束の間の別れ-1
小児科病棟は別世界だった。
その世界に一歩足を踏み入れかけて、清一郎は一瞬立ち止まる。
名前はわからないが恐らくアニメのキャラクターだろうと思われるイラストが壁のあちらこちらに貼られており、五月だからだろうか、ナースステーションにはミニチュアの鯉のぼりが置かれている。
何となく他の病棟よりも照明が明るいような気がするし、何より、雰囲気がうるさい。
清一郎が普段過ごしている循環器内科の病棟は、いつも静まり返っている。聞こえるものといったら患者に着けてあるモニターが立てる電子音か、ナースが押すワゴンが転がる音くらいだ。
それに比べて、なんだろう、この騒々しさは。
その違いに若干の気おくれを感じながらも、清一郎は廊下を行く。
彼が『処置室』と書かれている部屋の前を通りかかった時だった。
「やぁだぁ!」
いったいどんな拷問を受けているのかと思わせるほどの絶叫が聞こえてきた。思わず清一郎は足を止めたが、それは一瞬でピタリと止む。廊下には処置を受けている子どもの母親らしい女性が立っていて、眉をひそめている清一郎に気付くと、彼女は苦笑した。
「もう、あの子ってば、いつもあんななんです」
それにどんな答えが返ることを期待して彼女は清一郎に声をかけてきたのか。
無言のままで見返す清一郎に、女性の笑顔が心持ち引きつった。
多分、彼の外見のせいもあるのだろう。上背がある上にがっしりしているので、どうやら対峙した相手に威圧感を与えてしまうらしい。
微妙な沈黙。
つい、と女性の視線が逸らされたのをきっかけに清一郎が立ち去ろうとしたところで、処置室の引き戸がガラリと開いた。中から一歳ほどの子どもを抱いた看護師が現れる。子どもは本当に先ほどの叫び声を上げたのと同じ子かと疑うほどケロリとした様子で、看護師の首にしがみ付いている。
まだ年若い、どこか幼い感じのするその看護師は、母親に向けてニッコリと笑顔になった。
「はぁい、シンちゃん、お母さんだよ。頑張ったねぇ」
子どもの顔を見た瞬間に母親の頬が緩んだ。一見平気そうにしていたが、やはり心配だったようだ。
「きかん気な子で、スミマセン」
「いぃえぇ、すごく強かったですよ。ねぇ、シンちゃん、頑張ったもんねぇ」
看護師が笑いながらそう言うと、子どもはコクリと頷いた。
(あの雄叫びは何だったんだ?)
清一郎はそう突っ込んでやりたくなる。
満面の笑みで看護師が子どもを母親に引き渡すのをしり目に、清一郎はナースステーションに入った。そこは流石に他の病棟と大差なく、何となく彼はホッとする。
清一郎は患者の部屋割りが映し出されているパネルに目を走らせて雨宮キラの部屋を確認し、そこへ向かう。
あの少女の情報には、医局の電子カルテで目を通しておいた。
雨宮キラは生後六ヶ月で発症した拡張型心筋症の患者だ。現在は内服でコントロールできており、今回の入院は検査の為だとカルテには書かれていた。主治医によると本日退院となっている。
彼女は、今回のデータでは小康状態にあるが、近いうちに弁膜症や不整脈に対する手術が必要になってくるのは確実だし、最終的には心臓移植をしなければならないだろう。
つまり、今現在死にそうなほどの重篤な状態というわけではないが、階段の上り下りなどはもってのほか、という状態ではあるのだ。
彼女はまだ小児科の扱いで循環器内科の正式な患者ではないから、循環器内科内での主治医はいない。本来頼まれてもいないのにこうやってわざわざ清一郎が足を運ぶ必要はないのだが、こんな状態の患者が階段を移動しているという事態は見過ごすわけにはいかなかった。
清一郎は、雨宮キラがいる筈の病室を覗く。
が、いない。
彼はムッと眉間に皺を寄せた。
(また、どこかをうろついているのか?)
退院するとは言え、歩き回るのは良くないだろう。患者への指導はどうなっているんだと、清一郎は苛立ちを覚える。
病棟は『ロ』の字型になっていて、今彼が通ってきた北側の通路には彼女の姿を見なかった。今度は南側の通路に向けて歩き出す。それでもいなかったら、小児科の主治医に釘を刺しておかなければ。
雨宮キラの主治医は清一郎と同年代の岩崎一美という男だ。清一郎は職場で仕事以外の会話を交わすことが殆どないが、岩崎とは食堂で会ったりすると雑談をすることもある。
岩崎は患者に甘い顔をする医者ではない。医者の指示に従おうとしない患者も多いが、彼ならその辺りをキッチリさせている筈だ。
確かに今回の結果を見る限り、雨宮キラの全身状態はかなり良好にコントロールされている。だが、少し手綱さばきを誤れば、ガタガタと悪くなってしまうだろう。
そんな患者が病院内をうろつくなど清一郎からしたらもってのほかだが、岩崎は彼女の行動を知っているのだろうか。
(それとも、よほど厄介な患者なのか?)
清一郎は、屋上での短いやり取りを思い出す。
雨宮キラの減らず口は巧みだった。
それに、小さい頃から病弱で甘やかされていれば、我がままにもなるだろう。
そんなふうにつらつらと考えて、ある一画に差し掛かった時だった。
「ガオォッ」
「キャアッ」
突然の雄叫びと、歓声。
清一郎はピタリと止まった。
次いで、ちょっと待て、ここは病院だろう、何故そんな声がしているんだという思考がパッと彼の頭の中をよぎっていく。
声のした方に視線を流せば、まず廊下とその奥の空間を仕切る衝立が、次いでその衝立の上からニュッと覗いた二本の腕が目に入る。
近付いて見てみると、衝立の向こうは畳三枚分ほどの広さがあって、ちょっとした本棚やおもちゃなどが置かれていた。
病院の中とは思えないカラフルな色どりで溢れたそのほぼ真ん中で、中腰で何かに襲いかかろうとしているかのように両手を掲げた雨宮キラと、その前にズラリと並んだ五、六人ほどの子ども達、という光景が繰り広げられている。キラは廊下に背を向けていて、清一郎には気付いていない。
「……何をしている?」
眉根を寄せて低い声でボソリと問いを発すると、クルリとキラが振り返った。
「あ、瀧先生」
彼を認めて、元々浮かんでいたのだろう笑みが更に明るく、パッと太陽が照ったように輝く。患者から――いや、誰かからそんなふうに笑いかけられた経験がなかった清一郎は、そのあけすけさに一瞬たじろいだ。
清一郎はわずかに顎を引き、気を取り直して尋ねる。
「……君は安静指示が出ている筈だろう?」
その彼女が、何故子ども達の相手をしているのか。
解せない。
だが、清一郎の渋面を全く気にせず、キラは笑う。
「この時間はいつもは萌ちゃんが子ども達に絵本を読んであげるんですけど、何か処置の手伝いに呼ばれちゃって……代わりにわたしが」
確かに、彼女の足元には絵本が広げられていた。だったら、あんな身振り手振りなど入れずにおとなしく座って読んでいたらいいだろうに。
そんな苦言が出そうになったが、自分は主治医ではないのだからと押さえ込み、別の台詞を口にする。
「萌とは誰のことだ? 保母か?」
「違いますよぅ。看護師さんです。絵本読むのすごくうまくて、みんな楽しみにしてるんですけどね」
「君はもう絵本を楽しいと思う年ではないだろう。君も患者だ。患者は患者らしくしておけ」
眉間の皺を深くしてそう言った清一郎の声音が厳しいものだったせいか、キラの周りに群がる子ども達の顔から次第に笑顔が消えていく。
何となくそわそわし始めた彼らの空気を察したのか、キラがそちらに振り返った。
「あ、大丈夫だよ。顔コワそうだけど、優しいおじさんだから。もうちょっとしたら萌ちゃん来るから、少し待っててね」
朗らかな声。
しかし、そこに細かな棘が感じられたのは清一郎の気の所為ではあるまい。
バイバイと子ども達に手を振るキラは見るからに慣れた感じで、きっとしょっちゅうこんなことをしているのだろう。
衝立の裏に脱いでいたスリッパをつっかけながら廊下に出てきた彼女は、清一郎から一歩ほど離れたところに立って彼を見上げた。だが、その位置だと思いきり首を反らせなければ目を合わせられないことに気付いたのか、もう一歩分、後ずさった。
(のけ反らずに話すには廊下の端と端に立たないとだろうな)
そう思うと、清一郎の口元は何故かピクつきそうになる。その奇妙な感覚に、彼は手を上げてそこに触れてみたが別に何もない。
目の前の少女のことから考えが外れるとその感覚はきれいさっぱり消え去った。
(何だったんだ?)
清一郎は内心で首をかしげたが、下からかけられた呼び掛けに我に返る。
「ねえ先生、子どもの前なんだから笑顔くらい作ってくださいよ。怖がっちゃうじゃないですか」
「僕は子守じゃない。医者だ」
「それは知ってますけど」
そう言ったキラは腕を組み、平らな胸を張っている。
態度は偉そうなのに、全然、偉そうに見えない。
普通にしているのに尊大だと言われる清一郎とは、正反対だ。
(これは、あれだ……チワワ、だったか?)
――目が大きくて小さくて足を踏ん張っている。
何かで見かけた小型犬の姿が、今のキラに重なった。
「ちょっと、何笑ってるんですか?」
「……笑う……?」
清一郎は眉をひそめた。
「自覚ないんですか? 何かすっごい失礼なことを考えてたんじゃないかなって気がするんですけど?」
キラが、「もう」と言わんばかりに小さなため息をこぼした。そんな彼女の埒もない不満には取り合わず、清一郎は医者としての言葉を投げる。
「君はもう少しおとなしくしておけ。だいたい、何で病棟の中に遊び場なんてあるんだ? 入院しているからには、皆病人だろうが」
「先生たちが許可を出した子は、プレイルームで遊べるんです。ベッドの上だけじゃストレス溜まるでしょ? QOLってやつですよ」
絵本なら各自ベッドの上で読めばいいではないか。
得々と語るキラに、清一郎はそう返してやりたくなる。
わざわざ遊び場を作る理由が清一郎にはさっぱり理解できなかったが、小児科には小児科の方針があるのだろう。病棟のやり方に口を出すつもりはない。
若干ずれてしまった話の流れを、清一郎はまた元に戻す。
「他の子どもはいいとして、君はもっとおとなしくしておくべきだ。だいたい、君が子守をする必要はないだろう」
「好きでやってるんです。第一、患者って言ったって、わたしは今日退院ですし。そもそも検査の為の入院だったんですから。普段の生活とそんなに変わりのないことしててもいい筈でしょ?」
清一郎は、キラのその台詞に引っかかった。
(彼女は『普段の生活』と言った。つまり、普段から階段を使っているということか?)
納得いかない。
「主治医と話す必要があるな」
ボソリと、彼が呟いた時だった。
「あら、ここにいたのね」
キラの背後、廊下の先から近付いてきた一人の女性がそう声をかけてきた。年の頃は四十前後というところか。
清一郎が見たことのないその女性は、彼らの方を――いや、真っ直ぐにキラを見つめながら歩いてくる。髪を揺らして振り返ったキラが、明るい声で応えた。
「ママ」
確かに、二人はよく似ていた。
母親の方はすらりと背が高いが、顔立ちはそっくりだった。だが、その目の中にはキラにはない暗い影がある。キラの屈託のない明るさが、母親には微塵もなかった。
キラの前まで来た彼女は、ホッとしたような笑みを浮かべて娘を見下ろす。と、ふと気が付いたというように清一郎に目を向けた。
「あら、こちらは……?」
清一郎は目の前にいるのに気づかれないほど存在感のない男ではない。空手の有段者でもあり、筋肉質な体躯はがっしりとしており上背もある。常日頃『威圧的』と称されている彼が身にまとう空気は、否が応にも人目を引くらしい。
そんな彼であるにも拘らず、キラの母の視界には本気で入っていなかったようだ。まるで、娘以外は存在していないかのように。
(何となく、危うげだな)
そんな印象を抱きつつ、清一郎は会釈を返した。