クリスマスとコーヒーカップ
「ピクルスとコーヒーカップ」の続きです。良ければ読んでみてください。
彼女の前にコーヒーを運ぶとき、僕はいつも安らぎと安定を感じる。気分が落ち着いて、頭がクリアになる、そんな感覚だ。
おそらくそれは、運んでいるマンデリンのせいだろう。マンデリンの香りには集中力を高める効果があると、どこかで聞いた気がする。だが、もしかするとそれだけが理由ではないのかもしれない。最近はそう、感じるようになっていた。
コーヒーカップで繋がる彼女との関係が少しだけ変わってから、いくらかの時間が流れた。気がつけば今年も残るところ二ヶ月となり、光陰矢のごとし、という言葉が頭に浮かぶ。
僕らの間に変化らしい変化はないが、マンデリンで満たしたコーヒーカップと一緒に、時々、ピクルスたっぷりのハンバーガーが入ってくるようになった。だから、僕らの関係をつなぐ物リスト―そんなものがあればだが―には、コーヒーカップだけでなくピクルスとハンバーガーも、そろそろ加えてやらねばならないかもしれない。
僕が彼女のハンバーガーを作るとき、ピクルスは欠かすことができない。僕と彼女の共通の好物であるし、ピクルスの入っていないハンバーガーは、僕らの共通の嫌いなものであるからだ。だから、ピクルスはたっぷり入れる。真ん中に一枚、それを囲むようにして四枚、どこから食べてもピクルスにあたるようにするのが正義である。
そのように置かれたピクルスを上から見ると、花びらのように見えるということに彼女は気がついているだろうか。密かに受け渡されているその花の存在に気がついてほしいと思うこともあるし、気がついてほしくないと思うこともある。
僕の彼女に対する気持ちは自分でもはっきりとはわからず、だからこそ、大きく関係を変えていくことに、恐怖を感じているのだと思う。しかし、今のままで終わってしまうということにも、同じように恐怖していると思う。
僕らの関係はいわばコーヒーカップでキャッチボールをしているようなもので、もし僕が攻めた球を投げ、彼女が受け取ってくれなければカップはガシャン、と割れて元には戻らないだろう。
だから僕はいつも手に持つマンデリンの香りで気分を落ち着け、変な球を投げてしまわないよう冷静になりつつ彼女のもとにコーヒーを運ぶのだ。
「日本のクリスマスは早すぎると思わない?」
唐突に彼女が言った。僕は黙ってコーヒーを彼女の前に置き、彼女は言葉を続ける。
「今朝朝駅を通ったら、既にクリスマスツリーが飾られていたわ。ご丁寧に装飾までつけて。昨日までハロウィンだなんだって騒いでいたと思えば、十一月に入った途端にクリスマスツリーだもの。あの切り替えの早さには毎年驚かされるわ」
「確かに、アドベントだとしても、あれは四週間前からですもんねぇ」
と僕は返す。
「アド…?冒険がどうかしたの?」
「アドベンチャーではなく、アドベントです。簡単に言えばクリスマスの準備期間のことですよ。十二月二十五日の四週間前から準備をし始めるんです。まあ国や地方によって変わると思いますが。外国は二十五日を過ぎてもクリスマスムードが年明けまで続くらしいですし」
土曜日の午前中でお客がいないのを良いことに、僕はおしゃべりに興じる。思えば彼女との会話も、ずいぶん長く続くようになったものだ。
「そうなの…だとすれば、二ヶ月近く前からクリスマスムードを作り出す日本も、間違いではないのかもしれないわね。ただやはり日本の場合は、十二月二十五日を過ぎれば今度はすぐお正月モードに入るんでしょうね」
なぜ余韻を楽しむということをしないのかしら、と言いながら彼女は首を振り、コーヒーを啜った。
「確かに、イベントというか、季節の催しごとの余韻を味わうという感覚はあまり感じられませんね。街中のクリスマスツリーの裏には既に門松が用意してあるに違いない、なんて何かの本に書いてありましたし。まあ良く言えば切り替えが早い、ってことなんでしょうが…」
そう僕が言うと、彼女は人差し指を立て、少し強めの口調で言った。彼女にしては珍しいことだ。
「私はね、クリスマスやお正月の直後の町の雰囲気がとても好きなの。文化祭の終わったすぐ後の校舎というか、お祭の活気と、それが終わるときの切なさの割合がちょうど半分ずつの瞬間がね。もちろん当日は当日で好きよ?でも、活気だけじゃない、なんとも言えない終わりの侘しさと混じりあった空気というのかしら。ああ、今年のクリスマスは、お正月は終わってしまったんだ、次にこの楽しさを味わえるのは一年後なのね、と思うと、より一層特別感が感じられるのよ。そう、このマンデリンと同じね。口に入れた瞬間も良いのだけれど、飲み込んでからの数秒間、舌に残るほのかな苦味を感じるのがまた良いのよ」
そう言って彼女はコーヒーを幸せそうに飲んだ。僕はマンデリンの苦味を思い出してみようとしたが、久しく飲んでいないのでわからなかった。
「僕は、考えたことがありませんでしたね…。基本的にただ通過するだけのイベントですからね」
事実、ここ数年予定が入ったことはないし、今年も埋まる予定はなかった。
「あら、あなたはクリスマスの予定はないのかしら」
「ええ、生憎聖夜にこんな男の話に付き合ってくれる女性はいないもので。そういえば、そろそろブランチでもどうです?」
さすがに仕事に戻らねば、と思い僕は話題を変えた。彼女は少し考える素振りを見せ、何かを自分の中で決意するように頷く。そして、
「じゃあハンバーガーをお願いするわ。ピクルスはちゃんと花びら仕様でね。あと私は…、あなたとお話しするの、嫌いじゃないわ」
と言った。僕の初めて見る種類の微笑みを浮かべて。
穏やかな秋の日差しが溶け込んだような、優しく、柔らかい笑みだった。
その後の僕の言動について振り返るとすれば、きっと「気が高ぶっていた」というしかないと思う。彼女のあの優しげな微笑を初めて見たことと、ピクルスを花びら型において出していたのを気づかれていたこと。極め付けにあの言葉。以上三つの要素により、僕の心は高揚していたのだろう。いや、そうに違いない。でなければ、あのような真似を臆病者の僕がするはずがないのだ。
自分から剛速球でコーヒーカップを投げるような真似を。
「ごめんなさい、もう一度言ってもらえるかしら」
僕の言葉を聞いた彼女はこう言った。僕は恥ずかしさと既に湧き始めた後悔の念を必死に押しとどめ、先ほどのせりふを繰り返す。
「十二月二十五日の夜、ご飯でもいかがですか?なんならそのままこの店に来て、マンデリンを飲みながら夜を明かして、朝の町を歩いて余韻を楽しみましょう」
クリスマス、という言葉を使わないのは、羞恥心を少しでも和らげるためだろう、と自分で自分を分析する。しかし結局相手に伝わる意味は変わらないのだから、言葉を口に出すのが少しだけ楽になる程度のくだらない小細工だ。
彼女はといえば、目を丸くしながらコーヒーカップを口に運ぶ。そして口を押さえて顔を背けた。ちらっと見えた口角は、上がっていたような気がする。
「ごめんなさい、コーヒーが苦くて…」
そう言うと彼女はわざとらしく咳払いをし、いつものすまし顔に戻って僕に向き直った。
さて、なんとか彼女は僕の投げたカップを受け取ってくれたようである。
店が終わったあと、自分でマンデリンを入れてゆっくりと香りをかいでみる。香りが体十に広がっていくにつれて、段々と冷静を取り戻していく。
僕は高揚感に釣られて勇気を振り絞り、彼女に言葉を伝えた気でいた。しかし良く考えてみると、彼女にうまいこと誘導されていたような気がしてならない。
突然のクリスマスの話、僕の気を高ぶらせた三つの要素。
そしていつもマンデリンしか飲まない彼女が、顔を背けるほど苦味に弱いわけがない。何か表情を隠そうとしていたのではないだろうか。うれしくてにやける口を必死に隠そうとしていたのだったらかわいいな、などと考える自分がなんだか気持ち悪くて、マンデリンを一気に飲み干す。
彼女が好きだというほろ苦さが、僕の舌を通り抜けていった。