それよりも。
初夏のある日曜日。
キラは朝から張り切っていた。
休日であるにも拘らず、いつものように病院に向かう清一郎を玄関から送り出した彼女は、ベランダから見えるその姿が追えなくなるまで待って、キッチンに立つ。立てかけたタブレットでレシピを開き、冷蔵庫を漁って食材を取り出した。
「よし、やるぞ」
そう、自分にひと声かけて。
今月は、雨宮キラが瀧キラになって、丁度一年になる月だ。
本当は、まさに結婚記念日そのものにお祝いしたかったけれども、清一郎の仕事があるからなかなかそうもいかない。
(ちゃんと、休んで欲しいし)
そんな自分の考えを奧さんぽいなと思い、その感想に、ちょっとばかり落ち込む。
何故なら、清一郎の奥さんになってからもう一年になろうというのに、未だ、奥さんらしいことはほとんどさせてもらえていないからだ。
結婚してから、清一郎は病院の隣にマンションを借り直した。別に、キラは元の彼の部屋でも良かったのに、その方が安心だから、とサクサク話を進められてしまったのだ。
そして、彼は、道を一本隔てただけのそのマンションに、それはもうマメに帰ってくる。
昼休みにも、そして夕食時にも戻ってきて、ササッと食事を作ったかと思うと、キラの様子を一瞥してまた病院に戻っていくのだ。
掃除洗濯はもちろん、食事すら作らせてもらえない『奧さん』とは、いったいいかがなものなのか。
あまりに至れり尽くせりの生活に、結婚して早々に、食事くらいは作らせて欲しいと、キラの方から頼んだことがある。けれどそれは、主治医として許可できない、と即座に却下された。
それならば、と勝手に作って待っていたら、叱られた。
確かに、プロポーズの言葉の中に、彼の世話を焼く必要はないとか何とか入っていた記憶はある。どうやら、本気で、毎日キラの安否を確認したいだけが為に結婚したらしい。
けれど、キラとしては、それで満足できるはずがない。
せめて結婚一周年の祝いくらいは何かしてやろうと、ひと月前から画策していたのだ。
まず、当直やオンコールがない日曜日をさりげなく訊き出して、その日は午後まで病院に引き留めておいてくれるよう、小児科時代の主治医の岩崎に頼んでおいた。
今は、まだ、十一時。清一郎の帰宅まで、あと二時間はある予定だ。
と、思ったら。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音が届く。
「え、うそ」
まだ何もできていないのに。
慌てるキラをよそに、重くしっかりとした足音が近づいてくる。
ダイニングに姿を現した清一郎は、カウンターの奥に立つキラを見て、彼女の前に広げられている諸々に眼を落として、そして眉をしかめた。
「何をしている?」
「……お料理、です」
「何故」
「したかったから」
返事の代わりの、ため息。
清一郎はキッチンに入ってくると、キラの背中をそっと押して出て行くように促した。その力に抗い、彼女は彼を振り仰ぐ。
「お願い、今日はわたしに作らせてください」
「駄目だ。休んでろ」
そう言って、清一郎はタブレットを覗き込む。
「これが食べたいのか?」
「わたしが作って、先生に食べさせたいんです!」
「どちらが作っても、同じだろう」
「違います!」
彼の為に、キラが作る――そこに意義があるのだ。
足を踏ん張り頑としてその場にとどまる気構えのキラを、清一郎は眉をひそめて見下ろしたかと思うと、おもむろに身を屈めた。
「先生!?」
背中と膝裏に手を回され、いとも軽々と運ばれながら、キラは抗議の声を上げる。けれど清一郎は構わず彼女をリビングのソファに下ろすと、さっさとキッチンに戻ろうとする。
その彼のシャツの背中を、キラはハッシと掴んだ。
「……キラ?」
肩越しに振り返った清一郎は、困惑の色をその眼に浮かべている。キラはシャツを握る手に力を込めて、彼を見上げた。
「わたしだって、先生の為に何かしたいんです。せめて今日は、何か先生が喜ぶことをしたい……」
キラの訴えに、清一郎がジッと見下ろしてくる。と思ったら、彼女の拳をそっと外させ、ソファの前に屈みこんだ。
「僕が喜ぶことを?」
同じ高さになった目線を、キラは真っ直ぐに見返し、コクリと頷く。
清一郎はしばし口をつぐみ、そして開いた。
「だったら、名前で呼んでくれないか」
「…………なまえ……?」
「ああ」
適当にごまかそうとしているのかと思ったけれど、清一郎の眼は真面目そのものだ。いや、そもそも、彼がふざけたりキラのことをいなそうとしたりしたことは、今までなかった。
「えっと……清一郎、――さん?」
ためらいがちに、キラはその名を口にした。
(あれ? もしかして、先生の名前を呼ぶの、初めてだっけ?)
そんなことを考え小首をかしげた彼女を、清一郎は瞬きもせずに見つめてくる。あまりにまじまじと見てくるから、頬が火照ってきた。
と突然。
「え、先生?」
ガバリと抱き寄せられて面食らったキラは、次の瞬間うめき声を漏らす。
「ちょっと、先生、苦しい――つぶれちゃうってば!」
彼女のその台詞で、清一郎がパッと腕を解いた。
「すまない」
あまり表情を変えない彼だけれども、キラはその乏しい変化を漏らさず読み取った。
(しょげた……?)
今度は、キラの方が清一郎をしげしげと見つめる。
(なんか、可愛い)
思わずフフッと笑みを漏らすと、清一郎の眉間に深い溝が生まれた。訝しそうな顔を向けてくる彼に、キラは笑みを返す。
「そっとだったら、だいじょうぶです」
そう言って、彼女は両手を彼に差し伸べた。
清一郎はほんの一瞬逡巡し、そして腕を伸ばしてくる。
ふわりと、包み込むような抱擁。
それは、親鳥が雛を抱くのに似て。
(ああ、幸せだなぁ)
ごくごく自然に、そんな思いが胸に湧く。
キラは小さく息をつき、大きな胸に頬をすり寄せる。そうして、彼女の腕が届く限りで、精いっぱい彼を抱き締めた。
ちょっと思いついたので。
多分、こういう遣り取りは絶対あったはず。




