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プロローグ~君との出会い

 臨終間近なその患者が入れられているのは、個室だった。

 ベッドに横たわっているのは、恰幅のいい七十代の男性。心筋梗塞で倒れ、ありとあらゆる手が尽くされ一度は回復の傾向を見せたものの、ついに限界が訪れたのだ。

 彼の最期を看取る為に、さして広くもない部屋の中に、患者の妻、兄弟、娘と息子、孫――十人近くが詰め込まれている。

 室内に響いているのは、そろそろ付けている意味がなくなってきた心電図モニターが出す単調な電子音と、懸命に抑えられた微かなむせび泣き。


 私立霞谷病院しりつかすみだにびょういん循環器内科に身を置く瀧清一郎たきせいいちろうは、看護師に目配せをしてモニターの電源を切るように合図をした。

 心電図の波形は完全にフラットになっているわけではない。命を失った心臓が思い出したように発する電気信号の残滓を捉えてはいる。

 しかし、それに意味はないのだ。この患者の心臓は、もう血液を送り出してはいない。

 まだ年若い看護師が顔を強張らせながらモニターの電源に手を伸ばすのを待って、清一郎は呼吸器の接続を外し、患者の手首で脈を取り、聴診器を胸に当てた。

 当然、呼吸音もしなければ心臓の拍動も聞かれない。


 そんなのは判り切っている。

 それは目の前に横たわる男の死を家族に告げる為の、儀式のようなものに過ぎない。


「十時三十八分。ご臨終です。ご愁傷様でした」

 いつもの所作といつもの台詞。

 清一郎はよどみなく口にして居並ぶ家族に向けて頭を下げる。途端に、すすり泣きが号泣に変った。妻は動かなくなった夫にすがり付き、娘は父の冷たい手をさする。

「お口の管を外しますね」

 進み出た看護師がそっと声をかけて、気管チューブを固定しているテープを剥がしにかかった。

 経験が浅い彼女のその目は潤んでいる。チラリと目を走らせれば、『死』を経験させようと同席させた研修医は、あからさまに頬を濡らしていた。

 二人のその様子に、清一郎は苛立ちを覚える。


「後は頼む」

 彼は看護師に声をかけ、もう一度家族に一礼して部屋を出た。

 清一郎は隠れ喫煙所としている屋上に足早に向かう。

 この苛立ちをいなすには、一服するのが一番だ。

 ああやって臨終の席で看護師や研修医――医療スタッフが泣くことは、清一郎には我慢ならないことだった。

 彼ら医療従事者は患者の友人でも家族でもない。ただ、患者の長い人生の中のほんの短い期間、治療をし、世話をしただけの存在だ。

 それなのに、何故涙を流すのか。

 力不足を腹立たしく思う悔し涙なら、解かる。

 だが、そうではない。

 そうではないのに身内でも親しい間柄でもない彼女たちが泣くのは、単なる『もらい泣き』に過ぎないのだ。

 哀しみ悼むのは、遺族たちの特権であり、ろくに知りもしない者が同調していいものではないと、清一郎は苦々しく思う。

 そうやって、患者の死に立ち会っても涙一つ見せない彼の事を冷血人間だと眉をひそめる者もいるが、清一郎は構わなかった。

 医者の――医療従事者の仕事は患者の為に泣くことではない。

 患者の命を助けることだ。

 そう思うからこそ、余計に、ああやって患者の家族の前で涙を見せることに苛立ちを覚えるのかもしれない。

 何故なら、患者が死ぬということは、本来の職務を全うできなかったということだから。

 役割を果たせなかった者に、泣く権利など有りはしないのだ。


 循環器内科の病棟がある六階から非常階段を七階分上がり、清一郎は屋上へと続く扉を押し開けた。途端、五月の爽やかな風がサァッと吹き寄せる。

 無意識のうちに深呼吸をして、清一郎は一歩を踏み出した。

 院内は空調で充分換気されてはいるが、やはりどこか少し息苦しい。こうやって外の空気を吸うと、それと一緒に気分も入れ替わる気がする。

 清一郎はフェンスまで行き胸ポケットから煙草を取り出した。屋上は喫煙場所ではない。院内禁煙が徹底されていないと病院機能評価に影響するとやらで、見つかれば当然叱責される。

 だが、彼以外に屋上に出てくる者など、いやしない。

 清一郎が、くわえた煙草にライターで火を点けようとした時だった。


「敷地内禁煙じゃないんですか?」

 明るく響いたその声に、彼の手が止まる。パッと振り向いた視界には、誰もいない。

「こっちこっち、もっと上、ですよ」

 クスクス笑いを含んだ声に導かれて視線を上げてみれば、高置水槽の上でブラブラと脚を揺らしている少女に行き着いた。彼女はイタズラしている男子を発見したかのような眼差しで、清一郎を見下ろしている。

「循内の先生ですよね? 見つかったら怒られちゃうんじゃないですか?」

「……君は?」

 年は十四かそこらくらいだろうか。下から仰いでいるから何とも言えない。少女は清一郎を知っているようだが、循環器内科の入院患者は全員把握している清一郎の方には、少女の記憶はなかった。

(小児科の患者か?)

 年齢からすれば、そうだろう。彼女が身に着けているオレンジ色のパジャマは、病院のものではない。持ち込みのパジャマを着る者は、入院慣れしている患者が殆どだ。きっと、どこかで彼のことを見かけたに違いない。


「ここへの患者の立ち入りは禁止されている」

「煙草吸うのも禁止されてるんじゃないんですか?」

 即座に繰り出された反撃に、清一郎はムッと押し黙った。

「……取り敢えず、そこから下りろ。そこは特に、立ち入り禁止だ」

 慣れた様子の彼女がそこから落ちるとも思えないが、病院の中にいて怪我をさせるわけにはいかない。

 清一郎の言葉に今度は抗うことはせず、少女は身軽く梯子を伝って下りてきた。

 トットットッと病人のくせに身軽く寄ってくると、彼を見上げてにっこりと笑う。肩にかかるかどうかという長さのフワフワしたくせ毛が、柔らかそうに風で揺れた。


 少女の背丈は清一郎の鳩尾くらいまでしかなく、予想以上に小柄だった。それに痩せている。せいぜい小学校高学年か、いっていても中学生だろう。

 清一郎は一瞬そう思ったが、目を細めて彼女を観察するうちに、考え直す。

(華奢なのは、病気のせいか)

 確かに体つきは色々な意味で幼いのだが、彼女の眼差しは違った。

 入院患者の割にやけに生き生きとしたその目は、少なくとも小学生のものではない。その目の輝きだけが、奇妙に大人びていた。


「先生、循内の瀧先生でしょ? わたし、雨宮キラ」

 微かに見開いた目で、「知らないの?」と言わんばかりに清一郎に問いかけてくる。

 雨宮キラ。

 その名前には、聞き覚えがあった。パッと、清一郎の頭の中に幾つかの情報が浮かんでくる。

 確かに小児科入院の患者だが、最近になって循環器内科のカンファレンスで名前が挙がるようになったのだ。

 年は十七歳――生後六ヶ月から小児科にかかっているからそのまま持ちこされてきたが、今後のことも考えて、ぼちぼち循環器内科への移行も考えたいと小児科から相談されていたのだ。

 本人の姿はまだ見たことがなかったのだが――


「十七、歳?」

 思わずマジマジと彼女を見下ろして呟いた清一郎に、彼女がムッと唇を尖らせる。

「まだ成長期なんですよ。これから育つんです!」

 少女の憤慨にツッコミを入れそうになったのは自重した。代わりに眉間に皺を寄せて医者として言うべきことを言う。

「今回は検査入院と聞いているが……君は安静にしておかないといけない筈だ」

「安静にはしてますよ。十二階まではエレベーター使いましたし、残りの階段もメチャ時間かけて上りましたもん」

「階段を使うことそのものが禁止されていないか?」

「少しは息抜きしないとストレスが溜まって余計に良くないです」

 つんと顎を上げてそう言った彼女に、全く悪びれた様子はない。


 まったく、口の減らない子どもだ。


 清一郎は煙草をしまう。いつの間にか、それをやりたい気持ちが失せていた。

「吸わないんですか? わたし、誰にも言いませんよ?」

 首をかしげた少女の台詞は無視する。そうして軽く身を屈め、片腕で腿の後ろをすくい上げるようにして、彼女を抱き上げた。

「きゃッ!?」

 清一郎は小さな悲鳴と共にぐらりとのけ反った彼女の背中をもう片方の手で押さえて、自分の肩口に押し付ける。白衣の肩甲骨の上あたりをギュッと握り締めてくるのが感じられた。

「先生、下ろしてよ!」

 抗議の声は無視して、屋内へのドアへ向かって歩き出す。

「せめて、お姫様抱っこで!」


 ――その要求も、無視した。


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