『未来』を創る『現在《いま》』
夕の職員食堂で岩崎一美の姿を目にした清一郎は、カウンター越しに渡された定食を手にして彼の向かいに腰を下ろした。
十九時間近なこの時間、人はまばらだ。
岩崎は今晩当直らしく、彼の前にあるのは検食だった。当直医には入院患者とほぼ同じものが供されるが、霞谷病院の食事は結構評判が良い。メニュー的にヘルシーではあるが、味はまずまずだ。
清一郎に気付いた岩崎が、目を上げて彼を見る。
「よう瀧、久し振り」
「ああ」
食堂で彼と顔を合わせるのは、二、三週間ぶりだろう。
清一郎は毎晩のように食堂で夕食を摂るが、岩崎には妻が作る食事が家で待っている。こうやってここで会うことがあるのは、岩崎が当直の時か、あるいは看護師でもある彼の妻が夜勤の時くらいだった。
「お前の患者の雨宮キラのことだが」
前置きなく単刀直入に切り出した清一郎に、岩崎の手が一瞬止まる。
だが、彼が回りくどいやり方を好まないのは、岩崎もよく知っていた。ニヤリと笑ってすぐに応じる。
「ああ……あの子か。もう何回か顔を合わせてるんだってな。いい子だろう?」
食事の手を再開しながら岩崎はそう言ったが、清一郎は彼女がどんな人間かという点に関する意見は述べず、要件を言う。
「彼女の行動制限はもっと厳しくするべきだ」
「キラの? 行動制限を?」
わざとらしく切れ切れに繰り返されて、清一郎はムッとした。
拡張型心筋症というキラの病気の根本的治療は心臓移植だ。特に彼女ほど重症な例では、いずれ必ず必要となるだろう。だが、日本では移植の為の心臓の供給が非常に少ない。移植できるようになるまで命を引き延ばさなければならないのだが、そうなると合併症を防ぐことが非常に重要になってくるのだ。
キラの合併症――不整脈や弁膜症は、非常に緩やかとはいえ、確実に悪化している。それは良くない兆候だった。
清一郎は食事を前にしながら箸を手に取ることもなく、岩崎に詰め寄った
「確かに、あの患者のコントロールは悪くない。あの心臓でこの年まで引っ張れたのは素晴らしいと言ってもいいだろう。だが、もっと安静を徹底するべきだ。はっきり言うが、今までももっと厳しく制限するべきだったと思う」
「もっと、か」
「ああ。今は売店を許可したりしているだろう? 僕ならベッド上安静を指示する。散歩も面会もなしで」
「それは……あの子がさぞかし怒るだろうな」
「何を馬鹿なことを。医者が患者のご機嫌取りをしてどうする」
キラはまだ十七歳。
あと十年生きたとしても、まだ二十七歳――それでも死ぬには早過ぎる。
長く生きれば生きるほど、彼女が何かの治療を受けられる可能性が出てくるのだ。医学は日々進歩しているから、もしかしたら、心臓移植以外の治療法も見つかるかもしれない。
清一郎としては、その時までずっと入院させておいて、ベッドに縛り付けておきたいくらいだった。
「学校も、休学させるべきだ」
きっぱりと言い切った清一郎に、岩崎は微かな苦笑を含んだ眼差しを向ける。
「お前は、相変わらずブレないな」
「今は雨宮キラについて話している。僕がどういう人間かということはどうでもいい」
清一郎がむっつりと答えると、岩崎は思案深げに彼を見返してきた。そうしてしばし口をつぐんでいたが、やがて彼に問いかけてきた。
「お前は、子どもの患者を診たことがあるか?」
「子ども? いや、ない。彼女が最年少だ」
キラのような小児科からの紹介は時々循環器内科に舞い込んでくるが、彼女ほどシビアな症例は滅多になく、たいてい、相談を受けた医者が単独で対応していた。そして、清一郎はその評判が影響しているのかどうなのか、彼の元にはまだ依頼が来たことがない。
清一郎の返事に、岩崎は湯呑を手にして茶をすする。次の言葉はなかなか続かなかった。清一郎が痺れを切らす寸前で、彼が再び口を開く。
「子どもというのは、未完成なんだ」
短い、台詞。
清一郎は岩崎が言いたいことを察することができない。
「それは、そうだろう。だが、雨宮キラはもう十七歳だ。もう成長期は終わっている」
「まあ、身体の成長はな。だが、中身はまだまだでき上がっていない」
中身――内臓の成長ということだろうか?
清一郎は眉をひそめた。十七歳にもなれば、ほぼ成人と同じだろう。通常であれば、高校生は小児科ではなく内科にかかる。
「……何だか、お前の考えていることが手に取るように解かるよ」
そう言うと、岩崎は小さく笑った。
「あのな、俺はあの子が二十歳になっても、四十歳になっても生きていると信じている」
「当たり前だ」
「そう、当たり前だろう? だから、彼女が大人になった時、ちゃんと社会の中で生きていけるようにしておきたい」
「生きてさえいれば、そうなる」
やはり、岩崎が何を言わんとしているのかが清一郎には理解しきれない。だから一般論を口にしたが、岩崎はかぶりを振った。
「ただ生きているだけでは、駄目なんだよ。子どもには、然るべき時に然るべき経験が必要なんだ。いずれ社会の中で……人の間で生きていくことができるようになる為には、それまでに人と触れ合い、人とどう関わっていくのかを学ばなければならないんだ。小児科は、ただ身体の病気を治すだけでは充分ではない。子どもの未来についても考えないといけないんだ」
岩崎が、また一口茶を含む。
「幼い頃から入院を繰り返して学校を休みがちだったりすると、いざ健康になってもうまく同年代の中に馴染めなくなってしまったりするんだ。そして、馴染めないまま大人になり、社会に出ようとして――つまずく」
それがどうした、と清一郎は思った。そして思ったままを口に出す。
「引きこもりになろうがニートになろうが、生きていればそれでいいだろう」
彼の返事に、岩崎は笑った。
「まあ、な。確かに生きていることが一番重要だ。だが、どんなふうに生きるのかを大事にしている者もいるんだよ……っと。悪い、コールが入った」
静かな食堂に響いた電子音。それは岩崎の胸ポケットから発せられている。清一郎に片手をかざしながら、岩崎は院内PHSをもう片方の手で取った。
彼が相手と遣り取りをする様子を見るともなしに見ながら、清一郎は今の台詞を頭の中で繰り返す。
(どんなふうに、生きるか……?)
だが、それは患者サイドの問題ではないだろうか。清一郎たち医師ができるのは、患者が何かを選べるようにすること――即ち、でき得る限り命を引き延ばすことだ。
患者の行動には感情が入る。
感情が入れば一番正しい道を――生きる可能性が最も高い道を選べなくなることもある。
医者には、知識があるのだ。一番正しい道を選ぶための知識が。
今はやりたいことを我慢せざるを得なくても、生きてさえいればまたいつかできるようになるかもしれない。けれど、死んでしまえば、そこでおしまいになる。
医者は、患者が道を間違えてしまわないように、客観的で冷静な頭で導いてやらなければならないのだ。
最近では患者に情報を与え、結論は患者に選ばせるという風潮が漂いつつあるが、清一郎はそれが気に入らない。何をするかを決めるのも、医師であるべきだと彼は思う。
(それが、仕事だ)
物思いにふけっていた清一郎に、ふと声が割り込んでくる。
「救急外来に呼ばれたよ。行かないと」
そう言って検食のトレイを手にして立ち上がった岩崎が、清一郎をジッと見下ろしてきた。
「……何か?」
「いや――お前さ、もう少し患者と話をしてみたらどうだ?」
「話? 充分している」
「それは『お前が』話しているだけだろう? 一方的に話すのではなく、『会話』をするんだ」
生真面目な顔の岩崎に、清一郎は肩を竦めた。
「患者に話をさせたら、何故指示に従えないのか、その言い訳か愚痴ばかりが際限なく続く。時間の無駄だ」
「だから、何故そうしてしまうのか、その理由を聞くんだよ。まあ、俺も『相手の話を聞くこと』を知ったのは結構最近のことだからあんまり偉そうなことは言えないけどな。……相手を理解しようとするというのは、意外に大事なことなんだ」
そう言って、岩崎は柔らかく微笑む。こんなふうに笑う男だっただろうかと、清一郎は眉をひそめた。
戸惑う清一郎には気付かない様子で、岩崎は笑みを消す。
「取り敢えず、キラのことはもう少し待ってやってくれないか?」
「……わかった」
岩崎の笑顔に毒気を抜かれた感じになって、清一郎は不承不承ながらも頷きを返す。納得いかない方が大きかったが、それでも今の主治医は岩崎なのだ。最終的には彼の考えを尊重しなければならない。
「ありがとうな」
不意に、岩崎が言った。その感謝が何に対してのものなのかが判らず、清一郎はいぶかしげな眼差しを返してしまう。
「え?」
岩崎は、微かに笑った。
「キラは、人と接するのが好きだから。本当は、もっと、他人と深く付き合いたいんだと思うよ。ただ……同時に怖いんだろう――親しくなった人を置いていくことになるかもしれないということが。屈託のない子だけど、彼女の方から距離を詰めることはしないんだ。最近は親しい友人ができたようだが、基本的には、周りはあの子を腫れ物に触るように扱うからな。お前のようにずけずけ言ってくれる人間は新鮮だろうし、多分嬉しいんだと思うよ」
「別に、ずけずけ言っているわけではない」
「ああ、お前はそれが常態だな。それがいいんだよ」
そう言って、彼は小さく笑う。そして軽く手を上げると、清一郎に背を向けた。黙って見送りかけた清一郎だったが、ハッとあることを思い出して岩崎を呼び止める。
「岩崎」
「何だ?」
振り向いた岩崎は、首をかしげて清一郎を見返してきた。
「彼女から、海がどうとかいう話は聞いているか?」
「ああ、あれか」
「許可は――」
「まさか。流石に出せないさ。俺だって、そこまで緩くはできない」
岩崎が笑う。そして、一転、真面目な顔になった。
「多分、今度の入院は長引くだろう。あの子は二学期からまた登校したいと言っているが、難しいと思う」
「不整脈が増悪しているからな」
「ああ。薬で調節しようとしているところだが、効果がなければ植込型除細動器《ICD》だな」
ICD。
それはペースメーカの役割と、もう一つ。
万が一の時に、キラを助けてくれる物だ。
不意に、清一郎の背にはブルリと悪寒が走った。それに気付かず、岩崎が続ける。
「まあ、今のところは落ち着いているから、このままいけることを祈るが――おっと」
また、岩崎のPHSが鳴った。それに出た彼は、相手の声を聞きながら頷いている。
「三人……? 一人は痙攣か。もう止まっている? そうか、わかった、もう行く。すまないな、瀧。患者が何人か溜まっているらしい」
「ああ、引き止めて悪かった」
「いや、また話そう」
急いでいるのか、短くそう残すと、今度こそ岩崎は足早に食堂を出て行った。
残された清一郎は、ほとんど手つかずの食事に箸を付けながら、今の話を反芻する。
『万が一の時』――それは、キラの心臓が致死的な不整脈を引き起こした時、だ。
目の前で笑っていても、突然倒れて死んでしまう。
キラは、いつでもそうなる可能性がある。
いつもの彼女からは、そんな光景など微塵も想像できなかった。だが、客観的な検査データは確かにそう告げている。
唐突に、清一郎の食欲が底を突いた。
箸を置き、湯呑みを手に取る。それをごくりと一口飲み干した。
(彼女が、死ぬ……?)
喋らず、笑わない雨宮キラなど、清一郎には想像もできなかった。
ふと、数日前、病棟のデイルームで交わしたやり取りが彼の脳裏によみがえる。
*
小児科病棟に足を向けた清一郎は、デイルームに小さな背中を見つけて歩み寄った。
「行きたい、な」
と、ポツリと落としたような呟きが耳に入り、眉をひそめる。
また、何か無茶を言い出そうと企んでいるのだろうか。
そう思いながら、背後から声をかけた。
「何処にだ?」
途端。
「キャッ!?」
細い肩がビクリと跳ねる。
まるで、予期せず蛇と遭遇した仔猫のように。
「瀧先生!」
振り返って見上げてきた目は零れ落ちそうなほどに大きく見開かれていた。
清一郎は、これまで小動物などを目にしても特に何か感じたことはない。だが、このキラを見ているとああいった代物を好む者の気持ちが、少し判るような気がした。
「それは?」
キラがさりげない――と恐らく本人が思っているらしい――仕草で隠そうとしている薄い冊子を目で示しながら、清一郎は問いかけた。
「え? えぇっと……部活の合宿のしおり、です」
「合宿?」
清一郎は眉を吊り上げ、彼女の腕の下から問答無用でそれを取り上げた。
「あ……」
何か言いたげに声を上げたキラは無視して、清一郎はページを繰る。
中に書かれた日付は八月十二、十三、十四日。場所はここから車で二時間ほどの海水浴場だ。
「まさか、行けるとは思っていないだろうな?」
淡々とそう確認した清一郎に、キラがムッと唇を尖らせた。
「行けるかも、とは思ってます」
思わず、深々としたため息が漏れた。
(彼女は、自分がどういう状態なのか、解かっていないのか)
とてもではないが、外出など許可が下りる筈がない。
「無理だ」
にべもなく清一郎が断言するとキラの目が明るく輝いたが、少なくとも、喜びからではないだろう。
「決めるのは岩崎先生ですよ」
「あいつも駄目だと言うだろうし、もし仮にあいつが許可しても、僕が反対する」
「瀧先生にそんな権利――」
「無くても言う」
キラの反論はピシャリと遮った。
「そんなの、ひどい!」
ガタンと音を立ててキラが立ち上がる。その頬が赤く上気しているのが見て取れて、清一郎はふと不安になった。
(興奮し過ぎている)
「もう、部屋に戻るんだ。安静にしていろ」
彼の声は、知らぬうちにどこか幼い子どもを宥めるような響きを含んだ。
清一郎が来る直前まで、彼女自身も部屋に戻らなければと思っていたことを、彼は知らない。そして、えてして子どもは、しようと思っていたことを上から目線で「しろ」と言われると反抗したくなるということも、彼は知らない。
ましてや、子どもを相手にしているかのような声音が彼女の神経を逆撫でしないわけがない。
「い、や、で、す! もう少しここにいますから」
ドスンと荒っぽく椅子に腰を下ろしたキラを、清一郎は持て余した。
確かに循環器内科にも面倒くさい患者はいるが、こんなふうに駄々をこねる者は流石にいない。
放っておいて、この場を立ち去ってしまってもよいのだ。
だが、そうはできなかった。
彼は少し考え、片手でキラが座っている椅子の背を引き、テーブルから離す。
「何を……キャッ!?」
一瞬訝しげな響きを帯びた彼女の声は、すぐに小さな悲鳴に変わった。
キラの両脇に手を挿し入れて、清一郎が彼女を持ち上げたからだ。
そうして右腕で彼女の腿を抱え、左手を彼女の背中に押し当てて、身動きが取れないようにさせてから、歩き出す。
「ちょっと、もう! またこういう、赤ちゃん抱っこ!」
病棟内だからだろう、本当は大声を出したいところだろうに、キラは憤りを隠さない囁き声でそう抗議してくる。その一言ごとにふわふわとした彼女のくせ毛が清一郎の耳元をくすぐった。
「下ろしてくださいってば! 自分で部屋に戻ります!」
小さな拳が肩甲骨の上辺りを叩いているのが感じられたが、くすぐられているようなものだ。些細な抗議は無視して清一郎はさっさと廊下を歩く。
そしてキラの病室に行き、片手で履き物を脱がせながらベッドに彼女を下ろした。
怒りのためか、羞恥のためか、真っ赤になったキラの顔をジッと観察しながら、慎重に聴診器を彼女の胸に押し当てた。
異常がないことを充分に確認してからベッドサイドのナースコールを押して看護師を呼ぶと、彼女にモニターを着けるように指示を出す。
そうして、真っ直ぐに身体を起こし、ベッドの上のキラを見下ろした。
「安静にしていろ」
その、一言。
キラは再びムッと頬をふくらます。
「――! 海には、行きますからね!」
「行けない」
短く返し、清一郎はベッド周りのカーテンを引きながらその場を後にした。
「もう!」
憤懣やるかたないと言わんばかりのキラの鼻息を、背中で聞きながら。
*
そんなやり合いから、もう三日は経った。
病院で、飾り気のないパジャマでいても生き生きとした目で睨みつけてくるキラの姿は、未だに清一郎の中で鮮明だ。
患者に反抗されれば憤りを覚えるのが常だというのに、彼女のそんな反応は、何故かそれとは違う奇妙な感覚を彼の中に呼び覚ます。
ジリジリとみぞおちの辺りを炎で焦がされているようなその感覚は、焦燥に似ているかもしれない。それは不可解ではあったが、不快ではなかった。
清一郎が小指で小突いたら廊下の先まで吹き飛びそうな身体をしているのに、脆弱さは微塵も感じさせない、少女。
彼女に最も似つかわしくない言葉は、『死』だろう。
そう、彼女は、まだまだ生き続けるべきなのだ。
「……彼女は、死なない」
清一郎は呟く。
――だが、いくつもの死を見てきた彼には、自分のその台詞に何の根拠も保証もないことが、判っていた。