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彼女と彼の事情

 キラの目の前でヒラヒラと手が振られる。

 前髪を揺らすほどの距離でのそれに、彼女は思わずビクリと背を反らした。肩甲骨に椅子の背もたれがゴリ、と当って、小さな呻き声を漏らしてしまう。

「あ、いた……」

「あたしの話、聞いてなかった?」

 唇を尖らせた手の持ち主――桃子とうこに、キラはごまかすような笑いを返す。

 この場所はデイルーム、今は見舞いに来てくれた彼女と限られたひと時を過ごしているところだった。

「ごめん……ちょっとぼうっとしてて」

「もう! だから、文化祭には来られそうかって、訊いたんだけど?」

「ん、多分、行けるとは思うんだけど」

 キラは言葉を濁した。

 はっきりとは、言えない。

 岩崎に九月からの登校は無理だと言われたのは、夏休みが終わる一週間ほど前のことだったから。


「極端に悪くはなっていないが、もう少し入院で様子を観たい」

 彼のその言葉の裏にあるのは、わずかとはいえ入院前よりも悪くなっている、ということだ。幸い、裕子ゆうこは素直に「悪くなっていない」というところを喜んでいたけれど。

 あの時、病院を抜け出して海に行かなければ、検査の結果はもっと良かったのだろうか。

 そんな考えがキラの頭の中をよぎったけれど、そうではないことは判っていた。この身体とは、十七年付き合ってきている――誰よりもよく知っている。

 今回の結果は、あれとは関係ない。仮にまるまる一ヶ月間ずっとベッドの上でジッとしていたとしても、きっと同じ結果になっていた。

 アレをしなければもっと良かった筈、悪かったのはアレの所為などと現実から目を逸らすことはしたくなかった。


 キラは、笑う。桃子に笑顔以外は見せたくない。

「できたら退院していたいけど、ダメだったら外出許可もらうよ」

「え……だって、文化祭って十一月だよ?」

 表情を曇らせた桃子に、キラは手を振って「あはは」と声を上げた。

「ダメだったら、だよ。岩崎先生は慎重派だから。あ、そう言えば、今井君は? この間も来なかったよね」

 つらつらっと、何となくの流れでキラはそう尋ねた。

 桃子は合宿以来、三回ほど面会に来てくれている。けれど、それはどれも彼女一人きりだった。隆と桃子はセットのイメージだから、彼女しか見ていないというのは違和感がある。

 そこに特に深い意味はなく、軽く話を逸らそうとしただけのキラの問いかけだった。

 ――キラにとってはそのつもりだったけれど、桃子にはクリーンヒットのダメージを与えたらしい。


「桃子?」

 グッと言葉を詰まらせた彼女に、キラは首をかしげる。

「ケンカでもしたの? 珍しいね」

 ケンカをするほど仲がいいというのか、二人はよくもめる。ケンカというか、桃子が隆を振り回すと言った方が正しいのかもしれないけれど。

 それに、たいてい、隆が折れて仲直りをする――彼の方にこれっぽっちも非がなかったとしても。

 きっと惚れた弱みで、桃子が多少の無茶を言っても隆はぶちぶち言いながらそれに応じているのだ。隆には災難かもしれないけれど、そんな二人の遣り取りは傍で見ていると微笑ましくなる。

 キラがジッと彼女を見つめていると、フイと視線を外された。その様子も、桃子らしくない。


「ケンカって、いうかさぁ」

 珍しく桃子の歯切れが悪い。俯いて、携帯を手のひらでひっくり返したりしている。

 ここは突っ込んで訊くべきなのだろうか。

 性格的には社交性があるキラだったけれども、反面、経験不足な為か対人スキルはあまり持ち合わせていないかもしれない。こういう時にどこまで踏み込んでもいいものなのか、その判断が難しかった。

(桃子は訊かれたい? 訊かれたくない?)

 胸の中でそう呟くけれど、当然答えが返ってくるはずもない。

 無言で彼女を見つめ続け、結局、動いてくれたのは桃子の方だった。

 キラに彼女がチラリと目を走らせ、そしてまた少し間を置いて、言う。


「隆に告られた」

「え」

「合宿の時。急に、好きだ――って」

「そうなんだぁ」

 どんな重大なことが明かされるのかと思ったら。

 気の抜けた返事をしたキラに、桃子が眉をしかめる。

「何よ、驚かないの?」

「驚くも何も……多分さ、クラスの半分は、今井君の気持ち、知ってたと思うよ……?」

 おずおずと、控えめに言ってみる。実際は、半分どころかほぼ全員だろうけれど。

 桃子はキラの言葉に一瞬固まり、そしてガタンと音を立てて立ち上がった。その拍子に椅子がひっくり返る。


「はあ、何それ!?」

 桃子は素っ頓狂な声でそう叫んでしまってから今いるのがどこなのかを思い出したようで、ハッと口を押さえて周りを見回し、彼女を見つめている他の患者や面会客に愛想笑いを返した。そして、再び腰を下ろす。

「何で、もしかしてキラも気付いてたの?」

「あ……うん……ごめん……」

「謝ることじゃないけど――」

 呻きながら、桃子はテーブルに突っ伏して頭を抱えこんだ。

 何だか低い唸り声のようなものが聞こえてくる。

 その様子を見守りながら、キラはそっと声をかけた。

「で、さ。今井君にはなんて答えたの?」

「……」


 最初の返事は、もごもごとくぐもっていてキラの耳まで届かなかった。

「え、ごめん、聞こえなかった。何?」

 少し顔を近付けて、もう一度問う。

「――笑っちゃったの」

「え」

「笑って、まさかぁって、言っちゃったの! そしたらあいつ、すごく情けなさそうな顔になって、それっきりあたしと目を合わそうともしないの!」

 桃子のその台詞に呆気に取られたキラは、ポカンと彼女を見つめる。と、桃子は勢いよく身体を起こした。

「だって! ずっと親友だと思ってたんだもん! 急にそんなこと言われたって、笑うしかないじゃん!」

「桃子……」

「あたし、キラに無理させたかなってちょっと落ち込んじゃってさ。そしたら、あいつが急に……」

 桃子は拗ねたように肘をついて、半分腕で顔を隠している。その隙間から見える赤くなった頬が、可愛いと思った。可愛いけれど、困惑しているのがまざまざと伝わってくる。


(こういう時って、どうしたらいいんだろう)

 桃子はいつも手を差し伸べてくれる側だった。今は、キラの方からそうするべきなのだろうけれど。

 キラは小さく首をかしげて、言ってみる。

「じゃあさ、この機会にちょっと考えてみたら?」

「ムリだよ、わかんない」

 むっつりとそう言った桃子を、キラは両手をテーブルに置いて覗き込んだ。

「でも、そこをちゃんとしないと今井君も桃子の傍に戻って来られないんじゃない?」

「……だって、あいつのことは好きだよ? けど、だからって、そういう『好き』かっていうと、それは……」

 続く台詞は桃子の口の中にもごもごと消えていく。言葉ではなくその表情が、何よりも雄弁に彼女の心の内を明かしていると思うのだけれども。

 キラは微笑みたくなるのを堪えて、続けた。


「せめて、今はまだ判らないってことだけでも、伝えてあげたら? そうしたら、今井君ももう少しだけ待ってくれるんじゃない?」

「そんなの、そんなふうに想われてるって思いながら一緒になんていられないよ」

 ぼそぼそとテーブルに向かって言う桃子。

 桃子の気持ちも解かるけれど、経験の乏しいキラにもそれではいけないだろうということは、判った。

「じゃあさ、このまま、一生、今井君と話をしたり一緒に遊んだりできなくなっても、いいの?」

 キラの言葉に、桃子がばっと伏せていた顔を上げる。

「それはイヤ!」

 強い口調でそう言った彼女の目は大きく見開かれていた。まるで、そんなことは考えてもいなかったかのように。


「今井君は桃子のことが好きだから、もしかしたらそのうち全部なかったことにして戻って来てくれるかもしれないけれど、それでもいいの? そんなふうに、今井君に我慢させても? ただ、今井君が折れてくるのを待ってるだけで? ……何だか、桃子らしくないと思うな」

 キラと桃子が友達になれたのは、さりげなくキラが心に張り巡らせていた柵を、桃子が躊躇わず乗り越えてきてくれたからだ。人によっては図々しいとすら感じるかもしれない率直さと明るさで、彼女はキラに歩み寄ってくれた。

 桃子がそうしてくれなかったら、きっとキラは今も独りだった。

 キラは桃子からたくさんのものを与えてもらったから、少しでも何かを返したいとは思うのだけれども。

 ジッと桃子に注いだキラの視線の中、彼女は唐突に立ち上がった。


「桃子?」

「……あたし、帰るね」

(怒らせた?)

 おろおろと立ち上がって桃子の背中を見つめても、ケンカなど今までしたことのないキラには、そこから発散されているものが何なのかを読み取ることができなかった。

 追い掛けることもできずにいるキラが見守る中、桃子が歩き出し、そして数歩進んだところで立ち止まる。

 一拍おいて、彼女が振り返った。

 そこに浮かんでいるのが笑顔で、キラはホッとする。いつもの晴れやかなものではなかったけれど、それは確かに笑みだった。


「あたし、ちょっと考えてみる。……そうだよね、はっきりさせないのは、あたしらしくないや。隆もだけど、あたしもこんなモヤモヤしてるの、イヤだもん」

「桃子……」

「また来るね。今度は、隆も一緒だといいんだけど」

「うん、そうだね。待ってる」

 心の底からそうなることを祈って頷いたキラに、桃子がパッと笑顔を返す。

「期待してて」

 そう言って、ヒラヒラと片手を振って、彼女は軽い足取りでデイルームを出て行った。

 桃子の姿が完全に視界から消えてしまうと、キラの胸は今さらドキドキとし始める。『友達』に対してあんなふうに『意見』するのは初めてだった。

 ――上手に話を合わせるのではなく、はっきりと自分の思っていることを言う。

 これまで、クラスの中ではみんなと笑顔でいられるようにと過ごしてきた。当たり障りなく、良くも悪くも相手の心に波を立てないように。

 別に努力をして、というわけではない……多少は、意識してやっていた部分もあるかもしれないけれど、そもそもそこまで強く踏み込みたくなるような人がいなかったのだ。


 もちろん、桃子に嫌われたくはない。

 けれど、彼女が悩んでいるのに、笑ってそれを聞き流すだけではいられなかった。

 キラは椅子の背に寄り掛かって、ホッと小さなため息をつく。

 目を閉じて、二人がうまくいってくれるといいな、と願った。

 隆は桃子が好き。

 それは、見え見えだった。

 桃子も、多分隆が好き。

 そうでなければ、あんなふうに悩まないのではないだろうか。少なくとも、とても大事な相手であるのは間違いない。


(『好き』と『大事』は違うのかな)

 キラはふとそんなことを胸の中でつぶやいた。

 人が人に注ぐ想いはいろいろある。

 キラはこんな身体だから、きっと人よりも多くの想いを受け取っている。けれどそれは、『心配』とか『保護欲』とか、一方的に向けられるものが多い。

 ありがたくて嬉しいけれど、何かが物足りない。

 不意に、先ほどの桃子の様子が頭の中に浮かんだ。


(人を好きになるって、どんな感じなんだろう)

 自分が誰かを好きになるとしたら、それはどんな人なのだろうか。

 そんなふうに考えて、パッと一瞬、キラの頭の中に影が揺らめいた。

 予想外のその姿に思わずキラの目蓋が上がって、それと同時に、その面影もキレイに消え去ってしまう。

 キラは、しばらく固まっていた。

 何故、あの人が出てきたのだろう。

 心の中で、そう自問する。

 彼はきっとキラのことを面倒に思っているに違いないのに。

 いろいろ迷惑をかけたし、なんでか、つい反抗的な態度を取ってしまう。

 キラにしても、彼には子ども扱いされてるばかりだし。

 まあ、確かに、海で彼女をおぶって浜辺を歩いてくれた時は嬉しかったし何故かヘンな打ち明け話をしてしまったけれど。


(好きになる要素なんて、一つもないじゃない?)

 椅子に座って、背筋を伸ばして、『好きになる要素』なるものがどういうものなのかも知らないままに自分自身にそう言い聞かせてみても、キラの胸の中のザワザワは少しも落ち着いてはくれなかった。

「ちょっと、気分転換してこよ……」

 何となく言い訳がましく呟き、立ち上がる。

 一度ナースステーションに立ち寄って、看護師の一人に声をかけた。

「あの、屋上に行ってきます」

 呼びかけられた看護師は時計をチラリと見やって、頷く。

「ゆっくりね? 時計は持った?」

「はい」

 ニコリと笑って、手首にしているものを見せた。

 そうして、病棟を出てエレベーターで最上階まで行き、残りの一階分を、一段一段休むようにして上る。


 外へとつながる扉を押し開けると、九月の陽射しで温められたコンクリートの熱気が頬を撫でた。

 病院の中にいると季節の移り変わりに疎くなるけれど、もう九月も半ばまで来ている。じきに、この空気もヒヤリとしたものに変わるのだろう。

「それまでに帰れたらいいんだけどな」

 こぼしてはみても、その見込みは薄い。

 ため息混じりにいつもの定位置に向かおうとして、キラの視界にはためく白いものが入り込んだ。

(あ……)

 思わず、取って返してしまいそうになる。

 その人に、会いたくなかったわけではない。

 ただ、ついさっき有り得ない流れでチラリと頭に浮かんでしまった彼を目の当たりにして、妙に落ち着かない気分になってしまったのだ。


(違う、違うから。好きとか、そんなんじゃないから。たまたま思い出しただけだから)

 くどいほどに自分自身に言い聞かせながら踵を返しかけたキラの機先を制して、その人が声をかけてきた。

「また、こんな所に来ているのか」

 むっつりとした声に、彼女は固まる。怒っているように聞こえるけれど、別に怒っているわけではないのだと判り始めた、その声に。

たき先生……」

 その名をつぶやき、立ち止まったまま、大股で近付いてくる彼を見つめていた。


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