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君が目覚めるその時に  作者: トウリン
本編

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33/38

エピローグ~君が目覚めるその時に

 ひらりと、薄紅色の陰が目の前をよぎっていく。一つではなく、ひっきりなしに。

 キラは立ち止まり、花盛りの桜並木を見上げた。

 霞谷病院の門の前の通りには、一区画分、桜が植えられている。

 バスは病院の玄関前まで運んでくれるけれど、手術をして前よりも運動制限が軽くなってから、キラは一つ前のバス停で降りて歩くようになっていた。桜が花開くこの時期は、特にそれが楽しくなる。


 一年間が過ぎたのだと一番実感するのは、満開になったこの桜たちを目にした時かもしれない。

 キラはふと胸に手を当てた。服に隠されてはいるけれど、そこには真っ直ぐな傷跡がある。二年以上が過ぎてもまだはっきりと残っているそれは、彼女の戦いの証だ。もしも同じような傷が残るとしても、必要とあれば、何度でもまた戦ってみせるだろう。

 その傷跡の刻まれた胸を大きく膨らませて、キラは桜の香りを含んだ空気を吸い込んだ。そうしてゆっくりとそれを吐き出して、歩き出す。


 向かう先は循環器内科の外来だ。一ヶ月に一回の定期診察は、彼女にとってうっとうしいどころか楽しみの一つでもある。

 通い慣れた院内を進んで、循環器内科受付のすっかり顔馴染みになった事務員に笑顔で声をかける。そして、待合室で待つことしばし。

 いつもキラの診察は午前の診察枠の最後に入れられているから、彼女の他にほとんど患者はいない。


 予約の時間を二十分ほど過ぎて、キラの名前が呼ばれた。彼女は『楽しみ』が待っている診察室の扉を、開く。


「先生、こんにちは」


 ひょこりと中を覗くと、カルテの画面を見つめていた清一郎せいいちろうの視線がキラへと向けられる。微かに細められた目は、彼女のほんのわずかな変化も見逃すまいとしているようだった。

 鋭い眼差しはいつものことなので、キラは構わず椅子へと腰を下ろす。

「特に変わりはないか?」

「全然。胸痛も動悸もありません」

「そうか」

 頷きながら、清一郎が聴診器を取った。注意深く心臓の音を聴いている彼の顔を、本人が気付いていないのをいい事に、ここぞとばかり、キラはジッと見つめる。好きな人をこんなに間近で凝視できるのは、患者の特権だ。


(そう言えば、先生ってばまだ『約束』果たしてくれてないんだけどなぁ……)

 固く引き結ばれた薄めの唇を見て、キラは胸の内でこっそりとぼやいた。


 清一郎とは、時々、診察室の外でも逢う。

 彼がいつ呼び出されるか判らないし、キラの身体のこともあるからあまり遠出をすることはできないけれど、映画を観たり、食事をしたり。


 もちろん、二人きりだ。

 たまにキラの家で両親を交えて食事を摂っていくことはあっても、基本的には、二人きり。


 けれど、あの時、手術に臨む前に彼女がした『お願い』は未だに叶えられていない。病院の外で逢っていても手をつないでくれるのがせいぜいで、それだって、特別なものは感じられない触れ方だ。大事にしてくれているのは伝わってくるけれど、必要以上に『深い』触れ方はしてこない。言うなれば、父親や兄弟のような、感じ。

 キスをしてくれる雰囲気になることなんて、ほんの一秒すら、ない。

 もっとも、彼にしてみたら、手術に臨もうとしている彼女に対してその場しのぎの言葉を口にしただけだったのかもしれなかった。


(まあ、当たり前か)

 年の差は十八歳、経験値にはその倍以上の差があるに違いない。

 いくらもうじき二十歳になると言っても、彼からすればキラは子どももいいところだ。


(もうじき二十歳っていうことは、つまり、まだ二十歳にもなってないってことなんだよね……)

 年齢以上に『オトナ』な清一郎が、そんな気になってくれるわけがない。

 とは言え、そんなふうに自分に言い聞かせても、目の前の澄ました清一郎の顔が少しばかり憎たらしくなる。

 そんなキラの心中を知る由もない清一郎が聴診器を引いて、彼女はこっそりため息をつきつつ服を整えた。


「問題は無いな」

 短くそれだけ言って、清一郎はキーボードに指を走らせる。

 キラは、彼がカルテの記載と処方の入力を終わらせて、彼女の方に向き直るのを待った。

 いつもであれば、この後次の予約の日程が決められて、ちょっとおしゃべりをして――清一郎の予定が空いていれば外で逢う約束をして――終わりになる。

 清一郎の椅子が、ゆっくりと回った。


 キラは彼がカレンダーを見ながら「次の予約は」と切り出すのを待つ。

 ――待った、けれど。


 キラの方に身体を向けた清一郎は、黙ったまま、微かに眉間に皺を寄せて彼女を見つめている。

「……なんですか?」

 首をかしげて尋ねてからも、少し間が開いた。

「――明日、誕生日だな」

(覚えてくれてるんだ)

 キラは、思わず笑顔になる。同じ誕生日でも、明日は特別な誕生日なのだ。

「はい。二十歳になるんです。ふふ……しぶといでしょ?」

 おどけてみせたけれども、清一郎は渋い顔のままだ。いや、渋いというか――

(何か考え込んでる?)

 キラが二十歳になったら何か検査をするとか新しい治療をするとか、何か考えていたのだろうか。


(あ、もしかして)

 キラがこの部屋に入ってきた時に清一郎が見ていたのは、先に検査してきた彼女の心電図の結果だった。前から不整脈はあったけれど、それが悪くなったのかもしれない。

 となれば、思い付くのは一つだ。

「植え込み型除細動器《ICD》、そろそろですか……?」

「え?」

 ためらいがちに問いかけたキラを、清一郎が眉をひそめて見返してきた。いかにも意外そうに。

「や、だって先生、難しい顔をしてるから」

「難しい顔……ああ……」

 彼は唸るようにそう言って、更に渋い顔になった。


 そして、また無言。


 清一郎がこんなふうに口ごもるなど、あまりないことだった。

 もしかしたら、何かよほど良くないことを切り出せずにいるのだろうかと、沈黙が延びれば延びるほど、それに比例するようにひたひたとキラの胸の中に不安が満ちてくる。

 しばらく待ったけれどもやっぱり清一郎は黙ったままで、キラをジッと見つめてくる。

「……あの……?」

「僕と結婚して欲しい」

 おずおずと声をかけたキラに被せるようにして発せられた清一郎のセリフが、彼女には一瞬理解できなかった。


「…………――は?」

「僕と、結婚して欲しい」

 まるきり同じことを二度言われれば、流石に頭にきっちり入ってくる。けれど、やっぱり、理解はできなかった。


 キラは目を白黒させながら何とか何かを言おうとするが、頭と舌がうまく回らない。

「や、でも――」

「先に婚姻届を出すか? 式が先でその後届出でもいいのか?」

「ちょっと、ちょっと待ってください」

 慌てて清一郎を遮るキラに、彼がムッとした顔になる。

「僕では嫌だと?」

「そうじゃなくて……」


 これが普通の展開だとは思えない。

 何か色々、言わなければならないことがある筈だ。けれどあまりに唐突な展開に、キラの頭がついていかない。何をどう言えばいいのか、さっぱり思い浮かばなかった。なので、かねてから胸の奥底にあったものが、ポロリと零れてしまう。


「わたし、『普通』じゃないんですよ? 『普通の奥さん』には、なれないんですよ?」

 自分で言っておきながらちょっと悲しくなるけれど、それが事実だった。

 が、身を切るような思いでいるキラに、清一郎は眉をひそめて問い返してくる。


「普通、とは?」

「それは……旦那さまの世話をやいたりとか、赤ちゃん、とか……」

「それが君にとっての『普通』なのか?」

 いかにも何でもないことのように訊き返されて、キラは逆に戸惑う。

「だって、そうでしょう?」

 首をかしげておずおずとそう確認したキラを、清一郎は真っ直ぐに見つめてきた。慰めも、ごまかしもない眼差しで。


 そうして、いつもの、事実だけを述べる口調で続ける。

「僕は別に世話をやかれる必要はない。自分の遺伝子を残すことにも拘りはない。ただ、君が毎朝目覚めるところをこの目で確かめることができればそれでいい。君と逢わない日は、落ち着かないんだ」

 淡々とした彼に言葉を失って、キラはハクハクと口を開け閉めする。


 確かに、キラと清一郎は病院の外でも逢っている。デートと言ってもいいかもしれない。

 だけど、その『デート』は、せいぜい手をつなぐくらいで恋人めいたことなどこれっぽっちも無かったしろものなのだ。

 清一郎がそんなつもりでいたなんてキラは一度も感じたことはないし、彼だってそんな素振りを見せたことが無いはずだ。


(でも、もしかして、わたしが気付いてなかっただけなの?)

 チラリとそんな疑惑が胸に湧いて、キラはこれまで清一郎と過ごした日々を思い返してみたが、やはり彼女の勘違いではない――多分。


「いつ、から、そう思ってたんですか――?」

 恐る恐る尋ねたキラに、清一郎は表情一つ変えずに答える。

「君が手術をした時、目覚めを待っている間に決めた。君が成人するのを待って伝えよう、と」


 ぽかん、と、彼を見つめてしまう。

 つまり、たっぷり二年、だ。少なくとも二年間、少なくとも月に二、三度は逢っていたのに、彼はそんな素振りをおくびにも出さなかったのだ。


「でも、先生、そんなこと今まで全然……」

「僕は、僕の方から女性を誘ってどこかに出かけたことはない」

 きっぱりと言い切った清一郎にとっては、それが答えらしい。


 が。


(――それって、女の人から誘われてだったら、行ったことがあるっていうこと……?)

 何となく、ムッとしてしまう。

 その顔を誤解したらしく、今日キラがこの診察室に入ってから初めて、清一郎が怯んだように視線を揺らした。

「やはり、僕とは結婚したくないのか?」

 がっかりしているように見えるのは、キラの願望だろうか。それとも、本当に、清一郎は彼女に拒まれてショックを受けているのだろうか。


「でも、先生、ただ心配なだけで結婚していたら、大変なことになっちゃいますよ?」

 少しでも軽く見えるようにと、キラは笑顔でそう言った。だが、彼はいかにも不満そうに眉をひそめる。

「心配なだけ?」

「はい――」

「そんな理由で結婚は申し込まない。僕は君を愛している」


「……はいぃ?」


 凄いことをサラッと言われ、キラは頓狂な声をあげてしまう。途端、清一郎がムッとした顔になった。

「何故そんな反応なんだ?」

「他にどんな反応を見せろと?」

 彼女が即座にそう返すと、清一郎は眉間に深い溝を刻む。

「……とにかく、返事は?」

(今ここで、しろって言うの?)


 確かに、キラは清一郎のことが好きだ。


『特別』に。


 けれど、長年胸に秘めてきたその想いを一生彼に告げるつもりはなかったし、ましてや彼が自分のことを特別に好いてくれているだなんて、夢にも思っていなかった。そんな嬉しい空想は、しないようにしていたのだ。


(先生が、わたしのことを? でも……)

 両想いであったことの嬉しさよりも、彼が自分のことを想ってくれていたということに、微かな恐怖を覚えてしまう。

 手に入らないからこそ、楽しい思いだけをしていられたのに。

 たいていの夢は、叶うと嬉しい。けれど、これは怖い。


「どうなんだ?」

 言葉が見つからないキラに、いつもの彼らしくなく、急かしてくる。

 キラは、断らなくては、と思った。

 彼女の未来に清一郎を突き合わせるわけにはいかないのだから。彼には、もっとちゃんとした、永く、そして彼と同じ歩調で未来を歩んでいける女性が相応しいはずだ。

 お荷物にしかならないキラではなくて。


「でも、だって……」

(わたしが先生と一緒になってはいけない理由、理由は――)

「わたしは、……わたしの方が、早く――」

 キラが最後のその一言を口にするより早く、清一郎が彼女を遮る。

「死ぬ、か? だが、君の身体が完全に治ったら? 確かに、今の医療では難しい。だが、十年後には何か手立てが見つかるかもしれない。僕は人が神に成れないことは身に染みて良く解かっているが、人の科学の力は信じている。科学は、人がより良く生きられるために存在するんだ。今は治せない病も、いつかは克服できる。もしも君が五年後に健康になれば、その時は、僕の方が先に死ぬ。男の方が平均寿命が短いし、僕の方が君よりも遥かに年上なのだから。君は、僕が君よりも早く死ぬからと言って、僕と共に生きることを拒むのか?」

「そんなことはない! ない、けど……」

 普段無口な彼が立て板に水の如く滔々としゃべるから、とっさにそれだけは返したものの、キラは二の句を継げなくなった。


 こんなふうに言われて、心の底から彼と一緒に居たいと願っている彼女に、どんな拒絶の言葉を口にできるというのか。


 清一郎がキラの手を取る。握らず、彼の掌の上に彼女のそれをのせて、ほんの少しだけ微笑んだ。

「僕は、毎朝君が目覚めるその時に傍にいて、毎朝目が開くことを確認したい」


 ほんの少しだけだけれども、はっきりと判る、疑う余地のない、微笑み。

 言っていることは診察での問診か何かのようなのに、そんな微笑みを見せてくるなんて。


 キラは胸の中で呻く。

(ずるい。ずるいよ、先生)

 ここぞという時に出してくるそれは、反則だ。


「で、いつにする?」

 滅多に見せてはくれない彼の笑顔に、キラの思考回路が麻痺する。


「……なんか、最初に出会った頃と、キャラが違い過ぎです」

 ようやくそれだけ言うと、彼は肩をすくめて返した。

「だとしたら、変えたのは君だ。君と出逢うまでの三十五年間、僕は変わらなかった。それがたった三年間――いや、君と出逢ってからの半年そこそこで、三十五年間変わらずにいた僕が、変わってしまった」

「う……ごめんなさい……?」

 謝るのは何かが違うような気がしたけれども、キラは他に何と言っていいのかも判らず、そう口にした。


「何を謝る? 僕は今の僕に満足している」

 二人は椅子に座ったままで、その距離は変わらない。けれど、なんだか、キラはジワリジワリと追い詰められているような気がしてならなかった。


「キラ?」

 名前を呼ばれてびくりと肩が跳ねる。思わず手を引こうとしたら、すかさず彼の手が閉じて、握り締められた。


「で、返事は?」

 まるで、いつもの「調子は?」と尋ねる口調そのもので、清一郎が迫る。


 キラが口にできる答えは、一つしかない。

 そのたった一つの答えを返した時の清一郎の笑顔は彼が今まで見せたことのないようなもので、それはキラの胸の中にある宝箱に入れられたものの中で、一番大事な宝物になったのだ。


本編はここでおしまいです。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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