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理想的な死に方

作者: ひらこ

理想的な死に方


 ピーチク、パーチク囀るように笑いあう高校生のバイトの子たちを、酒井結衣は冷めた目で見ていた。皆、あんなに何が楽しいのだろう?高校の教室でも、女の子はみんなあんな風にかたまって楽しげにお喋りしている。結衣はそんな輪の中に入らず、一人席に座ってドストエフスキーだの、ニーチェだのの文庫本を読んでいた。(私が人生を知ったのは、人と接したからではなく、本と接したからである)アナトール・フランスの言葉は全くその通りだと思う。結衣は、都立高校に通いながら、近所のスーパーでアルバイトをしているが、高校教師も、バイト先であるスーパーオリーブのパートのおばさんたちも、全くの俗物にしか思えない。面がいいだけの男の子の話しかしないクラスメートやバイトの子たちは更にたちが悪いと思う。必要のあるとき以外は、結衣は人に話しかけない。遊びに誘われても、そんな無駄な時間を割くくらいなら、家で『カラマーゾフの兄弟』の続きを読みたいと思う。当然のように、彼女は教室でもバイト先でも浮いていた。


 結衣が友としているのは、本と、あとひとつ、バイトしたお金を全部つぎ込んで買ったパソコン。誰も入れない自分の部屋で、電源を入れ、眠っていたパソコンが起動するとき、結衣は親しい友と久しぶりに会ったときのような喜びを感じる。ネットサーフィンをし、様々な価値観を持った雑多な人たちの考えに触れることで、結衣は叫びだしたくなるような存在の孤独を紛らわしていた。


 ネットの中でだけ、結衣は人に対して積極的になれた。普段は嫌悪している意味のないおしゃべりも、ネットの上では楽しめた。それはネットの中では顔が見えないから、人に対する恐怖心を掻き立てられないですむからだ。結衣のネットの中でのハンドルネームは「ツバサ」。チャットをするとき、結衣はもう一人の自分であるところのツバサになりきった。人生を生きるとは、自分という主人公を演じることだ、と結衣は思う。誰も本当の自分なんてわからない。こうでありたい私。理想の私。それがツバサだった。「失恋しちゃった」という、ハンドルネーム赤ずきんちゃんに「人は傷ついて成長するものです。きっともっといい出会いという未来のために今少し辛いだけよ」とアドバイスしたり、ツバサは結衣と違って人を愛することのできる、大人で明るい女性だった。


 結衣は最近、ツバサの名で、ホームページを持った。背景に踊るドクロを仕込んだ、それは高校生にしては立派なホームページだった。そこに、結衣はこんな文章を載せた。

「誰か私を殺して下さい。私は死にたい死にたいと思いながら、今まで生き続けてきました。この呪われた人生に終止符を打ちたいのです。しかし自殺する勇気は私にはありません。私は、私の愛する人に殺されて死ぬのが夢です。誰か私を殺して下さい。そして私を愛して下さい」

いたずらメールはいくつも来た。うっとうしいことに、「命を大事にしろ」云々書いてきた金八先生もどきのおじさんもいた。

 そして、書き込みをして半月も経った頃、結衣の気に入るメールが一通届いた。((くれない)の馬)と名乗るその青年は、「僕だったら、ツバサさんの願いを叶えることができるかもしれません」と書いてきた。さっそく結衣は紅の馬にメールを返した。幾度かそんなメールのやりとりをした後、日曜日、二人は渋谷のハチ公前で待ち合わせて会うことにした。


 風がもう冷たかった。ハチ公前は待ち合わせの人でいっぱいだった。結衣は紅の馬が着けてくると言った十字架のペンダントを探した。「私は探す必要はないと思う。ビジュアルメイクをしているから」結衣はよくビジュアル系のバンドの人たちが好んでするような、目の縁取りを大きくとった目立つ化粧をしていて、黒いロングコートを着ていた。

待ち合わせの時間きっかりに、

「ツバサさんですか?」

と、声をかけてくれる人がいた。年齢は21,2歳、180cmくらいの長身で、優しげな涼しい目をした男の人。十字架のネックレスをしていた。

「はい。紅の馬さんですか?」

「良かった。会えて」

そう言って笑った顔がとても身に沁みるほど素敵で、結衣はこの人になら私の命を預けられると、一瞬のうちに思った。それは恋という感情によく似ていたかもしれない。

寒いのでとりあえず入った喫茶店でミルクティーを飲みながら、(困ったな)と結衣は思った。小さい頃から人見知りで、人付き合いが苦手で、目の前の人が親戚のおじさんでも、結衣は緊張してしまうのだ。それが、恋人候補、しかもとても格好のいい人となると、もうどうしてよいのかわからない。

「(紅の馬)って言うから、きっと馬面の人が来ると思った」

結衣が言うと、紅の馬は、

「ハハハ、馬面の方が良かったかな?単に馬が好きなんですよ。あと、宮崎駿の『紅の豚』、あれに出てくる豚がすごく格好いいんだ。ああいう男になりたくて」

「馬が好きって、乗馬でもするの?」

「いや、父が競馬が好きで、小さい頃父にくっついてよく馬を見に行って。風を切って颯爽と走ってゆく馬の姿が好きなんだ」

「人間に従順な動物は私は好きではない。誇りある野生の生き物が私は好きです」

言ってみて、結衣は真っ赤になった。(ほらね、私、空気が読めない。いつも人を傷つけてしまう)

 しかし、紅の馬は笑って、

「そうだね。僕も従順な犬より自由な猫の方が好きだよ」

と、言ってくれた。そして二人はポツリポツリと好きな音楽、小説、趣味、首都移転をどう思うかなどについて話した。二人は最後まで(ツバサ)と(紅の馬)のままだった。でも結衣は彼に好感を持った。帰り際、結衣は訊いた。

「私と付き合いたいってことは、どういうことかわかってる?」

紅の馬は至極真面目に肯いた。

「いつか君を殺すこと」

そんな風にして二人の交際は始まった。


(デビルマンレディ最近変わったと思わない?)

(うん、何か明るくなった)

(何かあったのかな?)

デビルマンレディとはバイトの子たちが結衣につけたあだ名である。結衣は協調性がなく、問題ありだが、接客態度は丁寧で、お客様の評判も良い。それが最近、笑顔まで見られるようになったので、みな驚き、不信に思った。

結衣は全くの他人であるところのお客様にはいくらでも優しく愛想良くできるのだった。一緒に働いている人たちに冷淡なのは、たぶん、自分のことを深く知って、嫌われるのが怖いから。本当の自分を知って、それを否定されるのが怖い。自分が嫌われる前に、相手を嫌っていることにする。

(君が私を拒む前に私が君を拒む)

結衣はいつもそうすることで、ともすれば傷つきやすい、弱い自分を守ってきた。クラスメイトやバイトの子たちのいるような、暖かい、明るい世界がどこかにあるのはわかっていた。けれど、結衣が生まれついたのは寒さに凍てつく冬だった。真っ白い冷たい雪に慣れたこのかじかんだ手には、夏の光はあまりにも眩しすぎた。


 命を預けてしまった気楽さからなのか、結衣は紅の馬にだけは心を開いて話をすることができた。

「どうして死にたいの?」

紅の馬は結衣に訊いた。

「私は存在する意味のない子だから」

「どういうこと?」

「私はなりたいものなんて何もない。生きていることに喜びよりも苦悩を感じる人間なの。そんな人間が生きていて何の役に立つかしら?可愛い牛や鶏の命を奪ってまで生きていていいのかしら。親が悲しむ?そうね。彼らは何も考えていないから。子供さえつくったら生きている意味はあったと思っているような人たちだから。私は人の親になりたくない。自分でもわからないものを、人に背負わしたくない。

あなたは・・・何故私を選んだの?」

「僕は3歳からヴァイオリンを始めて、音大に通っていた。けれど、大学2年のときに左手の人差し指が動かなくなった。人生を賭けたコンクールの前の日のことだった。それからは、そうだね、肩を壊した野球選手、声が出なくなった歌手、精神を病んだ東大生なんかと同じ道を辿ることになった。学校にも行かなくなり、家で引きこもって、ひとりパソコンを友に生きていた。そして君に出逢った。こんな僕が役に立てるなら、何でもよかったのかもしれない。死にたいのに死ねない、苦しんでいる女の子の存在を知り、それはどんな苦しみだろうと思った。僕もまた、ただ生きているだけの、生ける屍でしかなかったから」

 紅の馬の影を知った気がして、結衣は心が痛かった。

「ねえ、水族館行こうよ。落ち込んだときはいつもあそこに行くの」

結衣が誘って紅の馬と水族館に行った。初めてのデートらしいデートに、結衣の心ははしゃいだ。一面水色の世界。深い海の底に迷い込んだような静けさ。色とりどりの魚が水槽の中で群泳している。結衣はここが好きだった。

「私の両親は私が中学生のとき、離婚したの。私はバイトしながら学費を稼いでいるけれど、高校を出たら就職しなければならない。私よりもずっと頭の悪い子が、大学に行く話なんかを嬉々として喋っているのに。私には夢も希望もなかった。   

回遊する魚は、ある時突然、そこにいることが 居心地悪くなって、どこかに移動しなければならない。(ココニイテハイケナイ)と思って故郷の川を目指すのね。私も同じ、(ココハ私ノイルベキ場所デハナイ)と、思う。けれど帰る場所なんて何処にもない。そんな場所さへあったなら、流れに逆らってでも泳いで、辿り着いて、そこで死んだって構わないのに。子供の頃、父と母と過ごした今はもうない、あの家に、いつか私は帰りたいと思うのかしら?悪い記憶のほうが多いのに」

「ヴァイオリンの音は海鳴りの音にどこか似ている。心の中で今も鳴っているその音は現実には聴こえない。居場所も同じ、心の中にだけ存在しているのかもしれないね」

紅の馬はいつも優しい。(この人になら、殺されてもかまわない。いや、この人に殺されたい)いつか結衣はそんな風に思い始めていた。


 いつもは嫌いなクリスマスの喧騒も、今年は楽し気に感じられた。街で光る電球、大きなツリーに、白髭のサンタ人形。どれも大嫌いだったのに、一年に一度くらい、こんな日があってもいいんじゃないかと思えてしまう。不思議だった。そう思える自分が。自分が変わってゆくのが怖くもあった。このまま紅の馬と恋愛ごっこが続けば、ありふれた家庭を持って、七面鳥をオーブンで焼き、暖炉の前で家族でケーキを取り分ける――そんな夢を見てしまいそうで怖かった。

自分が今まで拒否し続け、封印していた(普通の幸せ)という欲望の中で安住してしまうことは、敗北することだと思った。今までの自分を否定することだと。

なのに、クリスマスソングに胸躍らせる自分がいる。早くしなければ。早く死ななければならない。そんな焦燥感が結衣を襲った。結衣は紅の馬にメールを打った。

「12月24日、クリスマスイブに私を殺して下さい」

返事はしばらくしてきた。

「わかった。24日、午後7時にハチ公前で会おう」

紅の馬は私を殺すことを承知してくれた。自分が自分の信念を貫き死ねることが結衣にはうれしかった。


 24日は誰もがとびきりのおしゃれをして、カップルが囁きあいながら、人の流れをつくっていた。間断なく流れ、交差し、すれ違ってゆく人々の流れは、川のようだと、結衣は思った。黒く光る、夜の濁流。

待ち合わせの場所に、やがて紅の馬は現れた。黒いコートに出逢ったときにしていた、十字架のペンダントをしていた。聖夜にふさわしい、と結衣は思った。

二人はしばらく何も言わずに歩いた。

(恋人たちはとても幸せそうに手をつないで歩いているからね 

まるで全てのことが上手くいっているかのように見えるよね

 真実はふたりしか知らない)

 浜崎あゆみの曲に、そんな歌があった。私たちも幸せそうなカップルに見えているのだろうか。明日を共に迎えることはもうない二人なのに。紅の馬はずっと硬い表情だった。いつも結衣の前では、穏やかで大人だった紅の馬。

けれど彼は本当はこういう人なのかもしれない。学校へ行かず、ひとり部屋でパソコンに向かいながら、私を見つけ出した彼も、死に限りなく近づいた存在だったのかもしれない。

予約がいっぱいの店やホテルに入れるはずもなく、結衣は紅の馬とそこそこ評判の店の豚骨しょう油ラーメンを食べた。それから、人の波に逆らわないように、どんどん下流へと下り、怪しげなネオンきらめくラブホ街を歩いた。

 二人目指すのは何処なのか?私たちは死への道を確実に歩いている。自分が死んだ後、恋人であるこの男は殺人犯として逮捕されるのだろうか。紅の馬を愛しているのかどうか、結衣には確信はなかった。ただこの人は自分の最期を看取ってくれようとしている。自分に近づこうとしてくれている。その安心感が殺伐とした結衣の心にぬくもりを与えていた。

 途中で紅の馬は量販店でナイフを買った。そしてピンクのベットのある、安いラブホに入り、二人はそっと別れの挨拶のような、軽い口づけをかわした。結衣はその陶酔感にくらくらとする甘い感傷をもった。けれど、それ以上は結衣は許そうと思わなかった。それ以上進んでしまったら、今まで守ってきた自分が粉々になって崩れ落ちてしまいそうな気がした。それは結衣には死よりも怖いことだった。


 けれど、なぜか、紅の馬は持っていたナイフを床に落としてしまった。

「どうして?」そう訊く結衣に、紅の馬は言った。

「もう、大分前から僕は君のことを殺すことができないとわかってしまった。それは本当にツバサのことを愛しているからだ。愛している人に殺されるなら本望だと君は言うだろう。けれど、本当に愛している人の存在をこの世から消すなんて、誰にもできない。僕のものにならなくてもいい。ツバサが幸せで、何処かで生きていて欲しい。君が不幸で死にたいというのなら、僕が助けてあげたい」

「ダメなの、死にたいの。約束が違うわ」

「君は新しい価値観を身に着けることが怖いだけなんだ。僕もそうだった。まるでヴァイオリンが僕の全てであるように思っていた。けれど君に会い、不器用だけど真っ直ぐな君を見て、君のために生きることもできるんじゃないかと、思えたんだ。大丈夫。僕がいる。二人で河を登ろう、ツバサ。僕の本当の名前は手塚裕史という。きみの名は?」

「テヅカヒロシ」

そんな人は知らない。そして自分が紅の馬という青年のことを、何も知らなかったことに今更ながら、気づかされる。そして、本当に自分が望んでいたのは、かじかんだ手を温めてくれる誰かの手であったということも。

 そうだ。ツバサは確かに今日死んだ。

「私の名前は酒井結衣」

 震えながら結衣は言った。外は雪だろう。海は荒れているだろう。それでも二人なら生きてゆける。遠くで海鳴りの音がするような気がした。それは彼の内側で響くという、ヴァイオリンの音なのかもしれない。私の居場所はきっとこの人の隣なのだ。そしていつか雪は止み、春は来る。結衣は眩しげにテヅカヒロシという愛しい人の目をみつめた。

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