『模範的な患者』の『問題行動』
「うちのキラをどこかで見なかったか?」
院内PHSにかけてきたのは岩崎で、前置きもなしに彼はそう言った。
「……は?」
思わず清一郎は自分の耳を疑う。
雨宮キラは、小児科病棟で安静入院中だ。当然、病室にいるに決まっている。あるいは――
「……売店じゃないのか?」
「いない。見当たらないんだ」
要領を得ない言葉だった。
ぶつ切りで、どんな経緯で清一郎にそんなことを訊いてくる羽目になったのか、さっぱり解からない。
岩崎は心肺停止状態の患者の前でも淡々と冷静に対応する男だ。その彼がこんなふうに言葉足らずなのは、珍しい事だった。
「順を追って説明してくれないか?」
清一郎が冷ややかにそう問いかけると、PHSの向こう側では一瞬間が空いた。そして、また岩崎の声が聞こえてくる。
「ああ、すまなかった。雨宮キラが、朝食以降姿が見えないようなんだ」
「朝食……って、今はもう十三時だぞ? 五時間も何をしていたんだ?」
「いつも通りに過ごしているだろうと、誰も確認していなかったんだよ。昼食前に検温があったんだが、その時もいなかったらしい。担当ナースは、トイレにでも行っているのだろうと考えたんだ。昼食後に改めて訪室したら給食がそのままになっていて、どうやら午前中の間、一度も誰も見ていなかったことが判明した」
「何だそれは」
「わかってる、管理不行き届きだ。あの子は模範的な患者だから油断していたんだ」
「言い訳になるか」
苦い声の岩崎に追い打ちをかけるようにして清一郎は短く返した。
キラの状態は、まだそこまで悪くない。心電図上は不整脈を認めるものの、今のところは命が危なくなるような発作は起きていない。起きていないが――今日、初めてそれが起きるということもあるのだ。
もしも人目に付かない所で発作を起こしていたら。
清一郎の背にはぞくりと悪寒が走る。脈が速まり、自分の心臓の存在がやけにはっきりと感じられた。
――雨宮キラが行きそうな所……
「屋上……屋上は見たか?」
「見た。あそこに行く時には必ずナースに行ってからにしろとは言ってあるが、一応隅々まで見てみた」
清一郎と同じ恐れを岩崎も考えていたらしく、彼は言った。
「人気のない所には絶対に行くなといってある。何かがあれば、すぐに誰かが気付く筈だ」
「少なくとも緊急コールは入っていないんだな」
岩崎の台詞を受けて、清一郎も呟いた。
入院患者には手首に名前とIDが記載されたネームバンドが巻かれているから、もしも彼女が急変しても、人目があればすぐに岩崎に連絡が行くだろう。
しかし、だとすればいったいどこへ消えたというのか。
(病院内にはいない?)
そう考えて、ふと清一郎はあることに思い当たった。
「今日は――八月十二日か?」
「え? ああ、そうだな。それがどうかしたか?」
「……まさかとは思う、が――」
とてつもなく嫌な予感がした。
清一郎は歯軋りしながら岩崎に問う。
「お前、あの子の合宿の件、覚えているか?」
「え? ああ」
PHSの向こうから、岩崎がハッと息を呑むのが伝わってきた。そして、信じられない、といわんばかりの声で清一郎に訊いてくる。
「まさか、あれに?」
それは、訊くというよりも確認するという口調に近かった――まさか違うだろう、と確認する口調に。だが、清一郎は可能性として有り得るものを挙げただけだ。安易な気休めを口にする気はない。
「他に考えられるか?」
「いや、だが、今まであの子が約束を破ったことなんてなかったぞ? けど、確かに他にはないか……学校に問い合わせて連絡先を訊いてみよう。もしもいたら、至急帰らせて――いや、スタッフを誰か向かわせた方がいいな」
ブツブツと、岩崎が言う。独りごとに近い彼の声を聞きながら、清一郎は眉をひそめた。
「親は? 親に迎えに行かせたらどうだ?」
「それが、ナースがキラがいない、と母親に電話をしてしまってな。パニックになってしまって、父親も彼女を宥めるのに大変なんだ」
その時、清一郎の脳裏には以前目にしたキラの母親の取り乱しぶりがよみがえっていた。そして、彼女をあやす、キラの姿も。
あの時の二人は親子が逆転しているかのようだった。
「母親は――『病気』なのか?」
清一郎は、言葉を選ぶ為の間を一瞬置いて、岩崎にそう尋ねた。
身体の、ではなく、心の、だ。いくら我が子のこととは言え、彼女の心配の仕方は尋常ではないだろう。
「いや……ただ、疲れているんだよ。十七年間、娘のことを案じっ放しだから。それに、子どもが病気になると、多かれ少なかれ親は自分を責めるんだ。不安と自責と、そんなのが入り混じって彼女はボロボロなんだ。……まあ、とにかくありがとう、そっちを探してみるよ」
そう言うと、岩崎は電話を切る――切ろうとした。
が、それよりも先に、清一郎の口から言葉が飛び出していた。
「僕が行ってこよう」
「え?」
清一郎は、自分でも何故そんなことを言ってしまったのかわからないままに、もう一度言う。
「合宿をしている所に僕が行ってくる」
「それは助かるが……いいのか?」
「構わない。午後は外来がないから。一度車を取りに家に帰ろう。その間に学校に連絡して詳しいことを訊いてくれ。わかったら僕の携帯に電話を」
「了解――あ、瀧」
今度は、清一郎が切ろうとした通話を岩崎が引き止めた。
「何だ?」
「あの子のこと、あまり叱らないでやってくれよ?」
「は?」
「いや、あの子はもう充分に色々我慢してきているんだ。普段はこんなふうな無茶は絶対にしない。今回は何か思うことがあっての行動なんだと思う。見つかっても、頭ごなしに叱らないでやってくれ」
「……わかった」
清一郎は頷いた。
取り敢えず、今はキラが見つかればそれでいい。
地面に倒れ伏している姿ばかりが目にチラついて、怒るよりも、彼女の身が心配でならなかった。
*
清一郎のマンションは病院から徒歩五分のところにある。
部屋へは行かず、直接地下の駐車場に下りたところで岩崎から電話が入った。
「やっぱり、合宿に行っているらしい。今は浜辺へ行っているんだとさ。まったく……」
岩崎の安堵のため息が続く。
が、清一郎としては安堵どころではなかった。
(浜辺。砂浜、だと?)
あんな所を歩けば、心臓に負担がかかるではないか。それに、ホテルの中ならまだしも、屋外ではAED《自動体外式除細動器》だってありはしない。
清一郎は返事もそこそこにぶつりと通話を切ると、車に乗り込みカーナビを設定して駐車場を出た。
合宿が行われている海水浴場は、車で二時間ほど走った所にある。距離的にはそれほど遠くないのだが、都心を抜けるから結構時間はかかるのだ。
まったく、人と車の数の多さがうっとうしい。
路上駐車で道幅が狭くなっている場所では、思わず舌打ちが出る。
普段の清一郎は、キッチリ交通ルールを守る。一時停止ではきちんと速度計がゼロになるまで停まるし、黄色信号も突っ切ったりはしないし、制限速度も破ったことがない。
が、今は別だった。
黄色信号では速度を上げ、街中を抜けたら何度も車線を変更し、車の間を縫うようにして走る。時折クラクションを鳴らされたが、無視した。
多分、いつもの彼の運転の半分の時間で走れているだろう。
そうやって道を進み、キラとの距離が縮まるにつれ、清一郎の中の不安は募っていく。
(別に、彼女のことは、それほど心配する必要はないんだ)
彼は自分にそう言い聞かせる。
実際、キラの検査データは、まだそこまで切羽詰まったものではない。
にも拘らず、何故、こんなに彼女の身を案じてしまうのか、清一郎自身にもよく解からなかった。
もしかしたら、良くない結末を、いくつも目にしているからかもしれない。
キラが、まだ年若いからかもしれない。
彼女が、あまりに生気で輝いているからかもしれない。
とにかく、何故かは解からないけれども不安でたまらず、だからこそ、目的地に着いて、砂浜で膝を抱えて座り込んでいるキラの背中を見つけた時、思わず言葉がその口を突いて出てしまったのだろう。
あまり叱るなという岩崎の言葉も忘れて。
口調も荒く、
「君は死にたいのか?」
――と。