名前が果たす役割とは。考察
「お前は誰だ 」
「君は誰? 」
「君の名前は? 」
作中、何度も何度も二人は互いの名前を問います。
菅原は、この作品におけるテーマの一つは名前だと断言します。
名前というのはそれほどまでに、本当にとても大事なものなのですよ。
当たり前のように一人一人につけられたそれは、その他大勢の人々を区別するための記号のようなもの。あくまで固有名詞でしかないのです。
それ自体は、その人物の背景も示さず、性根も分かりはしません。
なのに、たった一つの固有名詞を忘れるだけの事柄にどうして心を揺さぶられるのでしょう。
一見大したものではないように錯覚する、一人一人を区別するためにつけられた固有名詞。
それが、名前と呼ばれるモノの正体です。
どれほど太ろうが体の一部が欠けようが姿形を変化させようとも、唯一その人物を示し続ける、たった一つの目印。
人であるならば、誰しもが持ちうるもの。
ですが。何度も言うようですが、名前そのものは、名前を持つ者が何者なのかを語りません。
かつて三葉に入れ替わった瀧くんが、
「お前は誰だ 」
と三葉のノートを通じて問いました。
彼は、彼女が何と呼ばれていたかは知っていたはずです。だから彼が問うたのは、名前ではありません。
彼が知りたかったのは、あくまで【宮水三葉】と周囲の人々に呼ばれる彼女の内面そのものです。
しつこくしつこく繰り返しますが。名前など知ったところで、その人物の内面は分かりません。
だというのに、どうして彼、彼女が忘れてはいけないものであり。大事なものであり。忘れたくなかったものが、名前だったんでしょう?
それはおそらく。
彼、彼女を、その他大勢の、名も知らない人から区別できる特別な固有名詞であり。
彼、彼女が忘れたくなかった人を、その他大勢の人々と区別出来る、唯一といっていい手段だったからではないでしょうか。
瀧くんは、御神体の頂上で泣きながら叫びました。
「君の名前は––––––? 」
それは多分。彼、彼女にとって、特別な名前が引きずり出せるかもしれないという、一筋のほんのわずかな希望の祈りであり。けれど、名前が出てくることはないという、心からの絶望の叫びだったのかもしれません。
そして最後のシーン。
二人は再び出会って、
「君の名前は–––––– 」
で、小説版も漫画版も映画でも話が終わる訳です(彗星が落ちた後の三葉視点を見たくて、三巻だけ買いました。小説版も、電子書籍という形で結局買い戻した模様。)
ここって菅原が思うに、名前を聞いているって言うよりはですね。互いの名前を言い合ってるんじゃないでしょうか。
サブタイトルを思い出して下さい。
『your name.』ですよね。Who are you?じゃないんですよ。
念のため、映画に英語の字幕つけてラストシーン見てみました。
あと余談ですが、挿入歌が英語になるだけでも全然雰囲気変わりますよ。試しに見てみてビビった。やっぱ音楽って大切ですね…
ともかく英語の字幕は、
「君の名前は––––––(your name) 」
だったので、ほぼ確定なんじゃなかろうか。あくまで解釈の一つではあるんだけども。
いやでも、なんで最後の最後で名前言い合ってんの? 二人とも、お互いの忘れたんじゃないのかって思うかもしれません。
実際、二人は互いの記憶を忘れています。
作中の時間軸をおおまかに軽く整理するなら(菅原の解釈です)、
社会人になった瀧三。二人が出会う寸前
↓
互いの高校生時代。入れ替わったり、彗星やべーとなんやかんや翻弄する(夢の中で、かつての記憶を振り返ってる? 俗に言う回想シーン )
↓
電車ですれ違って、二人は再開
「君の名前は–––––– 」
まあこんなとこでしょう。
何が言いたいかって、二人とも記憶は忘れてるんです。でも、それは頭の中に保存されている記憶の話でして。
要するに、記憶とは頭の中だけ存在する訳では無いんです。二人が忘れたのは頭の中に存在する記憶のみ。ですが、体に宿った記憶は残っていた。
小説版にその辺は詳しく書かれてますが、彗星が落ちる日に入れ替わった二人は、体に宿る互いの記憶を読み取っています。
いてもたってもいられずに東京へ出かけて行った三葉の記憶。瀧くんはそれを、三葉自身の体から読み取ります。
三年ずれて入れ替わっていたこと、彗星が落ちて町の人々が死んだこと、自分も同じく死んでいたこと。三葉もまた、瀧くんの体から記憶を読み取っている。
ちなみに相手の体から記憶を読み取れたのは、口噛み酒を飲み、今まで以上に互いの魂が深くムスビついたからでしょう。
その後、やはり頭の中の記憶を二人は失ってしまう。でも。二人の記憶は、体の中に残っている。
体の中に記憶が残っているなら。
彼、彼女にとって特別な、忘れたくなかった人を指し示す名前を知っていてもおかしくは無いでしょう。
ああ、そうそう。
考察サイトを漁っていると興味深いものを見つけまして。
劇場販売パンフレットのvol.2で、新海監督は式ホームページで募集された質問の内の一つに、「何でタイトルに「。」をつけようと思い立ったんですか?」という質問があったらしくて。新海監督は次のように答えているらしいのです。
「君の名は」で途切れてしまう物語でもあるし、名を問う疑問系の物語でもあるし、名を知っていると確認し合う物語でもあります。そういう複数の意味を「。」に込めました。個人的には、今まで作ってきた作品の集大成のような気分もあったかもしれません。(『君の名は。Pamphlet vol.2』東宝(株)映像事業部、2016年、p.37)
菅原の解釈に当てはめるなら、
瀧くんと三葉の二人が、名前を通して互いの内面に対して疑問を問い。二人が名前を忘れて、互いの関係が途切れ。再開した二人が、互いの名前を確認しあって関係が新たにムスビつく(新たにではなく、再びともいえる)物語。
改めて深い作品だと思います。