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束の間の別れ-2

「循環器内科のたきです」

 名乗った清一郎せいいちろうに、雨宮あまみやキラの母親は微かな笑みを浮かべながら、深々とお辞儀を返してくる。てきぱきとした、と言えば聞こえがいい、本音を言えばかしましいという表現の方がしっくりくるキラとは打って変わって、たおやかで穏やかな物腰だ。

 十年経てばキラもこんなふうになるものだろうかとぼんやりと思いつつ当の少女の方に目を走らせると、彼女は妙な顔をしていた。悪戯でも見つかったかのような、「しまったな」とでも言っているような顔、と称したらいいだろうか。


(母親と会わせたくなかったみたいだな)

 そう思って、清一郎はそれもそうかと内心で頷いた。

 きっと、普段からやんちゃをしているのだろう。

 ここはしっかり母親にも言い含めておかなければと、彼はキラの母に視線を戻す。と、彼女は清一郎にやけにきらきらしい眼差しを向けてきた。

「循環器の先生もこの子を診てくださってらっしゃるんですか? キラの母の雨宮裕子あまみやゆうこです」

 妙に何かを期待されてしまっているようだが、裕子のその言葉に、清一郎は一瞬返事に詰まった。


 彼は正式に雨宮キラの担当になったわけではない。いずれ彼女は循環器内科に移ってくるのだから、清一郎が希望すれば循環器内科としての主治医を受け持つこともできるだろうが、基本的には彼女はまだ小児科の患者だ。

 普通なら、こんなふうに会いに来ることなど、ない。

(……なら、何故僕はここにいるんだ?)

 そんな義務はないのに、カラフルな病棟の中で場違いな思いをしてまで。

 そう考えて、清一郎はムッと唇を引き結んだ。

 彼は常に考え、先が見えてから行動するタイプだ。後付けで理由を考えることなど、滅多にない。いや、物心が着く頃までさかのぼって考えてみても、自分の行動に疑問を抱いた記憶はなかった。

 自分自身に対して「何故」と問い掛けたのは、多分生まれて初めてだろう。


「あの……?」

 ムッツリと黙りこくった清一郎に、キラの母親の顔が、曇る。そして、見る見るうちに朗らかな雰囲気は払しょくされ、代わって手で触れることができそうなほど色濃い不安が彼女の体中から発散され始めた。

(……何だ?)

 唐突なその変化が解せなくて、清一郎は眉をひそめる。そんな彼の反応が、更に裕子の不安を助長したようだ。小刻みに唇を震わせ始める。

「循環器の先生がいらっしゃるなんて、何か、検査結果によくない事でも?」

 震える声で問い掛けてきた裕子に、清一郎は首を振る。

「いえ、そんなことは――」

「もしかして、退院が延期になったんですか?」

「いえ――」

「では、いったい、何が……」


 まるで余命が一ヶ月だとでも聞かされたかのようなその反応に、清一郎は更に眉間に皺を寄せた。取り敢えず何か建設的な事を言った方が良さそうだと判断し、おろおろとした彼女を遮るようにして、口を開く。

「検査は問題ありませんし、今日の退院は小児科の主治医から話があった通りです。変更はありません。ただ――」

「ただ!?」

 悲壮な、裕子の声。

(なんでこんな反応なんだ?)

 予想外の展開だった。清一郎としては、退院前に軽く釘を刺すだけのつもりだったのだが。


 裕子の背後でキラが口をパクパクとさせて声無く何かを言い、次いで左右の人差し指をバツの形に交差させて口元に当てているのが視界の隅に映ったが、母親の方から目を逸らすことができない彼はそのまま続ける。

 告げたのは、当たり障りのない台詞だ――当たり障りがない筈だった。

「いえ、ただ、退院してもきちんと安静を守らせるように、と」

「! やっぱり、結果は良くなかったんですね!?」

(何故、そうなる?)

 裕子の取り乱しように、清一郎は本格的に戸惑い始めた。


 彼が診ている患者は、酒や煙草に運動不足――自らの不摂生から病むものも多い。そんな彼らは、どんなに口を酸っぱくして禁煙禁酒を指示してもへらへら笑うばかりだ。そこまで能天気ではなくても、経過が慢性的な為か、病状説明などをしていてもそれほど悲壮感漂う状況になることはあまりない。

 確かに、深刻な病状説明をした時には本人や家族が泣き崩れることはある。だが、今は単に安静を守るようにと言っただけだ。こんなふうに廊下での立ち話で済んでしまうような内容だというのに、何故こんなに大ごとになってしまったのか。

(別に、明日死ぬとか言ったわけではないだろうが)

 彼の台詞にどんな反応があるかが予測できず、清一郎は眉をひそめて裕子を見下ろす。

「ねえ、先生――」

 更に裕子が詰問を重ねようとした時だった。


「ママ」

 母の背後から、キラがそっと声をかける。振り返った裕子に、まるで彼女の取り乱しようなど気付いていないかのように、あっけらかんとした笑顔と共に言う。

「ママ、ほら、岩崎先生だって、いつもわたしにおとなしくしているようにって、言うでしょ? それと同じだよ。大丈夫だって、いつもとおんなじ」

 満面の笑みで「ね?」と小首をかしげながらキラが言う。裕子の表情は清一郎からは見えない。だが、母に注がれるキラの眼差しは優しく、強く、まるで母子の関係が入れ替わったようだった。

 娘の言葉に、一瞬置いてふっと裕子の肩から力が抜けたのが、背後からでも見て取れる。


「ええ、そう、そうね。いつもおっしゃってるわね……」

 気の抜けたような、呟き。

「でしょ? あ、そうだ。わたし、まだ部屋片づけてないや」

 母親の緊張が緩んだところで、キラがすっぱりと話題を切り替える。唐突だがさりげないその言い方に、裕子は何の違和感もなく乗り換えられたようだ。

「あら、仕方がない子ね。いいわ、ママがやるからゆっくりいらっしゃい」

 にこやかな声でそう言った裕子が、クルリと振り返る。そこには最初に顔を合わせた時のような穏やかな笑みが浮かんでいた。この世の終わりかと思わせるような悲壮な嘆きは雲散霧消している。

「瀧先生、この子の事、よろしくお願いしますね」

「はい……」

 そうとしか答えようがなくて、清一郎は頷きだけを返した。裕子はもう一度ニコリと微笑み、来た道を戻っていく。


 母の背中を見送っていたキラが、彼女の姿が見えなくなった途端に振り向いた。その目がギロリと清一郎を睨み付けてくる。

「もう、先生ってば。ウチのママは敏感かつ繊細なんだから、うかつな事言っちゃダメですよ」

「たいしたことは言っていない」

「中身はそうですけど、先生、顔が怖いんですもん。……なんかもったいない」

「はあ?」

 清一郎はムッとする。そんな彼にキラが呆れたような眼差しを向けた。

「ほらぁ、その眉間。さっきだって、そうやってそこにふっかい溝ができてましたよ。なんか滅茶苦茶深刻な話ししてるみたいに。ライトな話題なんだから、見た目ももっとライトにしてなくちゃ」

 キラが指差した『ここ』とは眉間だ。清一郎は彼女に指摘された溝を更に深くして、返す。

「今まで、診察態度で苦情を言われたことはない」

「皆さん、気を遣って黙ってただけじゃないですかぁ?」

「患者が? 医者に、気を遣う?」

 清一郎にはキラの理屈が解からない。医者はボランティアで患者を診ているわけではないのだ。医者は診察し、その対価として診察代を貰っている――言うなれば患者は『客』のようなものだ。

「そんな必要はない」

 断言した清一郎に、キラはわざとらしいため息をつく。


「先生、解かってないなぁ。お医者さんって、わたしたちの命綱を握ってるようなもんでしょ? そりゃ、気を遣うに決まってるじゃないですか」

「……君がそうしているようには、見えないが?」

 こんなにずけずけ言っておいて、それで『気遣っている』とはとうてい思えない。

「そうですかぁ?」

 そう言ってケロリとしている彼女は空惚けた様子だ。と、思っていたら、不意に真面目な顔になる。たった今まで目の前にいた幼げな少女が、その一瞬で変わった。


「でも、もっと顔、変えた方がいいですよ」

 急に大人びた雰囲気を身にまとったキラに、清一郎は即座に反論を口にすることができなかった。黙りこくったままの彼を真っ直ぐに見つめながら、キラが続ける。

「おんなじことを言ったって、表情一つで全然感じ方が違ってくるでしょ? きっとみんな、ホントはすっごいドキドキしながら先生の前に座ってるんだよ」

 そう言って、彼女がニコリと笑う。

「『大丈夫だよ』っていう言葉も、眉間に皺寄せて言われるのと笑顔で言われるのとじゃ、全然違うもの。怖い顔して『大丈夫』って言われたって、え、何か隠してる? って思っちゃいますよ」


 一回り以上も年下の少女に得々と語られると、何となく気に入らない。

 清一郎はキラとは対照的にニコリともせず、言う。

「甘い顔をしていたら、患者は言うことを聞かないだろう」

「そういう人には、先生のその怖い顔でガツンと言ったらいいですよ」

「……君のことだ」

「わたし?」

 キョトンと目を丸くしたキラを、清一郎は彼女が言うように眉間に皺を寄せて見下ろす。

「屋上にいたじゃないか」

 彼のその短い台詞に、キラは得意げな笑みを浮かべた。

「それは、岩崎先生から一階分までなら階段使ってもいいって、オッケーもらってますもん。第一、心臓がドキドキしなければいいんでしょ? ちゃんと心拍数測りながら動いてますから。それはもう、亀みたいにゆっくりと」

 言いながら、キラは腕時計を着けた手首を目の高さまで持ち上げてひらひらと振る。

 清一郎が一つ言えば、キラからは十倍になって返ってくるようだ。


(まったく。何だって僕はこんな面倒な子どもに関わり合ったんだ?)

 片手で握っても余りそうな細い手首を見下ろしながら、清一郎は胸の中でぼやく。外見は能面のように無表情かもしれないが、内心は渋面だった。

 そう、キラは子どもだ。まだ十七歳――清一郎の半分の年だ。

 それなのに、何故こんなふうにやり込められているのか。

 何か、納得がいかない。

「ちょっと、悔しいとか思ってます?」

 その声でキラに目をやれば、彼女はどこかいたずらめいた眼差しで彼を見上げていた。したり顔の彼女に頷けるわけもなく、清一郎は医者として患者にかけるべき言葉をバカの一つ覚えのように繰り返す。

「安静を守るように」

「可能な範囲で、了解です」

 ピッと敬礼を返してくるキラ。

 微妙な敗北感を覚えているような気がするのは、きっと清一郎の気の所為だ。

 踵を返して彼女に背を向けると、清一郎はその場を後にした。


   *


 循環器内科の先生は、ずいぶんと真面目な人のようだ。

 遠ざかっていく大きなその背中を見送って、キラは何となく笑ってしまう。

 主治医の小児科の岩崎先生もにこやかとは程遠いけれど、それでも患者をリラックスさせる時には表情を緩めるし、微笑みもする。特に、一年ほど前に結婚してからはずいぶんと表情が柔らかくなった。

(瀧先生を笑わせるのって、結構大変そうだよね)

 そう言えば、とキラは記憶を手繰り寄せる。裕子が来る少し前に、あの堅苦しい唇がほんの少しだけほころぶのを見た。あれは多分笑っていたのだと思う。

 キラは踵を返して病室に向かいながら、あの時彼はいったい何を考えていたのだろうと首を捻った。

 そして、あの堅苦しい人が声を出して笑ったら、どんなふうなのだろう、とも。

 瀧先生は、大きな人だ。

 物理的に。

 キラはつくづくそう思う。最初に清一郎を見た時は、少し圧倒された。

 白衣を着ていても、正直、あんまり『お医者さん』には見えない。

 身長百五十二センチのキラよりも、多分余裕で三十センチは高いだろう。内科の先生はどちらかと言うとヒョロッとした印象があるけれど、彼はずいぶんとがっしりしていた。最初に屋上で会った時に抱え上げられた彼女には、それが脂肪ではなく筋肉でそうなっているということが判っている。


「お医者さんより、消防士とか自衛隊とかの方が似合いそうだよねぇ」

 呟きながらその制服を身に着けた彼を想像し、あまりにしっくりくるから思わず笑ってしまう。

 顔だって、整っているけれど――正直、カッコいいと思うけれど、目付きは鋭いし唇はギュッと引き締めたままだし、全然医者らしくない。

 それでも、あんなにいかめしくて愛想がないのに、清一郎について考える時に思い付くのは『護る』職業ばかりだ。

(そういう意味では、お医者さんもぴったりなのか)

 そう思って、またフフッと笑った。

 キラは、自分には人を見る目があると自負している。

 彼女自身は小さい頃からあまり動けなかったから、その分、動く人たちをよく観察していたのだ。

(あんなだけど、瀧先生って優しいよね)

 そうでなければ屋上でたまたま出会った一患者など放っておくだろう。

 今日だって、わざわざ様子を見になんて来なかったはずだ。


「損、してるよなぁ」

 自分の言葉で取り乱した裕子を前に戸惑っていた清一郎を思い返した。

 大抵の人は、あんなふうになった母に面倒くさげな目を向ける。

 ちょっと出かけた時なんかでも、キラが咳を一つしようものなら裕子は大騒ぎをするのだ。そういう時、周囲の人は母に「何この人」と言わんばかりの目を向ける。

 けれど清一郎は、あんな剣幕で食って掛かった裕子にも、嫌な顔はしていなかった。ただ、困惑していただけで。

「別に、主治医でも何でもないんだから、そのまま投げ出しちゃっても良かったのに、ね」

 彼はそうしなかった。生真面目に、ちゃんと裕子に話をしようとしてくれた。

 ――ものすごく、困った顔をしていたけれども。

(もっと笑えばいいのに)

 ふとキラは、そうした彼を、見てみたいと思った。


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