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君が目覚めるその時に  作者: トウリン
本編

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微かな陰り-2

 循環器内科病棟のある六階から非常階段を下りていた清一郎せいいちろうは、四階の踊り場で足を止めた。その階には、小児科病棟がある。

 彼は腕時計に目を走らせる。

 今日は仕事を終えるのが、ずいぶん遅くなってしまった。時刻はもう二十二時をまわっていて、消灯時間を過ぎている。

 昼にキラの電子カルテを覗いて岩崎いわさきの記載に『感冒症状あり』とみつけてから、一日中気が気でなかったのだ。だが、救急で心筋梗塞の患者が入ったり、病棟の患者が急変したりと、どうしても昼間には彼女の様子を見に来る時間が取れなかった。

 検温表のバイタルサインは、特に異常を認めていない。岩崎が出している処方も指示も、キラのそれはあくまでもただの風邪であって、重症ではないことを示している。

 それでも、心配でならなかった。

 呼吸と循環は密接につながっているから、キラのような心疾患を持っていると、ちょっとした呼吸器の感染症でもガタガタと状態が悪くなることがある。『ただの風邪』と高をくくっていると、痛い目に遭うのだ。


 消灯時間を過ぎて訪室することは、良いことではない。


 だが。


(少しだけなら……)

 寝ているところでも、キラが何ともない姿を見ておきたい。

 少し迷って、清一郎は非常扉を押し開けた。

 静まり返った廊下を足音を殺して歩き、彼女の病室へと向かう。

 他の病棟なら本を読んだりテレビを観たりしている患者も多い時間だが、流石に小児科病棟なだけあって、皆ベッドサイドの灯りを消して眠りに就いているようだ。清一郎は薄暗い非常灯を頼りにキラのベッドまで進む。

 耳を澄ますと、カーテン越しに静かな寝息が聞こえてきた。


 一瞬、清一郎は躊躇った。

 十七歳の少女の寝ているところを覗いてもいいものだろうか、と。

 だが、キラは患者だ。医者がその状態を確認するのは、変なことではない。医者が患者を心配する――それだけのことなのだ。

 そう自分に言い訳じみた真似をして、清一郎はカーテンに手をかけ、そっと開ける。

 ベッドの上の膨らみはとても小さくて、否が応にもキラの身体がいかに華奢かを清一郎に知らしめてきた。彼女は鼻先まで布団にもぐっていて、見えているのはふわふわの髪に包まれた頭と目くらいだ。今、その目蓋はしっかりと閉じられていた。

 彼はしばしそこに佇み、そして静かに窓枠の出っ張りに腰を下ろす。


 キラの表情は穏やかで、息苦しそうな様子はない。バイタルサインを映し出しているモニターも、安定している。

 無事なキラの様子をその目で確認し、この一日清一郎を責め苛んでいた不安や焦りが徐々に鎮まってくる。

 波のように規則正しく繰り返すだけの彼女の寝息に耳を傾けているのが、不思議なほどに心地良かった。

 だが、しばらく眺めていると、今度はその静かさに、清一郎の胸の中にはまたふと不安が込み上げてくる。

 キラに触れてその温もりと柔らかさを確かめたくて、指先が疼いた。清一郎は両手を組み合わせることで、その衝動をこらえる。


(彼女は、眠っているだけだ)

 その眠りを妨げるようなことがあってはならない。

 清一郎は目を閉じてゆるゆると息を吐き出し、組んだ両手に力を込めた。


 と、その時。


「……あれ?」

 不意に聞こえた小さな声。

 パッと目蓋を上げると、布団の陰から覗いている大きな目と視線が合った。

「せんせい?」

 囁きのようなかすれた声での呼びかけは、寝ぼけているのか不明瞭だ。舌足らずなその口調に、清一郎の胸は温かな手で握り締められたような奇妙な痛みに襲われる。それは確かに痛みに近いものだったが、不快ではなかった。

「ああ。……悪い、起こしたか」

 清一郎は身体を屈めてキラに顔を近づける。その台詞を耳に入れていても頭に届けるまでには至っていないのか、キラは彼の謝罪に応えることなく、ぽつぽつと独り言のような呟きを続けた。


「うれし……せんせいにあえた……」

「会いに来た方が良かったのか?」

 自分なんかに会ってどうするのだろうと眉をひそめながら、清一郎は問いかける。と、彼が質問していることを果たして理解しているのだろうか、キラはふにゃりと微笑んだ。それは、幼い子どものように無防備で安心しきった笑みだった。

「ん……あいたいな……」

 不明瞭に、だが確かにそう言うと、彼女はまた目を閉じとろとろと眠りの中へと潜っていく。

 耐え兼ねて、清一郎は手を伸ばしてしまった。指先でキラの髪に触れ、こめかみのあたりをそっと掻き上げる。そのまま手のひらを柔らかな頬に沿わせた。


 温かい。

 その温かさに、ホッとする。

 と、清一郎の気持ちが緩んだのを感じ取ったかのように、キラの唇が綻んだ。そして、声無く何かを呟く。

 清一郎は耳を寄せたけれども、その呟きを聴き取ることはできなかった。

 暗がりの中、身を屈めたまま彼はジッとキラの寝顔を見つめる。

 彼女の髪の柔らかさと、頬の滑らかさと、寝息の穏やかさと。

 それらを感じながら、清一郎はその全てを守りたいと思った。キラの全てを、存在も、未来も、何もかも。


 患者を助けたいと思うのは、いつものことだ。

 だが、他の多くの患者に感じるものとは、何かが違う。

 他の者には触れたいと思ったことはないし、こんなふうに胸が苦しくなるような切迫感を覚えたこともない。

 キラと、他の患者――その間にある違いは何によるものなのか。

 清一郎にはあともう少しで解かるような気がした。目の前に答えはぶら下がっている、けれど、薄い紗がそれを目の当たりにするのを妨げているような、そんな気が。


 清一郎は名残惜しさを振り切って、そっと手を離す。腰を起こして真っ直ぐに立ち上がると、最後にもう一度、彼女の寝顔を見下ろした。

 キラは、生きている。

 そして、これからも――

「君は、生きる」

 夢の中にいるキラに、そして彼自身に言い聞かせるように、囁く。

 またしばらく彼女を見つめてから踵を返し、清一郎は静かに病室を後にした。


   *


 遠ざかっていく足音。

 キラは微かに頬に残る温もりの心地良さにうっとりとしながら、微笑んだ。

 こんな時間に清一郎が来るはずがない。

 だから、これは夢だ。

 それは判っているけれど、たとえ夢の中ででも清一郎に逢えたことが嬉しかった。

 ――だいすき。

 うつつから遠ざかりながら、キラは夢の中の清一郎が触れてくれた時に囁いた言葉を繰り返した。

 そう、多分、きっと、わたしは先生が好き。

 その短い一言を本当に声に出すことはないだろう。

 その気持ちはまた胸の奥にしまいこんでおくべきなのだ。

 それは成就してはいけない想いなのだから、もしも万が一叶ってしまったら清一郎を悲しませてしまうだけの想いなのだから。

 目が覚めたら、大事に大事に封じ込めておくべきものなのだ。

 ふわふわとした微睡の中で無意識のうちにそう自分自身に言い聞かせ、キラは再び深い眠りの中へと沈み込んでいった。


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