はありませんでした。
現実世界の物理法則に当て嵌めてもそうですし。作中でも彗星落下は、誰にも予想出来なかったイレギュラーだとほんのり触れられています。
なのに落ちた。
しかも、一度だけじゃないんです。
おそらく糸守に3回は落ちてますよ、あの彗星(確か、公式でも明言されてるはず)。
どう考えても、偶然な訳がありません。
何かしらの力が働いているのはほぼ確定でしょう。
で。その力こそ、想いではないかと菅原は愚行するのです。
想いと重力はイコールの関係です。
あの彗星は、糸守に惹きつけられる運命なんでしょう。これからも、この先も。
何故惹かれているのかは分かりません。
菅原には分かりませんが、己の半分と分かたれてなお、ティアマト彗星は糸守へと惹きつけられる。
もしかしたら、
Fall In Love.
恋に落ちる。
そういうことなんでしょうか。
二つ目。
宮水神社が継いできた舞、組紐、そして御神体の割れる彗星の絵もまた、想いを伝えていたのではなかろうか。
二人が対となって舞う舞は、割れる彗星を。組紐に編まれたデザインは、彗星が落ちてくることを暗示します。さらに御神体に書かれたあの二つに分かれた彗星は、後の世の人々に彗星のカタワレが落ちるよと伝えようとしたのではないでしょうか。
でも。火事に名前を付けられた可愛そうな繭五郎さんが事件を起こしたせいで、文字は焼失しました。
それでも形は受け継がれ、消えることはありません。
腐りきるほどに使い古された言葉ですが。
きっと、想いというのは全てを超えるものなんでしょうね。