生きる、ということ
真っ青に晴れ渡る空と、その色を映した真っ青な海。
初めて嗅ぐ潮の匂いは、何故か少し懐かしい感じがする。
盛夏の太陽が輝き、今のところ、空には雲がいくつかあるだけだ。
砂浜に腰をおろし、きゃあきゃあと騒ぐみんなの声を耳から耳へと聞き流しながら、キラは後悔していた。
そう、熟考してから行動するのが常の彼女らしくもなく、しでかしてしまった後で、悔やんでいたのだ。
(ああ、もう、絶対みんな心配してるよね)
胸の中で呟くと、両親や看護師たち、岩崎の顔が次々にキラの頭に現れる。
昼を回っているから、流石にキラが院内にいないことはバレているだろう。
もしかしたら、もう親にも連絡が行っているかもしれない。
(ママ、パニック状態だろうな)
取り乱している裕子と、それを何とか落ち着かせようとする父、正孝の姿がありありとキラの目蓋の裏に浮かんでくる。
見舞ってくれた桃子から合宿のしおりを渡された時、多分行けないだろうな、と思っていたのだ。岩崎から駄目だと言われたら、素直にそれに従おう、と。
それなのに。
「もう。瀧先生がいけないんだから」
体育座りの膝に回した腕に顔を埋め、ぼやく。
不意打ちで現れた彼が頭ごなしにダメ出しするから、つい、反抗的になってしまった。
自分は聞き分けがいい方だと、キラはずっと信じていたのに。
両親も岩崎も――清一郎も、彼女のことを心配してくれているのはよく解かっているし、色々な制限なども自分には必要なことなのだと、受け入れていた。
それなのに。
「なんで、やっちゃったかな……」
主治医の岩崎に確認するより先に清一郎に合宿参加にダメ出しされて、その日の夕には桃子に「参加するよ」とメールを送っていた。
もちろん、翌朝回診に来た岩崎にもやんわりと許可はできない、と言われたのだけれども。
その時点で、桃子に不参加の連絡を入れるべきだった。
それは、判っている。でも、そのままにしてしまった。
いつもなら、何かしたいと思っても理性がちゃんとコントロールしてくれて、それが赦される範囲か我慢するべきか、考えられる。けれど今回は、清一郎に対する反抗心が行きたい気持ちを後押ししてしまった。
今朝、こっそり病室を抜け出して顧問の田中の運転する車に乗り込んだ時は、少しワクワクしていた。
車の中で桃子とお菓子を分け合ったりするのも、楽しかった。
ホテルに着いて、砂浜に出て、生まれて初めて水平線を目にした時には、感動した。
けれど、昼に近付くにつれて看護師がそろそろ気付いたかな、と思い始めて、途端に自分のしでかしたことがヒシヒシと身に迫ってきた。
(せめて、電話の一本も入れた方がいいのは、判ってるんだけど……)
キラは、今日何度目になるか判らない特大のため息を、砂に向かって吐き出した。
と、その時だ。
「君は死にたいのか」
突然背後から降ってきた、淡々とした、けれど聞き慣れているのよりも少し語尾の尖った、声。
ビクッと肩を震わせ髪が浮くほどに勢いよく、振り返る。
「瀧、先生……」
そこに立っている人物を、キラは呆然と見上げた。
何故彼がここにいるのか判らないけれど紛れもなく、瀧清一郎だ。
「まったく、君は何を考えているんだ?」
キラの頭が回転し始めるより先に、清一郎が眉間に深いしわを刻んでそう言った。
直前まで、病院のスタッフに会ったら何はともあれ謝り倒そうと思っていたキラなのに、頭の上からそう言われ、反射的に唇を尖らせてしまう。
キラは、今まで誰かに怒られるという経験がなかった。怒られるようなことを、しなかったからだ。
裕子や岩崎の顔色を読みつつ、引き出せる最大限の譲歩で妥協点を見つける。裕子はともかく、岩崎はいつもかなり歩み寄ってくれるし、これまでは問題なくやれてこられたのだ――これまでは。
「何で先生がこんな所にいるんですか?」
若干ふくれ気味のキラの問いに、清一郎は器用に片方の眉だけを持ち上げた。
「何故? それは僕の台詞だ。何故君は勝手に病院を抜け出してここにいる? スタッフ総出で病院中を探しまわっていたぞ?」
怒鳴り声ではないだけに、清一郎の叱責はキラの身に染みる。もとより持ち慣れていない反抗心は、みるみるうちにしおれていく。
「それは……その……ごめんなさい……」
「謝るのは病院に帰ってからにするんだな。さあ、行くぞ」
そう言って、清一郎が片手を差し出してくる。キラはおとなしくそれに自分の手を重ねようとした。
が。
「キラ!」
キラの指先が清一郎の手のひらに触れる寸前に跳び込んできた、警戒心を露わにした少女の声。
駆け寄ってくるのは、桃子と隆だ。
ここに来てから、桃子はキラと一緒にいてくれようとしたけれど、動けない自分に付き合わせるのも悪くて、ちゃんと遊んでくるようにと送り出したのだ。でも、どうやら海の中ではしゃぎながらも、ずっとキラの様子を窺ってくれていたらしい。
「大丈夫? それ、誰……?」
大柄な清一郎は、一見医者らしくないのかもしれない。
桃子はキラに近付きつつ、彼に胡散臭げな眼差しを向ける。その隣に立つ隆も、見知らぬ大人の男を油断なく見つめていた。
キラは二人に笑顔を向ける。
「あ、病院の先生なの。迎えに来てくれたんだ」
「お医者さん? わざわざ?」
半信半疑の様子で眉をひそめる桃子に、キラは笑みを深めて見せた。
「そう」
「でも、夕方までいるんじゃなかったの? 田中先生に送ってもらう筈だったじゃない」
桃子が残念そうな声をあげる。まさかこっそり病院を抜け出してきたなどとは言えない。許可が下りなかったことを伝えたら、合宿の話をしたことで、彼女が自分を責めるかもしれなかった。
キラは何とか脳みそを回転させて、言い訳を見つける。
「その……思ったより暑かったから、早めに帰った方がいいかなって思って、メールを送ったの」
「そうなの? もう帰っちゃうんなら、もっとキラの傍にいれば良かった。でも、海見てあんなに喜んでたのに……残念」
桃子の言葉に、キラはもう一度、寄せては返す波打ち際へと目をやった。
「来られただけでも満足だよ。テレビで見るのと、全然違うもの。こんなに広いなんて思わなかった。本当に波ってこんなふうに行ったり来たりするんだな……って」
「十七まで一度も海に来たことないっていうのも、結構すごいよね」
「あはは。うちのママって過保護だから」
「そうだよねぇ。たいていのことは、ダメって言うもんねぇ」
ため息混じりの桃子の言葉に、キラは微笑みだけを返す。
桃子はしばしば遊びに誘ってくれたけれども、いつも裕子に断られていた。
裕子の弁では、映画は音が大きくてびっくりするからダメ、遊園地は論外、となる。岩崎は多少なら、と制限つきで許可を出してくれているけれど、裕子を宥めるのには成功していない。
桃子が話してくれる映画や遊園地――そういうものにも、いつかは行ってみたいと思う。そう、いつかは。
不意に、海の方からホイッスルの音が響いてきた。
「あ、集合の合図だ」
音がした方を振り返った桃子が、残念そうに呟く。
「行ってよ。わたしはもう帰るから」
「ん、でも……」
「いいから、ほら、予定があるんでしょ?」
地学部との合同合宿だから、この後は、少し離れた川原まで石拾いに行く予定だ。それが終わったら顧問の田中が病院まで送ってくれるということで、キラはそれまでここかホテルのロビーで待っていることになっていたのだけれど。
桃子と言葉を交わしながら、キラは背中に清一郎の視線をヒシヒシと感じていた。笑顔を保つのに、苦労する。
田中の合図で、部員たちは集まり始めていた。桃子は一度チラリと他のみんなの方を見て、またキラに向き直る。
「だね。じゃあ、またお見舞いに行くから」
「うん、ありがとう」
「行こう、隆」
「ああ。……本当に大丈夫なんだな?」
隆が、もう一度清一郎へと目を走らせた。
「大丈夫、ホントに先生だから。ほらほら、行って! みんな待ってるよ」
ヒラヒラと手を振って追いやると、二人はようやくキラに背中を向けた。田中の元へ走っていく間も、何度も彼女を振り返る。
みんなに合流した桃子たちが動き出した頃、キラは大きな手に二の腕を掴まれた。グイ、と引っ張り上げられて、身体がふわりと浮いたようだった。
けれど、キラの重さの目測を誤ったのか、腕を引っ張る清一郎の力が強くて彼女はよろけてしまう。彼の鳩尾の辺りに手を突いて、身体を支えた。
「あ、すみません」
「……すまない」
ほぼ同時に、互いに謝罪の言葉を口にしていた。
(何で先生が謝るの?)
清一郎はキョトンと見上げた彼女の腕をそんなに気を付けなくてもいいのにと思ってしまうほどそっと放し、眉をしかめてジッと彼の手があった場所を見つめてきた。
(力が強過ぎたとか、思ってる……?)
むっつりとした顔で、そんなことを気にしているのだろうか。
キラは、笑いをかみ殺す。唯我独尊を絵に描いたような清一郎がそんな些細なことを気にするなんて、何だか可愛い――彼にそんな形容が似合わないのは、判っているけれど。
生真面目な表情を保とうとしているキラを清一郎は相変わらずの無表情で見下ろして、不意にボソリと呟くような問いを投げてきた。
「君は、今まで海を見たことがなかったのか?」
「え? ええ、はい。初めてです」
頷くと、彼の目がわずかに細くなった。
「今まで、一度も?」
「はい」
清一郎は首を捻って海の方を見遣る。
無言、だった。
(何を考えているんだろう。早く帰らないとなんじゃないの?)
キラは割と人の表情を読める方だったけれど、清一郎のそれは読み取れなかった。
「あの……?」
声をかけると、彼がまたキラを見下ろしてくる。と思ったら、唐突に彼女の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「えっと……?」
「乗りなさい」
「はい?」
「砂浜を歩くのは体力を使う」
「でも――」
「いつものように抱えあげられるのと、どちらがいいんだ?」
キラは束の間逡巡した。
「お姫様抱っこ、とかは――?」
試しに訊いてみたキラに清一郎の目がスッと細くなった。立ち上がりかけた彼に、キラは慌てて言う。
「あ、おんぶがいいです。おんぶしてください」
キラの言葉に彼はまたしゃがみ込んだ。
(おんぶなんて、いつ以来だろう)
記憶に残るかどうかという幼い頃に、父親の背に揺られたことがある筈だ。でも、基本的にはひたすら母から安静指示が出ていたから、それはきっと何か特別な時だったのだろう。
彼女はその背におずおずと身体を預ける。
キラが清一郎の肩に手を乗せると、彼はまるで彼女などいないかのようにさっくりと立ち上がった。あまりに高くて、少しクラリとする。
清一郎の肩はとてもがっしりしていてキラの指先から手首までよりも厚みがあった。それに、とても硬い。
「重く、ないですか?」
「ない。身長から見ても軽いようだが……君にはこのくらいの方がいいだろう」
そっけない口調でそう返ってくる。
きっとこの人が言っているのはスタイル的なことではなくて、心臓が悪くなって出てくるむくみとか、そういうもののことなのだろうなぁと思いつつ、キラは身体の力を抜いた。
浜辺には人が溢れている。
背広姿でキラを背負った清一郎に視線が集まるけれど、彼は全く気にした様子がない。
(何だろう、この堂々っぷり。自信があるから?)
初めのうちは流石に恥ずかしかったけれど、彼があんまり平然としているから、キラも何だか気にならなくなってきた。
いつもよりも三十センチ以上高い所から見下ろす世界は、何だか新鮮だ。海も、さっきよりも遠くまで見渡せる気がした。
しばらく彼の背で揺られながら海に目をやっていて、ふと、キラは首をかしげた。
「あの、瀧先生?」
「何だ」
彼は立ち止りも振り返りもしない。
そのまま、キラは疑問を口にした。
「車はどちらに停めてあるんですか?」
「君たちが泊まることになっているホテルの駐車場だ」
「方向、逆ですよ?」
沈黙。
そして。
「多少なら時間がある」
返事は、それだけだった。
キラは、ああ、そうか、と思う。
(わたしの為に、歩いてくれているんだ)
ふと、清一郎を優しいと評した萌の言葉が頭によみがえってきた。
(うん、ホントだ。優しい)
海に似つかわしくない革靴がサクサクと砂を踏む音が、微かに耳に届く。
それを聞きながら、キラは無性に、清一郎に話を聞いて欲しくなった。
今まで、誰かに自分の胸の内を明かそうと思ったことはない。何故、彼にそうしたくなったのかはわからない。
(わたしのみっともないところとか、ダメなところとか、もう見られてるからかな)
清一郎は、キラのことを『良い子』だなんて少しも思ってやしない。彼に対して今さら取り繕う必要なんてないのだ。
そう考えると、キラは覆い被さっていた何かがスッと飛んでいったような心持ちになった。
「あのね、先生」
そっと囁いても無言のままだったけれど、わずかに頭が動いて、彼がちゃんと耳を傾けようとしてくれていることが判った。
キラは続ける。ぽつぽつと、思い付くままに。
「先生、さっき、わたしに死にたいのかって、言ったでしょう? わたしは、死にたいわけじゃないよ。ううん、絶対、死にたくない。でも、だからって言って、ただベッドに寝転がってるだけは嫌なの。ちゃんと、生きたいの。一年長く生きる為に五年ベッドに縛り付けられるのは、嫌なの。……これって、わがまま?」
返ってきたのは、肯定とも否定ともつかない、呻くような声。
キラは、清一郎の肩に置いた手の指先に力を入れる。
「わたしは最初にこの病気だって診断された時、一歳まで生きられないだろうって、言われたんですって。今は、二十歳を越せるかどうかって、言われてます」
「あいつはそんなことまで君に話しているのか? まだ子どもなのに?」
彼の声に含まれているのは、明確な怒りだった。
この浜辺で真っ先にキラにかけられた声も怒っているものなのかと思ったけれど、違う。
今のが『怒り』で、さっきのは『心配』だ。
キラは目の奥がジンと熱くなって、何度か瞬きをした。
そして、続ける。
「岩崎先生を怒らないでください。わたしがちゃんと教えて欲しいって言ったんだもの。ちゃんと、自分のタイムリミットを知っておきたかったの」
「君は、まだまだ生きる」
低いけれど、きっぱりとした声。
自信に満ちた、声。
キラは自分の声もそうであって欲しいと願う。
いつでも強くありたかった――いつでも心配をかけてしまう人たちを、不安にさせないように。
「そうですね。だって、最初は一歳までしか生きられないって言われたのがいつの間にか『五歳まで』になって、『十歳まで』になって……結構しぶといでしょ? だから、きっと『二十歳まで』も撤回されるに決まってますから」
「その為には、こんなふうに無茶をするものではない」
ぴしゃりと言われ、キラは言葉に詰まった。
「う……それは……本当に、反省してます」
塩をかけられたナメクジ並みに、彼女はしおれる。その気配を感じ取ったのか、清一郎の声が若干和らいだ。
「僕も――言い方がきつかった。これからはもう少し話を聞くように、努力をしよう」
(これは、謝ってくれているの、かな?)
どうだろう。
口調はいつもと変わらない。ただ、事実を語っているだけのような、淡々としたものだ。
がっしりした、強そうな清一郎の肩。それに向かって、キラは囁く。
はしゃぐ人々の喧騒に簡単にかき消されてしまいそうな、密かな声で。
「わたしは生きていたいの。終わりがいつ来るのかわからないけれど、その時が来た時に、後悔は、残したくない……」
その告白が彼に届かなくてもいいと、思った。
だけど、多分、聞こえたのだろう。
清一郎の顎が何かをこらえるように噛み締められたのが見て取れたから。
こんなふうに心の内を吐露したのは、キラにとって初めてのことだった。
本当は、すべきではなかったのかもしれない。
清一郎は優しいから、キラの中の弱さを知れば、手を差し伸べずにはいられなくなるだろう。そうして、彼との間に患者と医師という事務的なもの以上のつながりができてしまう。
――たとえどんなに長く生きたとしても、キラは必ず先に逝く。
母よりも、父よりも、桃子よりも、隆よりも、そして清一郎よりも。
それが解かっているのに人と絆を結ぼうとしてしまうのは、キラの弱さだ。
確実に悲しませることが見えているのに、距離を置いてさえいれば悲しみを回避できるのに、キラはそうできない。
(わたしは、やっぱりわがままなんだ)
好きになった人の心の平穏よりも、自分の欲求を優先させてしまう。
人と触れ合わずにはいられない。触れ合うことを望んでしまう。
(だって、わたしは生きたいのだもの。人の間で、ちゃんと)
そうやって悔いなく生きて、逝く時には笑っていたい。
生まれてきて良かった、みんなと会えて良かったと、この身をもって証明したい。
キラは小さなため息を漏らした。
そして、祈る。
『その時』ができる限り遠くになりますように。
『その時』に残していかなければならない悲しみが深いものではありませんように、と。
――キラは清一郎の背中にいたから、彼女のため息がその耳を撫でた時の彼の顔を目にすることは、できなかった。