お米を炊飯器ではなく鍋で炊く際の覚え書き
ドアを閉じ、靴を脱ごうとしたところで目が合った。
バイトを終え、下宿に戻ったあなたを待っていたのは一人の女だった。ワンルームマンションの、その中央に置かれたテーブル横にちょこんと座布団を敷いて座っている。
えーと、どういうこと? 当惑するあなたに向って、女が口を開いた。
「ただいまの言葉はないのですか? ずっと待っていたのに」
女は頬を膨らませていた。年頃は大学生であるあなたと同じくらいか。どうやらご機嫌斜めのようだ。
けれど、あなたにとっては知ったことではない。まったくもって見知らぬ顔だった。ようやくいうべき言葉が見つかる。
「あんた誰? どうやって家に入ったの? 警察呼ぶよ」
靴をまだ脱いでいなくてよかったと心底思いながら、あなたは玄関口からそう誰何する。色白で可愛らしい面立ちであろうと、一人暮らしの家に入り込んだ不法侵入者には違いない。たとえ着物姿という状況に似つかわしくない格好であってもだ。
「へえ、うふふふ。どうやって家に入ったかですって」
女は不敵に、でも少し卑屈な感じに笑みを浮かべた。顔にかかった黒髪をばさりとはねのけると、おもむろに立ち上がり、あなたを指さす。
「君がわたしたちにそんな科白を吐くなんてね。いいわ、そこまで言うなら教えてあげる。あっ、でも、話長くなるからとりあえず座ったら」
女の指先が上がり框よりわずかに室内際の床に向いた。
「い、いえ、このままで結構です」
ジーンズの後ろポケットにスマートフォンがあることをさりげなく確認しながら、あなたはそう返答する。いざとなったら緊急通報しよう。
「ふーん、座らないんだ。残念。痛そうな所に正座させて君を反省させようと思ったのに」
「……」
訳のわからなさが怖かった。脳内で多方面に当たってみたが、恨みを買ったような覚えはない。
「わたしたちがここに送られてきたのは去年の暮れのこと。そして、君はわたしたちを受け取った」
素早いといっていいのだろうか、気づくと女はあなたの目前にいた。うつむき、後ろ手になって喋っている。髪に隠れてその表情はわからない。
「暮れ……、年末に受け取った?」
今は四月上旬。あなたにとっては大学生活二年目に入った月だ。電波な話を解釈するに、女は三か月以上ここにいたことになる。
「ええ、そうよ。確かに十二月の終わりだった。そのときの君は良い引き取り手だった。わたしたちをすぐに日の当たらない納戸に置いてくれたのだから」
「な、ナンドって、収納スペース?」
あなたは戦慄しながら、チラッチラッと収納スペースの引き戸を見る。最後に戸を開けたのはいつだったろうか? それに『たち』? 複数形?
「呼び方なんてどうでもよいのです。ともかく、その収納スペースでわたしたちは待っていました。君が食べてくれるのを」
「は、い? え、食べる? あんたを?」
「それ以外に何があるというのです」
あなたが見る限り、女から性的な雰囲気は感じ取れなかった。それはつまり『食べる』を俗語として使っていないということだ。
いやな想像が脳を支配し、あなたはつばを飲み込むことさえも空恐ろしくなった。
「ずっとずっとわたしたちは食べられるのを待っていた。でも、もう耐えきれない。室内の温度が日増しに上がってきてる。このままじゃ、わたしたちは奴らに侵されてしまう」
「や、奴ら?」
「コクゾウムシにノシメマダラメイガです。あぁ、おぞましい。奴らに取り憑かれたわたしたちの好感度は果てしなく急降下。運が悪ければ、生ゴミ扱い。それはとても不名誉なのです」
「……は?」
あなたの恐怖は一瞬で霧散する。あなたの親もそれら害虫の名前をいっていたような気がする。驚嘆すべき解があなたの内から急激に浮かび上がってくる。
「まさか、あんたは」
「そうよ。わたしたちは君のおばあ様が送ってくれた――」
「……お米なのか」
「正解。ようやくわかってくれましたね。一刻も早くわたしたちを食すのです」
気づけば、あなたは米袋を抱いていた。昨年末に祖母が送ってくれたものだ。
「さあさあ、わたしたちを炊くのです」
「まだいる。まだ見える。オカルトだ」
「当然でーす」
女、もとい米の化身ちゃんの存在をあなたは未だに認識していた。
「君はわたしたちを何ヶ月も放置してたからね、ちゃんと食べてくれるまでは消えてあげないのです。目障りな感じにいてやるのです」
化身ちゃんはあなたの周りをエッサホッサと踊っている。
「いや、炊くの無理だし」
あなたはその主張を一蹴する。
「なーぜーでーすーかー」
盛大に転倒した化身ちゃんは寝っ転がったまま、上目遣いであなたに問いかけてくる。涙目だった。
「うち、炊飯器ないから」
「……えーと、君もしかして飯盒炊爨の経験なしの人?」
「キャンプとかしたことない人ですが、何か問題でも?」
「問題は今、起こっていると思うんだけど。うぅ、脅しが効いてない。夕食まだでしょう。どうするつもりだったのです?」
「インスタント食品と電子レンジは偉大なんですよ」
あなたは胸を張った。
「うわぁ。白米さまの前でそういうこといいますか、君は。そりゃあさ、最近の冷凍チャーハンなんかは国産米を使ったものも多いし、お手軽なのも認めるけど。炊きたてのご飯も良いと思いませんか? 炊飯器なくても炊けるよ。ホカホカだよ! おいしいですよ!」
「うん、わかった」
「あら、あっさりな」
あなたの素直な了解に化身ちゃんはきょとんとした顔をしていた。
「さすがにばあちゃんの厚意を無下にするわけにもいかないなと」
「忘れてたくせにです」
「まあ、そこは水に流してください」
「……なるほど。米を研ぐにかけた言い訳ですか。これは一本取られましたですね」
「あー、うん。そうかな」
そんなことは考えていなかったあなたであったが、米を食べる気にはなっていた。
「じゃあ、始めましょう。さて、何合炊きますか?」
化身ちゃんがニコニコ顔であなたに問いかけてくる。
「ごう? カップじゃなく?」
いきなり齟齬が生まれた。
「むー、そっからですか。普通、計量カップといえば何ミリリットルまで計れるか知ってます?」
「えーと、たしか二〇〇」
「そっ、正解です。でもですね、米を計るためのカップは一八〇ミリリットルで一杯なんです。つまり、一合は一八〇ミリリットル。米の重さでいえば、一五〇グラムほどです」
「へえ」
「君は若人ですし、とりあえず二合炊きましょうか。というわけでカップを出してくださいです」
「わかった。ちょっと待ってて」
どこかに多分あったと、あなたはシンク下の扉を開け、内部を物色する。
「……おーい、まだですかー」
「も、もう少し」
「おおーい」
「まーだー」
「泣くぞー」
「あった!」
たっぷりの時間をかけて、あなたは計量カップを見つけ出す。床には鍋やらフライパンやら様々な台所用品が散乱していた。カップは通常タイプのものだ。
「前途多難です。君は本当に料理をしないんですね」
床を眺めながら、化身ちゃんがあきれた声を出す。
「まあ、いいです。今から使うものも全部出てきましたし。じゃあ、そこのボールに米二合を入れてください。カップは普通のだから、間違えないように」
「うん」
あなたは化学実験をやるような手つきでカップの一八〇の目盛りまで米を入れ、ボールに移す。それを二回やった。
「よし、できた」
「その調子じゃ、米の研ぎ方もしっかり教えないと駄目ですね」
「おっしゃるとおりで」
「まあ、最近の流通米はしっかりと精米してあるから大丈夫でしょう。とはいえ、シンクのゴミ受けに行きたくはないので、ザルを用意しておいてくださいです」
「わかった」
「まずは一回目のすすぎですけど、これはものすごく手早く。ボールに水を入れて、ひと掻きしたら、すぐに水を捨てるのです。ゆっくりしていると米が周りの汚れを水と一緒に吸い込んじゃいますからね。はい、実践」
「イエッサー」
あなたは早速取りかかる。米の入ったボールに七割ほど水を入れ、一回かき混ぜ、注ぎ口に手を当てながら、その水を捨てる。
「あぁ、米が」
水と一緒に米の一部がボールからバイバイしている。
「大丈夫。ザルが受け止めますから。ともかく水を捨ててください」
「……ちょっと焦った」
あなたはなんとか水を捨てきった。
「最初はそんなものです。及第点はあげますから、ザルに落ちた米をボールに戻してくださいね」
「厳しいなあ」
「うっふっふ。次に米をかき混ぜてください。手には余り力を入れずに、全体をうまく回してください。とりあえず二、三十回ほど」
実践する。
「できたと思う」
「じゃあ、水を入れて研ぎ汁を追い出しちゃいましょう。あっ、水を捨てる前に一回くるりとしてください。ボールの底に濃い研ぎ汁があるので」
「やってみる」
今度はザルに米は落ちなかった。
「なかなかいい感じです。今の要領であと二回水を入れては捨ててください」
「やれた。……あのさ、この米の研ぐ作業ってザルでやったら駄目なん?」
「君がわたしたちを金物で傷ものや欠けたものにしたいっていうのなら、やってもいいですよ」
「すいませんでしたぁ」
あなたは化身ちゃんに冷たい目で見られ、平伏する。
「わかればよろしい。さっ、次の手順、浸水にゆきますですよ」
「お米を水に浸けるんだよね」
「はい、あなたの手によりわたしたちは水攻めにあうのです」
「再度の土下座要求!?」
「冗談です。本当の理由は米を芯からふっくらと炊き上げるためです。あっ、それ取ってください」
「これ」「そうです」
あなたが化身ちゃんにいわれ、手に取ったのは蓋付きのアルミ鍋だった。口の径は十五センチ、高さは十センチほどの品だ。ずっしりとしている。
「その鍋で米を炊いちゃいます。浸水が終わったら、そのまま炊きに入りますから水の量は適量で。二合なので四〇〇ミリリットル注いでください」
「入れたよ。まだ水にごってる感じだけどいいの?」
「いいんです。それ以上研いだら米の栄養が逃げちゃいますよ」
「なるほど」
「では、一時間待ちます」
「一時間も!」
「一時間です。夏場ならもう少し短くてもいいですけどね。それにただ待ってるだけじゃないです。今の間にご飯のおかずを作っちゃいましょう。君は何が好きですか?」
あなたはしばし考える。ご飯のおかずになって、自分の好きなものはなんだろうか。
「生姜焼きかな」
そう答える。好きなものでもあるし、これなら自分でも作れるのではなかろうか。
「なるほど」化身ちゃんは頷くと、床の台所用品をざっと眺めた。「それなら、これからいう食材を買ってきてください」
「いってきます」
あなたはメモ片手に下宿近所のスーパーマーケットに向かう。
「ただいま」
「おかえりなさい。早かったですね。全部手に入りました?」
「入った」
「よしっ。優をあげましょう」
「やたっ、と喜んでいいのだろうか」
「いいのです。では、小松菜から処理しましょう」
「ほいっ。きた」
あなたは自分の返事が軽やかなことに気づく。料理が楽しくなってきているのだ。小松菜を袋から取り出す。
「洗います。根元の方は特に念入りに。さっきのボールに水をためて、そこで土をしっかりと落としましょう」
「できた」
「はい。次は小松菜さんを粗みじんにします。包丁は使えますか?」
化身ちゃんが心配げな顔を見せる。
「粗みじんってどれぐらい?」
「四、五ミリぐらいですね。葉の方はもうちょっと大きくても問題ないですが」
「それぐらいだったらやれると思う」
あなたはまな板に小松菜をのせ、包丁を持った。
「下から一センチぐらいは切り落としちゃうのです」
「よしっ」
ザクッ。根が俎上を転がり、ポテっとシンクに落ちる。
「ふー。成功ですね。その調子です。気をつけて頑張るのです」
小松菜の粗みじん切りが始まる。
「ふー、ふー、ふー」
「完了っと」
「うん、怪我なくできましたね。葉の方が大きくなっちゃったのはご愛敬ですが。その勢いと慎重さを保ったまま、生姜をやっつけましょう。洗って、ピーラーで皮をむきます」
「それはさすがに簡単じゃないかな」
「いえいえ、ピーラーは意外に危険です。指先をもっていかれないようにしないといけません」
「それは怖い。量はどれぐらい?」
「豚の挽肉が二四〇グラムほどですから、その十分の一ぐらいは欲しいですね」
あなたは気を引き締めて実行し、成功する。
「うんうん、というわけでここで一時間たちましたね」
「あっ、もう。――ほんとだ」
「ここからは米の炊きとおかず作りとを同時並行でやりましょう」
「いきなり難易度が上がってない?」
「実は米の方はここからは簡単です。コンロに鍋をかけてください。もちろん、蓋はしてくださいね。ガスは火力が良いので強火ではなく、中火で」
「うん。こんなもん?」
「そんなもんです。覚えておいてください」
あなたと化身ちゃんは二人並んで腰をかがめ、火の勢いを確かめた。
「さて、おかず作りに戻ります。豚の挽肉をフライパンで炒めるのです」
「油はひく?」
「挽肉から出る分で充分です。こちらも中火でゆきますよ。ヘラで挽肉を切るように混ぜるのです」
「おし」
「ある程度熱が入ってきたら、弱火にして、おろし金で生姜をすり入れてください。当然ですが、怪我には気をつけて。それが済んだら、中火に戻してまた混ぜます」
「わかった。あっ、湯気発見。えっと、どうする?」
鍋と蓋の合間から蒸気が出始めたようだ。ブツブツグツグツと音もしている。これは忙しいとあなたは思う。
「鍋が沸騰したんです。大丈夫。あと数分は放置でかまいません」
「それは助かる」あなたはフライパンに集中する。
「そろそろ鍋の火を弱火に」
沸騰の発見からおよそ二分が過ぎた頃、あなたにそう指令が下る。
「そのまま十分ほど再び放置です」
「えっ、焦げない?」
「大丈夫です。それにお焦げもおいしいですよ」
「なるほど」
「さっ、フライパンに小松菜も入れましょう。まずは根っこに近い方から炒めますよ。炒まってきたら葉も投入です。頑張れ、あとちょっとです」
「おう」
「最後に塩を軽く振って、醤油を少量入れてください。入れすぎに注意して、素早く周囲を一周させる感じです」
「これぐらい?」
「はい。じゃあ、パッパッと全体をかき混ぜて、火を止めてください。これでおかずは完成です」
「おー」
「器に盛ったら、米の仕上げに入りますよ」
「で、何するの?」
「何もしません。時間が来たら、今度は火を止めて、そのまま蓋を開けずに十分間またまた放置です。これが蒸らし。――さあ、見てください。炊けましたよ」
「きれいだ」「ありがとうございます」
鍋の中の炊きたての米をあなたは美しいと感じた。
「さっ、しゃもじでご飯を混ぜて、お茶碗につぎましょう。おかずと一緒にわたしたちを食してください。どうです?」
「ものすっごくおいしい」
あなたは美味しさに震えた。
「でしょう」
化身ちゃんが微笑む。
パクパクパク。あなたの箸は止まらなくなっていた。そして――、
「ごちそうさま」
二合の米と米の化身ちゃんは消え去っていた。